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「れいわ新選組」報道を妨げる「数量公平」という呪縛──公正か、忖度はあるのか

ニューズウィーク日本版 / 2019年7月19日 19時0分

言えるだろう。多くの放送局では、選挙期間になると責任者名で、扱いに注意しましょうといった内容のお触書が回る実態がある、と聞く。

――テレビ局の方たちと話すなかで、現場がどんどん「忖度」するようになっているという空気を感じるか。

選挙だから特に気にする、ということはないと思う。私が出演した番組で特別にそんなことを気にしていたとは全く思わない。それは思わないのだが、全体的に見ると放送局が息苦しくなっているというところはあると思う。息苦しさというのは、官邸を気にしているとか、行政指導を気にしているというよりも、文句がつくと面倒だ、ということだろう。

――文句というのは、政府から文句がつくということか。

政府はあまりないかもしれないが、自民党かもしれないし企業かもしれないし、視聴者・聴取者かもしれない。視聴者がある面では一番「面倒」かもしれない。メールや電話でクレームがくると、対応しなければならない。私の感覚では、ただでさえ人が少なくて忙しいなかそういうクレームを避けたいと考えているように思う。それよりも、本当に戦わなければいけないところで戦いましょう、と。

――テレビには、報道番組とワイドショーがある。選挙報道において2つですみわけはあるのか。ワイドショーであれば泡沫候補でも取り上げるが、報道番組では公平性に配慮する、など。

あると思う。報道番組と銘打っているところのほうが、より意識しているとは思う。外形的な公平さを守ろうという意識は、公職選挙法に基づいて報じようということだ。どこかに忖度しているというよりも、それが正しいと思っている、ということだろう。

文句うんぬんの話というより、メディアとしてのありようの話だ。これは今に始まったことではなく、日本のメディアは公平さが大事だと思っている。とりわけ選挙のときには党派性を帯びない、どこかの政党にくみしないという思いが強いため、できるだけ平等にやるのがいいことだと思っている。



――泡沫候補をどう報じるかについて、過去の判例はどう判断しているのか。

1986年2月12日に東京高裁で、ざっくり言えば、泡沫候補は無視してもいいという判決が出ている。一方で、これは「自由に報道していい」という判決だった。



(東京高判1986. 2. 12、判時1184. 70)
有力候補に焦点をあわせ、いわゆる泡沫候補を軽視する選挙レポートの是非が争われ、「選挙に関する報道又は評論について、政見放送や経済放送と同じレベルにおける形式的な平等取材を要求しているとは解し得ない」と判示した。(山田健太、『法とジャーナリズム 第3版』学陽書房、2014年)

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