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「慰安婦」はいかに共通の記憶になったか、各国学生は何を知っているか

ニューズウィーク日本版 / 2019年8月6日 17時40分

グラック教授 ありがとうございます。それぞれの答えから、皆さんが慰安婦について学校やメディアなどさまざまな文脈の中で耳にしてきたということが分かりました。では、慰安婦について皆さんが知っていることとは何ですか。これは「事実」に関する質問です。

クリス 慰安婦というのは朝鮮人女性に限った話ではなく、中国人女性もいた、ということ。慰安婦問題が政治化された後に、議論したり報道したり被害者を支援することに対して韓国政府が抑圧し、そのことが韓国における共通の記憶の形成に直接的な影響を及ぼしたということ。またそれが、何年も後になって被害者たちが証言する上でも影響したということです。

グラック教授 分かりました。ほかにはどうでしょうか。いま皆さんに投げ掛けているのは、「歴史」についての質問です。

スペンサー アジアのいろいろな場所に、日本軍のためのいわゆる「慰安所」というものが存在していたということです。強制性を伴う場合が多かったと......。

グラック教授 なるほど。ほかに、事実について知っている人?

トニー 私が知っているのは、慰安婦だった人たち自身はずいぶん後になるまで、それについて語ることができなかったということです。

クリス 長い時間がかかったということですよね。

ジヒョン 私が読んだ話では、1990年代初めの金泳三政権になって初めて声を上げ始めたと。

グラック教授 金泳三政権の少し前(1991年、盧泰愚政権の時代)でしたが、慰安婦を共通の記憶に盛り込もうとしたのは確かに1990年代初めでした。なぜこのときだったのかは後で話しましょう。ほかに知っている事実について話したい人はいませんか。

クリス タトゥーを「烙印」と見るのは、日本人男性が慰安婦の体にタトゥーを入れたからだと。私はいつもそのように聞かされていました。

グラック教授 誰があなたにそう言ったのですか。

クリス 母です。



グラック教授 あなたは韓国人ですか。

クリス そうです。

グラック教授 あなたのお母さんが、タトゥーの話を教えたのですね。

クリス はい。そのほかにも、コロンビア大学で韓国の女性とジェンダーについての講義を履修していたとき、1990年代末から2001年頃に作られたドキュメンタリー映画を見ました。それ以前にも、中学校のときに発声の先生が慰安婦についてのオペラの脚本を作っていました。

グラック教授 中学校はどこでしたか。

クリス メリーランド州ボルティモアです。

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