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日本近代の歩みとミシガン大学

ニューズウィーク日本版 / 2019年9月24日 12時0分

戦後になると、ミシガン大学は日本研究の中心的な大学となる。日本語教育学校があり、ヤマギワが東方研究プログラムを作っていたこともあるが、非常に重要なのがロバート・B・ホール教授の存在である。ホールは日米関係に重要な役割を果たした社会科学者で、マッカーサー元帥と親交が深く、戦中は中国大陸での政治工作に、そして戦後は日本の占領政策にも深く関わった人であった。彼は新しい発想と政治力を持ち合わせた研究者であり、その広範な人的ネットワークを駆使して、一九四七年に北米初の日本研究センターをミシガン大学に設立した。言語学習から、社会科学理論の習得、そしてフィールドワークというエリア・スタディーズの理想の形はここで形作られ、多くの日本研究者が巣立っていった。中でも米国での日本研究の発展にとって重要であったのが、岡山フィールドステーションの設置であった。

これは、日本研究センター初期の最も野心的なプロジェクトで、戦後間もない一九五〇年に多くのアメリカの日本研究者を岡山に連れてくることとなった。ミシガン大学の教授陣や学生だけでなく、他大学のメンバーもここで長期的なフィールドワークを行い、日本社会の研究を深めていった。物資の不足、本国との通信の不備などの苦労はありつつも、彼らは地元岡山の人々と良好な関係を築き、日本の農村・山村・漁村社会の研究の古典とも言える研究業績をいくつも出した。そうした日本研究への貢献に加えて、戦後間もない日本で多くのアメリカ人が日常的に日本人と民間交流を続けたことは、「勝者」「敗者」を超えた相互理解の可能性を身を以て示した事例でもあった。

岡山フィールドステーションの活動が盛り上がりを見せていた一九五三年には、平成の天皇が皇太子としてミシガン大学を訪れている。歴史の偶然であろうか、一九七四年に米国大統領として初めて日本を訪問したのはミシガン大学出身のフォード大統領であり、翌一九七五年に昭和天皇が終戦三〇年の年にアメリカを初訪問した時に迎え入れたのもフォード大統領であった。



一九八〇年代に入って日米貿易摩擦が深刻な局面を迎えると、デトロイトに近いミシガン大学に所属する日本研究者は、ビッグ3をはじめとする自動車業界関係者から、日本の自動車産業に関する知識を求められるようになる。これを受けて、一九八〇年代には毎年日米自動車会議が開かれ、日米自動車業界の大物たちが政治家や研究者と共に議論を交えることになる。ここでの交流が、激しい貿易摩擦の中、業界のリーダーたちの関係を多少は穏やかにし、日本の自動車産業のアメリカへの工場進出などの新たな展開にも貢献したといわれる。また、この時期以降、アメリカの企業が日本のマネージメントスタイルやものづくりの技術を学ぶ動きが現れ、トヨタ・ウェイやクオリティー・コントロールなどのバズワードがアメリカのビジネス業界を席巻する。明治期にアメリカから多くの技術や知識を輸入した日本が、今度はアメリカに新しいビジネスモデルを輸出する側に立ったのである。外山や小野がこの状況を見たら、いかに感動したことであろうか。

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