なぜここまで書くのか?...遺伝子をめぐる「2つの家族の物語」
ニューズウィーク日本版 / 2023年11月1日 11時20分
<世界的に有名になった家族と研究対象になっていたことすら知らなかった家族...。『アステイオン』98号「明らかにすることは常に良いことなのか──遺伝子診断の問うもの」を転載>
今から10年ほど前、出生前診断の誤診に関する裁判の取材に取り組んでいた私は、ある学会に取材者として参加していた。その頃から日本でも妊婦の血液から胎児の病気の有無を調べる新型出生前検査が始まっていたが、まだ手探り状態だった。
ゲノムを使った検査は出生から病気の治療まで広がっていったが、急速な科学技術の発展に追いつけずに、引き裂かれそうな葛藤をもつ人たちもいた。濁流に流されるだけではなく、足を踏ん張って、リスクを知ることとは何か、命を選ぶこととは何かを考えてみたいと感じていた。
学会では、いくつもの最先端技術が紹介されていた。それらの発表を聞いたあと、私は多くの人で溢れている部屋に立ち寄った。そのセッションは立ち見が出るほど盛況で、発表していたのは東京大学医科学研究所公共政策研究分野教授の武藤香織さんだった。
医療関係者が大半の学会だったため、武藤さんの話すことは異色のように思えた。武藤さんはELSI(Ethical, Legal and Social Issues)と呼ばれる科学技術の倫理的・法的・社会的課題についての研究者である。それはまさに私が今取り組もうとしている課題とも重なっていた。
発表後、武藤さんの前には人々の列が長くできていた。私も列に並んで名刺を差し出した。名刺を見た武藤さんは、私のデビュー作である障害者の愛と生を描いた『セックスボランティア』を読んだことがあると言った。
「私はずっと前からあなたのことを知っていた」
私も同様だった。武藤さんとは、すでに本を通じて知り合っていた。
その日、家に帰った私はその本、『ウェクスラー家の選択──遺伝子診断と向き合った家族』を開いた。著者は歴史学者のアリス・ウェクスラーで、武藤さんと医療社会学者の額賀淑郎さんの2人が訳者だった。武藤さんは著者の家に泊まり込み、日本の読者に届く表現を模索したと書かれていた。
『ウェクスラー家の選択』は、「MAPPING FATE」という原題で1995年にアメリカで刊行され、2003年に日本語に翻訳された。
今読み直してみてもなお、4半世紀以上も前に書かれた本とは思えないほど、現代にも通じる遺伝子検査をめぐる葛藤や遺伝性疾患をもつ家族の苦悩が描かれている。さらに、1冊の本の中に歴史的記述やルポ的な視点、叙情的な家族の物語など縦横無尽に様々な語りや文体が駆使されており、文学作品としての完成度も高く、優れた普遍性をもっている。
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