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「私が死んでいると思ったらしい」...壮絶な拷問を生き抜いた「ロシア軍捕虜」がウクライナ政府に早急に求めるものとは?

ニューズウィーク日本版 / 2023年11月1日 16時5分

アゾフスターリ製鉄所付近の戦闘で重傷を負う前のディデュール COURTESY OF OLEKSANDR DIDUR

<片目の視力と右の指3本と複数の歯を失ったウクライナ兵。捕虜として1年以上も劣悪な環境での虐待を生き延びた今、一番欲しいものについて>

忘れもしない。ロシアがウクライナに本格的な軍事侵攻を始めた2022年2月24日、私は既にウクライナ軍の第36海兵旅団の一員として、後に壮絶な激戦地となるマリウポリの辺りで戦闘任務に就いていた。

戦場で経験したことの中で最も鮮明に覚えているのは、仲間の兵士たちと過ごした時間、プロ意識、そして連帯感だ。そうしたものが、最終的に私の命を救ってくれた。

22年4月16日に私は重傷を負った。マリウポリでの重要な攻防戦が行われ、私を含め、負傷した兵士たちはロシア軍の捕虜になった。

海兵旅団が突破口を開こうとするなか、私は意識を失っていた。だから攻撃を受けたときにどう感じたのか説明することはできない。

戦場で私を発見したロシア兵は、私が死んでいると思ったらしい。だがその後、私が生きている徴候を示したため、アゾフスターリ製鉄所の医師たちは、できる限りの医療的支援をしてくれた。

ロシア軍の捕虜になった後、私は意識を取り戻したが、重傷を負っていたため、周囲の状況を理解することはできなかった。

多少なりとも事態を把握できるようになったのは、ドネツク市内の第15病院に連れて行かれてからだ。

捕虜になって初めて、私は自分の負傷がどれだけひどいかを知った。片目の視力と右手の指3本を失い、左手を骨折し、歯を何本か失い、榴散弾の傷で顔と体の一部がずたずたになり、銃弾の破片がいくつか貫通していた。

当初、私は病院に入院していたが、医療スタッフの態度はさまざまだった。コミュニケーションをあまり取らずに最低限の医療を提供するだけのスタッフもいれば、一貫して負傷者を軽視しようとするスタッフもいた。

22年5月末、私はドネツク州オレニフカの刑務所に移送され、そこで2カ月半を過ごした。職員の態度は我慢できないほどではなかったが、食事はひどいもので、衛生状態は実に悲惨だった。ベッドは粗末で、ろくな毛布もなく、よく眠れなかった。

その後、私は同じドネツク州のホルリウカにある収容所に移された。そこでは殴打や尋問など肉体的・心理的な虐待を受けたが、とにかく耐えるしかなかった。

捕虜交換で解放された後に愛娘と COURTESY OF OLEKSANDR DIDUR

私は冷静さを保とうと努めていたが、あまりにも希望のない状況に打ちのめされ、家にはもう帰れないのではないかと思う瞬間もあった。

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