1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 国際
  4. 国際総合

フィリピンパブ嬢と結婚し、子どもが生まれ、そして知った...フィリピンハーフたちの「母が家にいない」貧困生活

ニューズウィーク日本版 / 2023年11月24日 16時10分

伊藤さんは生後5カ月の頃、フィリピンの祖父母の所に預けられた。言うまでもなく、フィリピンパブで働きながら赤ん坊を育てるのは難しいからだ。しかし病弱だった伊藤さんは1歳のときに熱性けいれんを起こし、再び日本の母親のもとへ戻る。以後は、親子で青森、静岡へと移り住んだ。

母親は昼間は工場、夜はフィリピンパブで働いた。だから「ずっと1人」だったわけだが、小学2年生までは、夜は母が勤めるフィリピンパブの更衣室のような場所で寝ていたという。

小学3年生からは、夜1人で留守番をする生活。深夜0時過ぎまでテレビを見て、母親が帰ってくる午前2時に一度起き、食事してまた就寝。朝になったら学校に登校するという毎日だった。

「母は家にいなかったですね。僕が病気で側にいて欲しい時も仕事に行っちゃう。インフルエンザにかかって死にそうな時も、母はいない。正直、母の愛情は感じたことがないですね」(155〜156ページより)

「死んだと聞かされていた父親が、生きていた」

昼夜なく働く母は家では疲れて寝てしまうため、服を洗濯してもらうこともできず、汚れたままの服を着て行かなければならなかった。すると、服が臭いという理由でいじめが始まり、次第に学校を休むようになった。もちろん、経済的にも生活は苦しかった。

「税金も滞納してたし、電気、ガスは止められてから払う。常にライフラインのどれかは止まってましたね。給食費は6カ月は滞納するし。(中略)とにかく貧乏でした」 木造2階建てのアパート。家賃は2万4千円。障子は破れ、骨組みだけ。家の中はゴミ屋敷で、ゴキブリが湧いていた。 伊藤さんは日本人の父親との記憶はない。母からは「お父さんはお前が2歳の時にトラックの事故で死んだ」と聞かされていた。だが大人になったときに、父親が生きていることを知った。「その時は父を恨みましたね。離婚してなければこんな貧しい生活しなくてすんだのに」(157〜158ページより)

学校で歯の健診に引っかかっても歯医者には連れて行ってもらえなかったため、子どもの頃から虫歯だらけだったそうだ。夜は母が家にいないので、寝るのも遅くなる。朝になって腹を空かせて起きても、母は昼過ぎまで寝ているため食べるものがなかった。それが「普通の世界」だったという。

 シングルマザーとして日本で伊藤さんを育てるフィリピン人の母は、社会から孤立していた。行政に相談すれば、生活保護や児童扶養手当などの支援を受けられたかもしれない。だが、フィリピン人の母親が1人で行政に繋がるのは難しかった。(158ページより)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください