テロ実行犯への同情はなぜ起きるのか?...「五・一五事件」に見る、メディアが拡散した「大衆の願うヒーロー像」
ニューズウィーク日本版 / 2024年4月10日 11時5分
この五・一五事件においても、減刑嘆願運動が広まったのは公判が開始される1933年(昭和8)7月以降(事件発生から約1年後)であった。
公判の前には、事件の詳細に関する報道管制が敷かれ、一般の人びとが被告の主張を詳しく知る術はなかった。暗殺を批判する菊竹六鼓や桐生悠々のようなジャーナリストも存在した。減刑嘆願運動も始まってはいたが、低調であった。特高警察の分析では、大衆には「暗殺行為そのものに嫌悪」感すらあったとされている(『特高月報』)。
公判の開始が、世論の転換するきっかけとなったのは明らかである。では転換の理由は何か。
筆者は、被告の存在とその主張が、大衆の政治に対する不信感や英雄待望の期待と強く共振したこと。被告の主張の喧伝が、当時の軍部の利益となる面があったこと。満州事変を契機に軍とメディアが接近し、軍の意向を受けた報道が容易となったこと、などに注目したい。以下に詳しく見ていこう。
被告の主張への共感には、経済不況の影響がある。先に述べたように、当時の大衆は「暗殺」を賞賛したわけではない。だが第一次大戦後から断続する経済恐慌、とくに昭和恐慌の最中であった1933年には、東北をはじめ各地の農村が疲弊に喘いでいた。農家の次男・三男などを兵卒の供給源とする陸軍は、農村の困窮と社会の矛盾に直面する立場にあった。
首相官邸の襲撃に参加した陸軍士官候補生たちは、法廷で農村の困窮を訴え、無策のままに放漫贅沢を繰り返す「支配層」(政党・財閥など)への批判を繰り返した。他方で殺害した犬養毅首相に私的な怨みをもたず、「支配層」の象徴的存在として斃したと述べた。あくまで天下国家の大義のための公憤が動機だ、と供述したのである。
事件を起こした青年将校・士官候補生たちは、将来を約束されたエリートであった。事件によって彼らの将来は閉ざされる。それでも大義のためには起たねばならない。「金もいらぬ名誉もいらぬ人間」こそが非常時日本に求められると、ある被告は西郷隆盛の『南洲翁遺訓』を引用して訴えた。
私利私欲の利権誘導ばかりが目だつ政党政治に嫌悪感のあった大衆は、被告の主張に驚き、やがて熱烈な支持を与える。被告の動機が「私」ではなく「公」のためと説明されたことで、彼らの主張は拡がりを持ち始めたのである。
みずからの立身出世や生命までも投げうって、世のため人のために起ち上がる。病気の家族に秘して決起に加わる。遺言を残して覚悟を定める。
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