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「立花隆は苦手だった」...それでも「知の巨人」を描く決心をしたのはなぜだったのか?

ニューズウィーク日本版 / 2024年6月7日 9時8分

追悼記事には「事実にこだわる姿勢が極めて強かった」と書いたが、本音をいえば、事実にこだわり過ぎだと思っていた。一つのテーマに邁進し、自分の調査で明らかになった事実を雑誌連載で延々と書いてゆく。

「今回も◯◯について書く」と冒頭で断って、すぐに事実の記述を始める。その文章には愛想も色気もありはしない。立花ほどの大物になれば編集サイドでもコントロールが利かなかったのだろうが、単調に続いてゆく連載記事は読む側としては辟易することもあった。

こうして事実にこだわったために蔑(ないがし)ろにされているのが言葉だと感じた。彼の作品を読んで、そこに描かれている事実の世界は伝わってくるが、彼の言葉自体が意識に残ることはない。

ジャーナリストとはいえ言葉で作品を作る。事実と意見を伝えるジャーナリズムの作品であっても、言葉の作品としても個性が伴うべきではないか。立花は間違いなく不世出のジャーナリストだが、言葉を「道具として」使いはするものの、「言葉そのもので表現」していないと筆者は思っていた。

そんな思いもあって、筆者は立花と距離を取ろうとし、接触の機会をなかば意図的に避けてきたように思う。その証拠に生前の立花に会ったのは、たった2回だけだ。

一度目は、2008年12月13日に東京大学大学院情報学環が読売新聞社と共催したシンポジウム「情報の海~漕ぎ出す船~」において。登壇者としてステージで同席した。立花はインターネットによってアメリカの名門新聞が廃刊になった話をしていた。二度目に会ったのは、それから随分と経った後のこと、地下鉄の神保町駅で、だった。

会ったというのは不正確で、こちらが一方的に目撃した。神保町の書店街で買ったのだろうか、本を大量に入れた紙袋を持っており、読書欲(書籍購買欲?)は相変わらず旺盛らしかったが、大きな紙袋を持つのも難儀そうで、顔つきも見るからに弱々しかった。

その姿を見て、心がざわついた。戦後日本のジャーナリズム史に燦然と輝く業績を幾つも残してきた立花が、活動に幕を引く時期が遠くなく訪れる。そう思って、立花というジャーナリストについてもう一度、その位置づけを確かめておかなければという気持ちが芽生え始めていた。

ただ、スタートがなかなか切れなかった。アカデミック・ジャーナリズム特集への起用が立花論を始めるきっかけになればと目論んだが、不発に終わった。そんなこんなのうちに立花は本当に人生の幕を引いてしまった。

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