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観光客向け「ギャングツアー」まであるロサンゼルス...地図に載らない危険な境界線はどこか

ニューズウィーク日本版 / 2024年7月4日 17時30分

ところが、白人が郊外に引っ越すにつれて(黒人家庭にはとうていできない選択だった)、一部の黒人ギャング同士で対立するようになった。特に、サウス・セントラル・ロサンゼルスのウエストサイド・ギャングは、普段からイーストサイドのライバルを見下しており、社会経済的な境界線をはさんで分断ができあがった。

縄張りとその境界の重要性はさらに高まった。それでも、現在ストリート・ギャングの悪名の原因となっている暴力は、この時期ほとんど見られなかった。戦いの大部分は殴り合いに限定されており、極端なケースでナイフなど金属製の道具が使われるぐらいで、殺人はごく稀だった。

1965年になると、かつての人種対立が再燃した。マーケット・フライという黒人男性とその母親、義理の兄弟が、白人警官と立ちまわりを演じたことが、ロサンゼルス市警(LAPD)と州兵がワッツの街に投入された6日間の暴動のきっかけになった。

その後、ギャングのメンバーの多くが、警察の嫌がらせと残虐行為に立ち向かう2つの黒人至上主義団体、ブラックパンサー党とUSオーガニゼーションに加入したこともあって、ギャング活動は一時的に休止した。

しかし、サウス・セントラル・ロサンゼルスにおける黒人同士の新しい連帯は長続きしなかった。FBIのプロパガンダに惑わされて道を誤った2つの団体は、新人勧誘と支配権をめぐってたがいを敵と見なした。

サウスイースト・ロサンゼルスを中心に、メンバー同士の撃ち合いが何度か行われたが、最も有名なのは、1969年1月17日にカリフォルニア大学ロサンゼルス校のキャンパスで起こった銃撃戦である。その際、ブラックパンサー党の2人の指導者アルプレンティス・「バンチー」・カーターとジョン・ハギンズが死亡した。黒人コミュニティ内で修復困難な分裂が生じ、暴力事件が路上で多発するようになった。

※第2回:クリップスとブラッズ、白人至上主義、ヒスパニック系...日本人が知らないギャング犯罪史 に続く

『世界は「見えない境界線」でできている』
 マキシム・サムソン 著
 染田屋 茂、杉田 真 訳
 かんき出版

(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)

■「危険な」サウス・セントラルはここ。ロサンゼルスの地図を見る

『世界は「見えない境界線」でできている』231ページより

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