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「賢さをつくる」ことはできる...知っておくべき「頭のよさ」のメカニズムとは?【具体と抽象】

ニューズウィーク日本版 / 2024年8月9日 17時50分

「右の頰を打たれたら、左の頰をも差し出しなさい」というキリストの教えは、現実的な日常や日々の感情、つまり《左(具体)》の世界では合理的でないし、実行している人もほとんどいない。

この教えは、抽象化して《右(抽象)》の世界で解釈すると多少の合理性が生まれる。日常生活やその場の感情といった《左》の視点ではなくて、「社会制度」や「道徳」といった大きな《右》の視点に移動することによってだ。道徳や社会制度の面から見ると、この教えはたとえば「暴力に対して暴力で対抗しても問題は解決しない」といった解釈ができる。

具体事例を抽象化することで理解が進む

これなら確かにその通りだと納得できる。殴られたからといって殴り返しているようでは、相手もまたさらに殴り返してくるだけである。暴力の連鎖を止めることは非常に重要である。このように解釈している人は多いだろう。

しかしそれでも、何か釈然としないものも残る。暴力に対して暴力で返すことはよくないが、かと言って、自分の左の頰を差し出してもやっぱり何も解決しないのではないだろうか?

「暴力に対しては言論で返す」とか、何かしら別の行動で対抗したほうが状況が前進しそうな感じがする。マハトマ・ガンディーだって、非暴力ではあったが、綿製品の不買運動をしたり、塩の専売に反対して行進したりすることで、イギリスの暴力的な支配に対抗した。黙って頰を差し出していたわけではない。

イエスの、「右の頰を打たれたら、左の頰をも差し出す」という行動について、《右》の世界で解釈してみると多少理解が進んだ。しかし、まだわからないことがある。だからここで、もっと《右》に進んでみよう。

遠い距離まで抽象化することで非凡な発想が生まれる

「社会制度」とか「道徳」、あるいは「国」とか「法律」というのはかなり抽象的な概念だが、所詮は人間どうしの取り決めである。人間が数千年の歴史でつくりあげたものでしかない。それよりももっと《右》方向に意識を向けて、人類の枠をも超え、「生命」とか「世界全体」「宇宙そのもの」という概念から考えるとどうなるだろうか?

ここまで《右》に行くとまさに神の領域であって、果たして人間にたどり着けるかどうか不明ではある。しかし、イエスは神の愛にふれ、その愛を世界に広めようとした人である。少なくとも彼の解釈において、「右の頰を打たれたら、左の頰をも差し出す」ことは、《右》のもっとも端に存在する神の愛を体現する自然な行動だったのだろう。

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