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今の雑誌は「同じ面子、差異のない内容」ばかり...雑誌の時代だった80年代と何が違うか

ニューズウィーク日本版 / 2024年8月12日 10時55分

『アステイオン』、『へるめす』、『リュミエール』、『GS』。そのいずれもが季刊なのは偶然ではないだろう(ちなみに、出版史の素人としていいかげんなことを言えば、その前駆的形態は江藤淳・高階秀爾・遠山一行・古山高麗雄が編集メンバーの1960~70年代の『季刊藝術』にあったと思う)。

週刊誌が動きのすばやい動物のようなものだとしたら、季刊誌はいわば大地に根を張った《庭》のようなものである。そこには巨木のような言説もあれば、まだ生長途上の若々しい言説もあり、ジャーナリスティックな分析もあれば理論的な考察もある。

そして、ときにそれらがお互い交雑し、ときに外界からの強い風雨に翻弄される──しかも、このようなアクシデントがかえって雑誌=庭の植物たちを活気づけることも多いのだ。

さらに、《庭》の内部は一様ではなく、それぞれの言説のあいだに時差というギャップがある。すぐに手折られてしまいそうな若くて弱い植物でも、社会から隔離された庭のなかでは、その成長の時間が保証されるだろう。

ちょうど漫画『ピーナッツ』に出てくるライナスのセキュリティ・ブランケット(安心毛布)のように、雑誌=庭には言説の保護機能があるのだ。

ここで思い出されるのは、山崎正和が社交の時間を《夕方》に見出したことである。様式の固まった《昼》の仕事の時間でも、ホンネ丸出しの《夜》の居酒屋の時間でもない夕方──それは思想や批評の成立する時間でもあるだろう。

雑誌に置き換えれば、学会を意識しすぎて妙にかしこまった《昼》の言説でもなく、ネットに便乗して悪者を叩きすっきりしようとする単為生殖的な《夜》の言説でもない、フェアで風通しがよく、物事の輪郭をたえずゆらめかせる《夕方》の言説こそ、雑誌の生産性を保証するものではないか。

もとより、夕方は短くはかない。世界はどのみち昼と夜を中心に動くのであり、思想や批評は究極的には「夕方の庭」に棲息するしかない弱い言説である。

先述した雑誌も、『アステイオン』を除いてはいずれも80年代をピークとして終刊してしまったのは、夕方の短さを象徴している。ただ、逆に言えば、『アステイオン』は80年代の季刊誌の余韻を伝える、雑誌文化の数少ない生き残りということでもあるだろう。

私はそのような観点から、101号以降の新たな展開に期待している。

福嶋亮大(Ryota Fukushima)
立教大学文学部教授。1981年生まれ。京都大学文学部中国文学科卒業。同大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。文学博士。専門は中国文学、文芸批評。著書に『復興文化論──日本的創造の系譜』(青土社、サントリー学芸賞)、『辺境の思想──日本と香港から考える』(共著、文藝春秋)、『ハロー、ユーラシア──21世紀「中華」圏の政治思想』(講談社)、『感染症としての文学と哲学』(光文社)など多数。

 『アステイオン』100号
  特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
  公益財団法人サントリー文化財団
  アステイオン編集委員会 編
  CCCメディアハウス

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