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「論破」と「マウンティング」から離れて...大学生との対話で得た気付き

ニューズウィーク日本版 / 2024年8月14日 13時0分

それから6年間、『Voice』でめざしてきたのは、抽象的に言えば「開く/拓く」ことだった。あるテーマに対して、その道の専門家のみならず、分野や主義主張の枠にとらわれず、さまざまな知見や視点から議論を展開する。そうして予定調和を打破することで、読者に多様な気付きを提供する。

私にとって、そのお手本となるメディアの一つが、ほかならぬ『アステイオン』であった。

ただし、ポピュリズムが言論界にも浸食する昨今、自分の感情を裏付けしてくれる記事を読みたいと考える読者も少なくない。もちろん、読書にどんな体験を求めるかは自由だ。

しかし、知的ジャーナリズムの側がその風潮に寄りかかれば、どうなるだろうか。

それは、マーケティングとしては正解なのかもしれない。それでも私の心の奥には、「学問も出版業界も市場を見るだけでは、知的ジャーナリズムは衰退してしまう」という河合香織氏の言葉が重く響く。

同特集で、論壇誌の「場」としての意義を考察したのが、共同通信文化部記者の米田亮太氏の論考である。

米田氏は「議論とは、互いに協力して、互いの変容をうながすような相互プロセスではないか」としたうえで、「そのように考えれば、論文を読むという行為は、自分自身が変容し、複雑に成熟していくプロセスに参入していくこととも捉えられる」と述べる。

政治の問題が直ちに経済にインパクトを与え、テクノロジーの進化が国際秩序に影響を及ぼすなど、いまや世界中の問題がきわめて複雑に絡み合っている。ならば私たち自身も、「複雑に成熟」していかなければならない。

そのために必要なのは、分野や立場が異なる人間同士が、「論破」や「マウンティング」とは距離を置きつつ、互いにリスペクトし合いながら、答えのない問題について話し合う態度ではないか。

これまで、そうした対話の「場」をもっとも提供してきたメディアが論壇誌であった。かつての森嶋通夫と関嘉彦、または岡崎久彦と永井陽之助の論争などは、その代表例だろう。

世間は彼らの論争を通じて、日本の論点を知るとともに、対話の可能性を実感したはずだ。本来的に言えば、ボーダレスの議論が求められるいまこそ、論壇誌が果たしうる役割は大きい。

他方で、知的ジャーナリズムが改めるべきなのが読者との距離感ではないだろうか。鷲田清一氏は、創刊時の編集委員である山崎正和が『アステイオン』を「言論の交差点」として開こうとしたのは、「『日付』のある思想」があったと書く。

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