1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 国際
  4. 国際総合

「業績」にならないのになぜ書き続けるのか?...書き手に覚悟が問われる「知的ジャーナリズム」を支える3つの条件

ニューズウィーク日本版 / 2024年8月26日 13時5分

今後もIJが知的関心を喚起し続けられるかは、編集の力にかかっているというのは言い過ぎではない。

②IJには、書き手の覚悟が必要である。

かといって編集者だけではジャーナリズムは成立しない。組織に記者を抱えているのでなければ、内容に即した執筆者を外部に求めることになる。IJの場合、書き手の多くをフリーのジャーナリストか、研究者が担う。

だが、大学や研究機関に所属する研究者にとって、IJへの寄稿がさほど魅力的に映らない現実がある。

今や自然科学はもちろん社会科学や人文学の分野でも、国際的な学術雑誌に論文を投稿して採択され、多くの引用を獲得することがキャリアの開拓につながることになる。

そのため日々学術論文の作成や査読結果のリプライに全力で取り組まなければならず、のんびりとIJに寄稿したり、推敲している余裕などどこにもないのだ。

IJへの掲載が学術業績としてカウントされるのならまだしも、現在のアカデミックの世界では研究成果とは明確に区別されているのが一般的である。

科学技術振興機構(JST)が運営し、研究者情報を収集・公開している「リサーチマップ」でも、研究論文や学位論文などの「論文」と、雑誌掲載、解説、書評などの「MISC(その他)」は別扱いとなっている。多くの分野の若手研究者であれば査読付きの論文作成に死力を尽くす。

一方で、学術論文の執筆は、単著・共著にかかわらず、孤独な作業の連続である。懸命に書いても不採択になることが多く、掲載されても、引用どころか、誰からも関心を示されないのがほとんどだ。辛い現実に、研究自体が嫌になることすらある。

対照的に、IJの寄稿には編集者という力強い伴走者がいる。草稿に対し、ときに厳しくも的確なアドバイスをくれ、見違えるように内容がよくなることもある。

メジャーなIJへの掲載後は、地元の家族や親せきが自分事のように喜んで連絡してきてくれる(笑)。なによりたまにIJに寄稿することは、論文作成に疲れた頭をクールダウンさせ、リフレッシュの機会にもなる。

ただ、内容が素晴らしすぎて、大きな反響があると、いろいろと誘惑や色気が出てくるのは要注意だろう。ここで詳しくは書けないが、まともな学者の世界に戻れなく(戻らなく)なることもある。

反対に、多くの読者の目に触れることを意識して、内容が慎重になりすぎるのもどうかと思う。「大切なのはバランスです」といった曖昧かつ安易な表現で、自己防衛的に中途半端な締め括りをしている記述を見ると、破り捨てたくなる。IJに寄稿するときには、批判をおそれず、尖った内容を、覚悟をもって書かなければならないのだ。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください