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【写真特集】ハンセン病隔離と継承された「生」

ニューズウィーク日本版 / 2024年9月12日 19時25分

迫害からの逃避 (右)焼き討ちの後、ハンセン病患者たちが逃れた沖縄県北部の無人島。太平洋戦争敗戦後の混乱期に堕胎・断種を逃れた患者の夫婦らが新生児を育てた。丘の上に登ると木々の間から現在の沖縄愛楽園がある島が見える/(左)無人島で井戸を掘った痕跡。取水はできず、患者たちは人目を避けるために、明け方に舟を出し、本島の川で水を汲んだ

Picture Power
<「見えなくなること」を強制する社会が奪い、覆い隠してきたハンセン病回復者と家族の「生(せい)」。写真家・小原一真が静かに描く、語られなかった過去と現在>

沖縄県北部、羽地内海(はねじないかい)に浮かぶ屋我地島(やがじしま)の北端に国立療養所沖縄愛楽園がある。1938年の園創設から現在まで、延べ3917人のハンセン病患者が暮らした施設で、現在は80人余りの回復者が暮らす。ここで生きる人々やその家族たちの「生(せい)」は、感染症そのものが持つ影響力をはるかに超えた世界の歴史のうねりの中で、引き継がれてきた。

 琉球諸島では、20世紀初めまで多くのハンセン病患者が集落周辺にある墓や、隔離小屋と呼ばれる劣悪な環境での生活を余儀なくされた。ハンセン病は発病する力が弱い慢性の感染症で、末梢神経が菌に侵され、治療が遅れると手足・顔などの麻痺症状や重篤な身体障がいが起きることがある。遺伝性疾患や前世の悪行の報いである「業病」だとする古くからの誤った認識により、患者は差別・迫害の対象となってきた。また、欧米の植民地で多く確認されたことから、明治の開国後は、日本政府がその存在を国の恥である「国辱病」として、路上にいる患者たちの療養所への強制収容を始めた。さらに、世界的に広がりを見せた優生思想と2つの世界大戦は「強く健康な人的資本」を求めていく。1920年代以降の日本では住民の恐怖心を利用して、官民一体となって各県で患者の摘発を競い、患者たちへの差別・迫害はエスカレートした。

<入所者たちの生きた証し> 療養所で84年間暮らし2022年に亡くなった女性の遺品

 私は、まず患者たちが30年代に住んだ無人島を訪れ、彼らの軌跡を追った。当時、沖縄ではハンセン病療養所建設の反対運動が激しさを増し、患者たちの住居を周辺住民が焼き打ちする事件が起きた。患者たちは生き延びるために闇夜に紛れて島に向かって舟をこいだ。水も食料も医療施設もない島内の鬱蒼と生い茂る木々の中に逃れ、文字どおり社会から見えない存在となることで、自分たちの命を守らねばならなかった。半年間の無人島生活の後に患者自らが購入した土地に療養所の前身となる施設を建設し、ようやく自分たちの居場所を手に入れた。しかし、直後に県はその隣接地域に患者たちの強制収容先を造り、彼らの居場所も収容先の一部となっていく。

<入所者たちの生きた証し> 愛楽園に開園から70年以上暮らした女性の遺品。沖縄戦直前には日本軍に強制収容された患者もいた

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