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原稿料代わりに吉原で豪遊⁉︎ 蔦屋重三郎が巧みに活用した「吉原」のイメージ戦略

ニューズウィーク日本版 / 2025年1月7日 11時10分

重三郎の父がどんな仕事に就いていたのかはわかりませんが、直接的であれ間接的であれ、遊女に関わる仕事をしていたはずです。妓楼の家に生まれなくとも、最初から身の回りに遊女がいて、遊女に関わる仕事をしている人がいる。そういう世界で生まれ育ったわけですから、蔦重もまた、吉原や遊女のことは、もう知り抜いていたと思います。

やがて、吉原大門のそばに店を出した蔦屋重三郎は、吉原のタウンガイドである「吉原細見」を売り出すことで、安定的に収入を得ながら、戯作(小説)や浮世絵などさまざまな出版事業に乗り出していくわけです。

吉原細見は、各妓楼にどんな遊女が所属しているのか、茶屋や吉原の芸者たちの情報も含めた、吉原の総合ガイドブックのようなもので、基本的には正月と7月の年2回発行されますが、改訂版なども随時、刊行されていました。

吉原細見を片手に吉原に遊びに行く者もいれば、地方から江戸にやってきた人が、江戸土産として郷里に持ち帰るケースも多かったようです。

吉原細見自体は、蔦屋重三郎が参入する以前から売り出されていたものですが、蔦重版は従来のものよりも、非常に見やすくて使いやすいものに工夫されています。以後、蔦重版の吉原細見が定番となって、半ばシェアを独占していく形となりました。

吉原細見は定期刊行物ですから、蔦重にとって安定基盤になります。ある意味では、出版は水物的な部分もある商売です。流行り廃りが激しいからこそ、安定した収入源があれば、その他の新しい出版事業に打って出ることもできるわけです。

その後、蔦重は山東京伝らと組んで、さまざまな戯作を出版しましたが、売れるものもあるけれども、出版部数はそれほど多くなかったでしょう。そこまで儲かる商売ではなかったのではないでしょうか。ですから、半年ごとに新しく刊行して確実に売れる吉原細見は、蔦屋重三郎にとっては大切な財源でした。吉原細見を作っていくには当然、吉原の人たちの協力が不可欠です。吉原出身の蔦重に、吉原の人たちも全面的に協力してくれたのだと思います。

演出された吉原という空間

文化・流行の発信地であった吉原の魅力というのは、半ば作られたイメージだったのだろうと思います。吉原細見だけでなく、吉原を舞台とした戯作や遊女を描いた浮世絵などが作られ、イメージづけがなされました。そこに蔦屋重三郎も大きく関わっていました。 

吉原は基本的には遊郭ですから、当然、性的な行為が目的としてあるわけですけれども、単にそうした行為をするならば、吉原の外の非合法でもっと安い岡場所に行けばいい。それでも高いお金を出して、江戸市中から離れた不便な場所にある吉原に人が集まるというのは、それだけ魅力的なイメージが出版物を通して形作られていたからでしょう。

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