1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 国際
  4. 国際総合

9割が生活保護...日雇い労働者の街ではなくなった山谷の「現在を切り取る」意味

ニューズウィーク日本版 / 2024年12月23日 6時45分

周りからは冷たい目、現場では重労働、田舎では立場がない

だがそんななか、今はもう昔ながらの山谷はないという現実に直面する。かつて多かった日雇い労働者とは違い、暮らしているのは仕事がなくなり、生活が成り立たなくなっている人たちばかり。「闘う労働者」はもういない閑散とした街になっているからこそ、"山谷を切り取る意味"も希薄になっているということである。

とはいえ、この土地のもつ宿命のようなものは決して消えたわけではなく、粛々と日々が続いており、人は生きている。闘争の時代から半世紀を経て、看護師として山谷で働くようになった私は、この街で会った人々、見聞きした出来事を遺したいと強く思うようになった。(「プロローグ」より)

かくして著者は、江戸時代以前にまで時計を戻し、そこからバブル崩壊に至るまでの山谷の歴史を克明にたどる。

また、1985年に発表されたドキュメンタリー映画『山谷(やま)――やられたらやりかえせ』が誕生した背景と経緯をなぞり、前述した報道カメラマンの南條直子の短い人生を克明に追うなど、日が当たることのないこの街、そして、そこに生きる人たちの姿を描写する。

そこに映し出されるのはまさしく"流れ者"のリアルであり、だからこそ(私には同じような暮らしは自分はできないだろうなという思いが前提にあるけれど)「なるほどなあ」と思わせるものがある。

「ヤマから来た労働者ってのは、なぜだかその雰囲気で分かる。こう、背中を丸めてるような感じで、本人自身が使い捨てにされている、差別されているという思いがあり、その人をぎこちなくさせていたのかもしれない。この街には、いろいろな過去や重荷、言えない悩みを抱えた人がいて、周りからは冷たい目、現場では重労働、田舎では立場がないという人がやって来る。ただ、『自分は労働者だ』っていう誇りがあり、『働く仲間の会』っていうのをつくった。でもね、結局は呑んべえの会になっちゃったけど」(144ページより)

こう語るのは、第二次オイルショックの時代(1978年)から山谷に入ったという「玉三郎」。熊本の浄土真宗の寺院に生まれたものの寺を継がず、熊本、大分、沖縄、大阪と放浪し、28歳で上京したという人物だ。その道筋を見ても、行き場を失った彼を山谷が受け入れてくれたことを理解できる。

「山谷らしさ」が地域社会で求められているものなのか

なお、労働者の活気が満ちていたそんな時期の描写もさることながら、さらに印象的だったのは"現在"の山谷の姿だ。もう活気を失っているとはいえ、そこで生きていくことを決めた人、そういった人たちを支える人のあり方には納得させられるのである。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください