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カーター元米大統領の外交政策――低評価の2つの理由とその背景を検証

ニューズウィーク日本版 / 2025年1月7日 16時34分

保守派の「弱腰」批判に翻弄された面も(大統領執務室で、1977年) MARION S. TRIKOSKOーLIBRARY OF CONGRESSーREUTERS

ジョナサン・オルター(元本誌コラムニスト)
<中国との国交正常化から中東和平、ソ連への対応まで、第39代米大統領の外交政策はこれまで評価が低すぎた?>

大半の追悼記事からは伝わってこないが、昨年12月29日に100歳で死去したジミー・カーター元米大統領は、外交政策において先見の明に満ちた指導者だった。

彼の功績は見過ごされがちだが、その影響は重大だ。

ベトナム戦争での徴兵忌避者の恩赦、パナマ運河の返還条約の批准、イスラエル・エジプトの平和条約につながるキャンプデービッド合意の仲介、中国との国交正常化、歴史的な人権政策、旧ソ連のアフガニスタン侵攻への対応による冷戦勝利への足固め。

象徴的な失敗とされる在イラン米大使館占拠事件での人質救出作戦の中止でさえ、実際は大失態とは言えない。

では、カーターの外交政策はなぜこれほど評価が低いのか。理由は2つある。

第1に、彼は非介入主義の最高司令官だった。カーター政権時代は第3代大統領のトマス・ジェファソン以降で唯一、戦場での銃撃も兵士の死傷者もゼロ。こうした平和偏重と大統領らしさをアピールする演出不足のせいで弱い指導者のイメージが生まれた。

第2の要因は、ロナルド・レーガン元大統領を含む保守派による組織的な「弱腰」キャンペーンだ。

イスラエル、エジプトの首脳とキャンプ・デービッド合意を発表(78年9月) ARNIE SACHSーCNPーSIPA USAーREUTERS

カーターは1977年の大統領就任初日に最初の目立たない功績を残した。

徴兵忌避のためカナダなどに逃れた者への全面的な恩赦を発令したのだ。ベトナム戦争終結から2年足らずでの恩赦は長引く「傷」を癒やすための大胆な決断だったが、激しい非難を浴びた。前任のジェラルド・フォードも大統領選でカーターに敗れた後のレームダック期間中に恩赦を与えるよう助言されたが、拒否したほどだ。

カーターはたとえ政治的に不利になっても、常に強い義務感と責任感に基づいて行動した。

パナマ運河の返還条約の批准を米議会に認めさせたのも、その一例だ。76年大統領選の共和党指名獲得レースでは、パナマ運河の返還反対を掲げたカリフォルニア州知事のレーガンが現職のフォードを脅かす支持を集めた。

カーターも条約の批准を目指すのは2期目まで待つべきだと助言されていたが、勇気と政治的手腕を駆使して正しい判断を下した。

中東和平でも同様に、多大な政治的リスクを取った。78年9月、イスラエルとエジプトの指導者をアメリカに招き、極秘裏に和平交渉を取り持ったのだ。キャンプデービッドでの13日間の交渉中に両国首脳は何度も怒り、席を立って帰国すると脅したが、カーターの驚異的な粘り強さによって、和平の枠組みを定める2つの合意に署名した。

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