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《貴景勝が大関陥落の名古屋場所もあと2日》【故・第37代木村庄之助が語った大相撲「行司」の世界】「立行司が腰に差す短刀の意味 所属は「相撲部屋」だが「行司会」定員は45人の“狭き門”

NEWSポストセブン / 2024年7月27日 11時15分

 行司の給料は相撲協会から支払われるが、相撲部屋から“食”と“住”が提供されるため、幕下格までの月給は10万円足らず。それとは別に装束手当や場所手当が支払われる。

 昇格・昇給は年1回。毎年9月場所後に勤務評定があり、次の1年間の階級と待遇が決まる。基本的に年功序列だが、力士でいう関取格(十両以上)として扱われる十枚目格以上には22人の定員があるため、行司としての実力も考慮されるようになる。

行司になるには熱意、そして時の運が必要

 行司の“姓”は「木村」と「式守」の2つ。一門や部屋ごとにどちらを名乗るかは決まっている。入門直後は本名を下の名前に使い、出世していく中で由緒ある行司名を継承して三役格まで進む。そして立行司の式守伊之助、さらに木村庄之助の順で昇進していく。

 2023年6月に相撲協会に採用された押尾川部屋の式守風之介は、中学1年の時に大相撲中継で式守伊之助(当時。現在の第38代木村庄之助)の所作に憧れて手紙を書いた。それから2年間もLINEでやり取りを続け、中学卒業と同時に伊之助から押尾川部屋を紹介された。押尾川部屋は元関脇・豪風の押尾川親方が2022年2月に創設した新興部屋で、部屋には行司がいなかった。しかも当時の行司会の定員に空きがあった幸運も重なり、新弟子として採用された。行司になるには熱意、そして時の運が必要なのだ。

 第37代木村庄之助の畠山は1965年、中学卒業と同時に入門した。生まれ育ったのは相撲が盛んな青森県上北郡六戸町。地元に来ていた大相撲関係者が行司を探していることを耳にし、進学か就職かで迷っていた畠山少年の心は決まった。畠山は当時を「人のやらないことをやろうと思って志した」と振り返っていた。

 採用されると、相撲部屋で力士たちと共同生活する。判定の公平性の観点から、ほとんどのスポーツ競技では審判と選手が親しくすることは禁止されているが、親交どころか、一つ屋根の下で両者が寝食を共にする競技は大相撲ぐらいだろう。同部屋の力士には情も移るだろうし、微妙な判定にそれが影響しないとも限らない。

 この奇妙で異質なスタイルは、地方巡業を一門単位で催行していたことに由来する。一門内に行司や呼び出しなどの“裏方”がいないと巡業ができないからだ。

 伝統が変わった時期もある。1958年に巡業が協会の一括管理となった際に、中立・独立を保つ目的で「行司部屋」が創設された。畠山も第4代木村玉治郎(後の第27第木村庄之助)に弟子入りし、高島部屋(現大島部屋)に預けられた。しかし1973年に行司部屋は解散し、行司たちはそれぞれの相撲部屋へ帰された。当たり前ではあるが、行司部屋には人気者(力士)がいない。そのため有力なタニマチ(後援者)がつかず、経済的に立ち行かなくなったのだ(先述した「行司会」はこの時に発足)。

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