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《私の最初の晩餐》沢村一樹の忘れられないご馳走 役者を目指して上京するも苦闘の日々、ようやく帰省したときに母が出してくれた「きびなご」の味

NEWSポストセブン / 2024年8月1日 11時15分

沢村一樹が故郷で再会したご馳走とは?

「最初に食べたご馳走はなんですか?」。子供の頃に母が作ってくれた料理、上京したときのレストラン、初任給で行った高級店……。著名人の記憶に刻まれている「初めて食べた忘れられない味」を語ってもらい、証言をもとに料理を再現する『私の最初の晩餐』。

 小学5年生で初めて行かせてもらった床屋では「(石原)慎太郎刈りと言いなさい」。テレビに出ると「笑うときは、もっと口角を上げて!」。沢村一樹さんの芸能界入りを後押ししたのは、母のリツ子さんだった。アルバイトで貯めた18万円を握りしめて上京するも、苦闘の日々。6年ぶりに里帰りした沢村さんのために、腕によりをかけたご馳走とは──。沢村一樹さんが、忘れられないご馳走について振り返る。

 * * *
 父が、ヤンチャというか家庭を顧みない人だったので、母とぼくと妹はずっと仲がいいんです。人間万事塞翁が馬、なんて言いますけど(苦笑)。おふくろは、とにかく楽天家でした。美容部員だったので化粧は好きだし、その前はバスの添乗員さんだったので、鏡を見ながら、笑顔の練習なんかして。学校の保護者会や行事にはいちばん目立つ格好でやってきます。家に帰ったら「お母さんがいちばんきれいだったでしょ?」。

 よく美空ひばりさんの歌を口ずさんでいたなあ。時折、思い出したかのように「将来、あんたはテレビの仕事をするのよ」と言われました。父がつくった多額の借金を返すために昼夜を問わず働いていたので、母にとってはテレビや芸能界が、苦労の少ない世界に見えていたのかもしれません。

 僕は20才で鹿児島を出て、東京で役者を目指しました。当たり前ですけど、トントン拍子にいくはずもなく、アルバイト暮らしで帰省もままなりません。チャンスがめぐってきたのは、5年目。本名の野村耕蔵として、雑誌『MEN’S CLUB』の表紙モデルを任されたのです。1号きりではなく、年間を通しての大きな仕事でした。

初めて帰省すると表紙を飾った雑誌が

 そんなことで6年目、26才で初めて里帰りすることができました。鹿児島の夏はいまよりずっと涼しくて、長い散歩に出たことを覚えています。子供の頃によく遊んだドブ川や、虫捕りをした公園。果てしなく広いと思えた地元が、大人の目と足で散歩するとこんなに小さな町だったなんて。

 家に帰ると、母がきびなごの刺身と唐揚げを用意して待っていてくれました。きびなごの刺身は包丁を使わずに、手で開かないといけないので、すごく手間がかかるんです。一匹一匹頭を折って、指で身を割き、塩水で洗う。きれいに重ねられたきびなごの身をお箸でざっとすくって、ちょいと酢みそに。もう最高です。

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