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【逆説の日本史】「平民宰相」ではあったものの「庶民派」では無かった原敬

NEWSポストセブン / 2025年2月7日 16時15分

 じつは、これは大変思い切ったことを言っているのだが、おわかりだろうか。天皇を無視することが大好きな(笑)左翼学者の本を読んでもまったくわからないだろうし、そもそもこの祭文が紹介されることも無いだろう。しかし、じつは原敬という人物を語るのに、この祭文はきわめて重要な史料である。

 原はまず、「官軍賊軍の別などというものは無い。政見の違いがあっただけだ」と言っているが、そもそも官軍に「錦の御旗」を授け東北の賊軍を討伐せよと命じたのは誰か。もちろん西郷隆盛など熱烈な討幕派の思惑はあったにせよ、これは形式的には明治天皇の命令である。つまりこれを言うことは、じつは「明治天皇の命令が間違っていた」と言っているのと同じことなのだ。

 天皇批判というのは、戦前においてはそれだけですべての地位を失いかねない大変な「反逆行為」だ。場合によっては、原を失脚に追い込めるほどのネタなのである。それなのに、なぜ原はそこまで言ったのか? 怨霊鎮魂いや「賊軍」として倒れた南部藩士を怨霊にしないためである。

 そもそも「官軍・賊軍」などという区別は絶対的なものでは無く、政見の違いによる便宜上のものだ、としたのもそのためだ。そうすれば殉難者は朝敵では無くなり、その魂は安らかな眠りにつくことができる。しかし、それは先ほども述べたように天皇への批判と取られかねない。だから、祭文の最後で「赤誠を披瀝」つまり自分は天皇への熱烈な忠誠心があることを包み隠さず述べる必要があったのである。

 こうした原の心情がわかれば、爵位を受けなかった理由もわかる。一口に言えば、「平民」であることを誇りに思ったから、では決して無い。じつは、明治以降昭和二十年までの日本人の身分には三つの評価基準があった。爵位のほかに勲位と位階である。

 位階は律令制度施行以来千数百年にわたって続けられた伝統ある制度で、「正一位」とか「従三位」などといったものである。また勲位も起源は古く、国家に対してどのような功績があったかを「勲一等」をトップにランク付けするものである。これに対して爵位(華族制度)は一番歴史が浅く、制定された明治十七年当時は明治維新でどれだけ功があったかが基準とされていた。

 たとえば、明治までは足軽だった伊藤博文が最高位の公爵になったのに対し、大名では伊達家の本家仙台藩が伯爵にしかなれなかったのに、その分家の宇和島藩伊達家は一階上の侯爵になった。宇和島藩は維新にさまざまな功績があったのに対し、仙台藩は奥羽越列藩同盟に味方した「賊軍」であったからだ。原にしてみれば、こうした「不公平」が腹立たしかったのではないか。

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