吉田沙保里-「霊長類最強の女」が泣いた夜
プレジデントオンライン / 2013年8月22日 10時45分
「霊長類最強の男」と言われたロシアの英雄、アレクサンドル・カレリンの記録を抜いた前人未到の「世界13連覇」――。レスリング女子55キロ級・吉田沙保里のあまりに輝かしい偉業の達成に、私たち凡人は目が眩んでしまうが、吉田は決して完璧な人間ではない。
2002年、それまでずっと勝てなかった先輩・山本聖子を破った吉田は、一気にアジアチャンピオン、世界チャンピオンの座に上りつめた。そして、勢いそのままに04年アテネ五輪へ。本人曰く、「イケイケ」だった。
世界選手権2連覇を含め、国際大会16回連続優勝。外国人相手に70戦無敗の記録を引っさげ、怖いもの知らずの21歳は、あっさりと金メダルを獲得すると、さらに連勝街道を驀進した。
だが、挫折は突如訪れる。北京五輪イヤーの08年、その前哨戦であるワールドカップでまさかの敗北を喫し、吉田の連勝記録は119でストップしてしまう。
吉田は一晩中、泣き続けた。食べ物も喉を通らず、体調を崩すほどだった。しかし、立ち止まらなかった。挫折を「神様がくれた贈り物」と考えたと吉田は述懐する。時計を分解掃除するように、自分の技を見直していった。
「五輪前に負けてよかった、そう思いました。自分の中にどこか甘さがあったのでしょう。あの負けは、自分の意識を変えてくれました。精神的にも強くなれたし、技術的にも進歩できました。連勝中なら絶対にそんなことしないでしょうけど、初心に戻って練習に打ち込みました」
1回の敗北を真摯に受け止め、成功体験を躊躇なく捨てる――。吉田の勝負への執念が、私たちに問いかけてくる。普段は陽気にはしゃぎ、誰にでも明るく笑顔で接する吉田だが、レスリングの話になると様子は一変。厳しい表情で、1つひとつ確かめ、かみ締めるように話す。
北京五輪までの7カ月間、吉田は猛練習を続けた。結局、北京では1ピリオドも失わず、決勝戦では得意のタックルから鮮やかなフォール勝ちを決め、五輪2連覇を達成。表彰台から降りてくるやいなや、あっけらかんと、「ロンドンで五輪3連覇します」と宣言した。
■試合が終わったときに、勝っていればいい
ライバルたちも吉田を研究し、猛烈に追いかけた。11年の世界選手権ではカナダのトーニャ・バービックに1ピリオド奪われ、同年末の全日本選手権では高校生の村田夏南子に追い詰められた。そして、ロンドン五輪目前の5月、ワールドカップではロシアのワレリア・ジョロボワに敗れ、再び連勝記録が止まった。
なぜ、またしても負けてしまったのか。吉田が1番の理由として挙げたのが、「慣れ」である。
「あの試合を振り返って1番思うのは、慣れの怖さですね。なぁなぁの気持ちで、なんとなくマットに上がってしまいました。試合が始まっても、ガムシャラに攻めず、相手の出方を見たり、時計をチラ見したり。世界選手権で1ピリオド取られたシーンが頭をよぎったりしました。タックルに入ろうとしても、躊躇する自分がいたんです」
負けなければ、わからないことがある。吉田は敗戦を、冷静に自己分析した。
吉田の最大の武器は、レスリングの正攻法であるタックルだ。父・栄勝さんは、「返しの吉田」と呼ばれ、鉄壁のディフェンスと冷静なカウンター攻撃で全日本選手権を制した選手だった。ところが、チビッ子レスリングの指導者となると一転。子どもたちにはタックルの重要性を教え、基本を反復させた。娘・沙保里が3歳になってレスリングを始めたときも、最初に教えたのはタックルだった。「タックルを制する者が、レスリングを制する」。それが今も変わらない父の口癖だ。
北京五輪前、吉田は正面からのスカッドミサイル・タックルに加え、片足タックルをものにした。連勝を止められた原因はタックル返しにあり、それを受けないようにするためだ。ロンドン五輪前、吉田は自分が豪快にタックルに飛び込んでいける離れた間合いだけでなく、接近戦を中心とする新スタイルも取り入れた。
すべては、しっかりした基本があればこそ。吉田はレスリングの幅を広げ、五輪3連覇に挑むことができた。
「旗手を務めたら、好成績はあげられない」
そんなジンクスは百も承知で、自ら志願するように旗手となり、開会式では笑顔で日本選手団の先頭を歩いた。
「なんのためにロンドンに来たんだ。日本女子選手初のオリンピック3連覇を達成するためだ。応援してくれるみんなに恩返ししたい。喜んでもらいたい。父を肩車したい」
どうあがこうが、プレッシャーからは逃れられない。だからこそ、入念に準備をする。自ら退路を断ち、追い込むことによって自分の弱い心を克服するしかない。
日本を発つ前から寝不足が続いた。それまでまったくなかった“負けるイメージ”が頭をよぎり、アテネ、北京とは違って、試合前日も眠れなかった。そんな自分に打ち勝つために、吉田は練習を続けた。
ロンドン五輪、吉田があげた得点はわずか13点。フォール勝ちもない。それまでの吉田の戦い方からすれば考えられないような得点の低さだが、失点はゼロだった。
「試合が終わったとき、私の手が上がっていればいい。大事なことは、表彰台の1番上に立つことだけ」
ロースコアの泥臭い戦いになろうが、勝つことだけに徹した「ニュー吉田沙保里」の誕生だ。数々の経験を積み、修羅場をかいくぐってきた。だからもう「イケイケ」ではいられなくなった。だが、それこそが進化の証だった。
五輪後の9月、吉田は全試合フォール勝ちで世界選手権を10連覇。五輪3連覇とあわせ「世界13連覇」を達成した。
己の強さの原点にいつでも立ち返り、負ければ自分のやり方をゼロベースで見直す。最後の課題として残ったプレッシャーに対しては、あえてさらに強いプレッシャーを自分にかけることで克服する。吉田の不屈の精神こそ、今の日本と日本のビジネスパーソンに欠けているものではないか。
(文中敬称略)
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1982年、三重県津市に3人兄妹の末っ子として生まれる。中京女子大学卒業。ALSOK(綜合警備保障)所属。2012年の世界選手権で優勝し、世界大会13大会連続優勝を達成。この功績が称えられ、日本政府より国民栄誉賞を受賞。
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(宮崎 俊哉 保高幸子、飯田安国=撮影)
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