小泉流を踏襲した"控訴断念"の不純な動機
プレジデントオンライン / 2019年7月11日 15時15分
■「異例なことではあるが、控訴をしないこととした」
ハンセン病患者の隔離政策による家族への差別被害を認めて国に賠償を命じた熊本地裁の判決について、安倍晋三首相が7月9日、控訴しない方針を表明した。
この決断には与党だけでなく野党からも評価の声があがるが、21日に投票日を迎える参院選を意識した政治決断という見方が広がっている。つまり決断そのものは評価できるが、「動機が不純」とみられているのだ。
7月9日午前8時49分、首相官邸で行われた閣議を終えてから記者団の前に姿を現した安倍氏は静かな口調で語り始めた。
「今回の判決内容については一部に受け入れがたい点があることも事実だ。しかし、筆舌に尽くしがたい経験をされたご家族の皆さまのご苦労をこれ以上、長引かせるわけにはいかない。その思いの下、異例なことではあるが、控訴をしないこととした。この方針に沿って検討を進めるよう関係閣僚に先ほど指示しました」
■朝日新聞は朝刊1面トップで「控訴へ」と報じていた
12日の控訴期限を前に政府はどう判断するのか。報道各社の大きな関心事だった。
朝日新聞は9日の朝刊1面トップで「ハンセン病家族訴訟 控訴へ」という記事を掲載した。ところが読者が朝日新聞の記事を読む前の午前2時ごろ、NHKは「控訴断念へ」という朝日とは180度違う情報をネットで配信していた。
どちらなんだ。報道各社も安倍氏の発言を固唾をのんで見守っていた。そしてNHKが「勝った」。
ハンセン病患者の窓口となる厚生労働省や法務省は「控訴すべし」との考えが大勢だった。そして決断は首相官邸、安倍氏に委ねられていた。控訴して高裁の判断を待つのが筋ではあるが、「筆舌に尽くしがたい」思いをしてきた患者家族の苦労をいたずらに長引かせていいのか。
最終的に安倍氏は、患者家族の目線に立って控訴断念の決断を下す。
■5年に一度の「年金財政検証」は参院選後に先送り
安倍氏の決断はおおむね好評だ。原告や、原告の支援者は歓迎。自民、公明の与党両党も安倍氏の決断を評価している。野党側も安倍氏が原告らに直接謝罪するよう求めるなど注文は忘れないが、決断そのものは歓迎している。
しかし、今回の控訴断念の決断は、美しい話ばかりではない。国民受けする発信をすることで参院選を有利な戦いにしようという下心が感じられるのだ。
安倍氏は選挙に向けてマイナスとなる発信は先送りし、プラス要因を強調する傾向がある。
今回の参院選に向けては、公的年金制度の健全性をチェックするために5年に一度公表する財政検証の公表が参院選後に先送りされる見通しとなった。公表されることにより年金制度の将来への不安が高まり参院選で不利になるのを避けようとしたとの憶測が広がる。
■「光」を強調し、「陰」は先送りするのが安倍流
日米の貿易交渉も結論は参院選後に先送りになっているが、こちらも日本にとって不利な合意が予測される中、参院選での批判材料を取り除こうという狙いがちらつく。
一方で6月28、29日に大阪で行われた二十カ国・地域(G20)大阪サミットを最大限政治利用し「外交の安倍」をアピールした。参院選公約の冒頭は安倍氏が各国首脳との会談の写真をちりばめる構成になっているのも、安倍外交を前面に出して選挙を戦おうという狙いがあるからだ。
選挙の前では「光」は最大限利用し「陰」は先送りする。これが安倍流。そしてハンセン病家族訴訟の控訴断念は、典型的な「光」としてフレームアップされた形だ。
参院選の情勢は流動的だ。自民、公明の与党両党で過半数を維持するのは確実だが、それは野党側も織り込み済みの話。焦点は、与党に日本維新の会などを交えた改憲勢力が3分の2を維持するかどうか。こちらは東北などの1人区で自民党候補が伸び悩んでおり予断を許さない。安倍氏の控訴断念表明は、3分の2を確保して憲法改正への道を切り開くためのカンフル剤との見方もできる。
■内閣支持率84%をたたき出した小泉首相の「控訴断念」
2001年5月、小泉純一郎首相(当時)はハンセン病患者への隔離政策を巡る国家賠償訴訟で控訴を断念した。朝日新聞によるとこの直後の同社の世論調査での内閣支持率は84%に及んだ。小泉内閣の支持率は安定的に高かったが、この時が過去最高値だった。小泉氏はその勢いをかって7月の参院選で、自民党を大勝に導いている。
安倍氏は官房副長官として小泉氏に仕えていた。18年前の小泉氏の成功を参考にして、安倍氏が同じ道を選んだと考えたほうが自然だ。政権幹部は「安倍氏はハンセン病の問題について思い入れが強い」と語っているという。問題そのものに思い入れがあるというより、対応しだいで政権の行方を左右する問題であることを知っているという意味だと解釈したほうがよさそうだ。
ただし安倍氏の今回の決断は、選挙目当てという側面が見え透いている。それだけに、2001年の小泉政権の時のように支持率アップにつながるかどうかは分からない。
■政権に批判的な報道を続けてきたことの「ツケ」か
最後に朝日新聞の誤報問題についても触れておきたい。先に触れたように朝日新聞は9日朝刊の1面トップで、政府が控訴して高裁で争うという内容の誤報を掲載してしまった。新聞が配達されてから間をおかずに逆の結論が出てしまっただけにダメージは大きい。
朝日新聞は同日夕刊1面で「誤った記事 おわびします」と掲載。翌朝刊ではおわびとともに、「政治部長・栗原健太郎」の署名で誤った経緯を説明する記事とともに「時々刻々」で検証記事を載せている。
検証記事は、厚労省や法務省などは控訴すべきだとの主張で、官邸内にも控訴を主張する声もあったが、政権浮揚を求める安倍氏が高度の政治判断で断念を決めたという内容だ。他紙の検証記事と大きくは違わない。それなのに朝日新聞だけが誤報を掲載したのは、最終的な首相の決断の取材が足りなかったことになる。
朝日新聞は、選挙で勝ち改憲を実現しようという安倍氏の執念を読み誤っていたのだろうか。それとも、日々政権に批判的な立ち位置の報道姿勢を続けてきたことの「ツケ」を払わされたということだろうか。
いずれにしても、安倍氏と朝日新聞の関係は今後もウオッチし続ける必要がありそうだ。
(プレジデントオンライン編集部 写真=時事通信フォト)
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