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「お風呂に投げたあなたの背広」なぜ銀座の女はいつも孤独でないとならないか

プレジデントオンライン / 2020年4月12日 11時15分

銀座老舗文壇バー「ザボン」ママ 水口素子氏

1990年代前半、3000軒近くあった銀座のバー・キャバレー・ナイトクラブは半分以下に減少。企業の交際費はバブル期の半分になり、言わずもがな、高級クラブにも不況の波が押し寄せている。出版不況も相まって老舗の文壇バー「ザボン」の水口素子ママは遠のく客足に危機感を覚えている。古き良き銀座の文化はこのまま衰退していってしまうのか。
クラブザボン●1978年開店。名付け親は小説家の丸谷才一。カウンターのみ3坪の店から始まり、2年で、13坪の店へ。さらに3年で、現在の20坪に。店には文壇の大御所や編集者たちが集う。

■銀座の文壇バー・クラブザボンの始まり

クラブザボンは私のすべてです。赤坂に出した蕎麦割烹も、故郷の鹿児島に出した店も、なくしてしまいました。商売と本当の愛の両立は成立するはずもなく、結婚もあきらめました。ザボンも不景気に負け、お客様が少ない日も多々あります。銀座のママというのは弱音を吐かず、教養のある話しかしてはダメなのですか。たまには、私が送ってきた「恥の多い生涯」について、少し話をしてもよいですか。

私のお店、クラブザボンは1978年、銀座6丁目で始まりました。広さはたった3坪。カウンターの席しかない、とても小さなお店でした。

突然ですが、銀座のクラブ「おそめ」をご存じでしょうか。文壇バー1号店とも呼ばれる有名なクラブです。川端康成、白洲次郎、小津安二郎など著名人が通っていたお店で、偶然にもザボンが生まれた78年に閉店しました。その「おそめ」にいた女性が開いたのがクラブ「眉」。

私は、この「眉」に在籍していたため、ザボンも自然と文壇バーになったのです。

自分の店を始めた理由に深いものはありません。「眉」に来ていたある雑誌の編集長に、「手ごろな物件があるからやってみるといい」と言われ、同じくお客さんだった丸谷才一(2012年没)先生も「いいんじゃないか」とおっしゃった。そんなのまともに受けていいのかしらと思いながらも、商売の難しさも知りませんでしたので、気楽に開いたわけです。自己資金の500万円と、国民金融公庫から300万円を借り、計800万円の初期投資でした。

銀座に増えた中国人観光客の中には一晩で500万円以上使う人も。街の意味合いが従来と変わってきた。
銀座に増えた中国人観光客の中には一晩で500万円以上使う人も。街の意味合いが従来と変わってきた。

借り入れた300万円も1年で返済し、2年で13坪の物件にお引っ越しをしました。自己資金の1000万円と再度2500万円を借りました。その3年後には20坪の物件に移り、現在の場所である銀座6丁目「第4ポールスタービル」に腰を落ち着けました。店は順調で、89年には赤坂に蕎麦割烹「三平」をオープン。たくさんの先生方にお世話になり、銀座にやってきてよかったと心から思えるような時期でした。

私を銀座に連れてきたのは、囲碁棋士の藤沢秀行(09年没)さんです。鹿児島から上京後、ラーメン屋やガソリンスタンドや雀荘でアルバイト生活を送り、ある商社に就職しました。会社の役員に先生は囲碁を教えに来ており、私はそのギャラを渡しに、先生のところへ通っていました。上司との関係に悩んでおりまして、「先生、会社を辞めたいわ」なんて言ったら、じゃあ銀座の女になるかと。それで、「眉」に連れていかれたわけです。

銀座にやってくる男性たちは、エリートばかりでした。私は小さい頃からエリートの男性と結婚がしたいという漠然とした夢があった。これはいまでも覚えていますが、店に来た伊丹十三(97年没)さんに、「私、エリートの男性と結婚したいのよ」と漏らしました。すると伊丹さんは、「バカじゃないのか。銀座の女には不幸の影がないといけないんだ。あんたが幸せな女だったら、いったい誰が店に来るんだよ」って。私もこの街で多くの恋をしましたが、銀座の女であることであきらめなければいけない恋はたくさんありました。

■銀座の女は不幸でいなければいけない

私がいままでお付き合いしてきた男性は、すべて店のお客様です。そうなれば、もう不倫しかないんです。年配の男性ばかりですから。私の時代の花柳界には、ある種の厳しさがあって、お店を通してママに一報を入れないと、お客様とは交際できませんでした。

目がブルーで、金髪で、とても優しいアメリカ大使館の方と1年ほどお付き合いしたことがありました。その方も奥さんのいる人で、別れの言葉もなしに気が付いたら海外へ転勤していました。別れの言葉があったのは、たったの1人だけです。その方とはかれこれ20年間、お付き合いをしていました。不倫なので付かず離れずの関係ですが、相手も本気だと私は思っていました。

銀座で働く若い女性が減ってきている。その要因の1つに、手軽に稼げるギャラ飲みの普及がある。
銀座で働く若い女性が減ってきている。その要因の1つに、手軽に稼げるギャラ飲みの普及がある。

銀座の女というのはいまとは違い、とても差別的に見られる存在でした。不倫はしても、相手の家庭を壊してはいけないというのがしきたりで、本妻になろうなんて、そんなこと考えるのも許されないような身分です。愛人になれるだけ幸せだと思え、そういう教えだったのです。相手の親にまで会いましたが、銀座の女ではどうしようもないと追い出され、挙句、「お手伝いとしてなら、一緒になってやってもいい」と捨て台詞を吐かれました。

■最後には奥さんのところへ戻っていきます

それでもやっぱり欲は出てきます。離婚してほしいと伝えると、だんだんと関係は険悪になっていきました。相手には家庭があるので、一緒に過ごしていても、最後には奥さんのところへ戻っていきます。

帰したくないものだから、その人の背広をお風呂に投げ入れてしまった。するとピシャリと頬をひっぱたかれて、その痛みでなお一層彼を好きになってしまいました。

最後は結局、奥さんではなくほかの女に取られました。その男性は、1人の仕事場を持っていましたので、逢瀬はいつもそこでした。私に気付かれるように、わざとほかの女の物を置いたままにするんです。男というのは自分も年を取るくせに、女性を選ぶときは若いほうがいいのです。頭にきたので、「こっちだってあんたなんて目じゃないわよ!」と、頬をひっぱたいて別れました。

そのとき私は50。好きな男性に若い子のほうへいかれるのは辛かった。結婚はそこであきらめました。もう銀座では生きていけないと思い、いちど引退を考えました。

故郷の鹿児島に蕎麦割烹を出し、軌道に乗ったら、もうあちらで隠居してしまおうと。弟に鹿児島の店は任せつつ、平日は銀座と赤坂、週末は月曜日まで鹿児島。しかし、弟のほうが生真面目すぎて、板前さんたちをうまいこと使いこなせない。弱気なところもあるので、悩みだしてしまった。「もうやっていけない」と泣きごとを言うようになり、鹿児島の店は閉めました。すでに鹿児島に隠居用の土地まで買ってしまったのですが、それも売り払い、もう銀座で生きていくしか道はなくなってしまったわけです。

■リーマンショックに東日本大震災

ザボンには金融関係のお客様が少なかったせいか、バブル崩壊の影響はさほど大きくありませんでした。しかし、08年のリーマンショックで日本経済も大打撃を受け、停滞が続くなか、東日本大震災が起きました。そして、原発事故によって日本中は自粛ムードに。夜の銀座の街も、完全に活気を失ってしまいました。いつも顔を出してくれていた先生たちの足も遠のき、ザボンには一流企業のお客様も多かったため、これは致命的でした。

78年にオープンした当時3坪のザボンに立つ、水口素子ママ(左)。
78年にオープンした当時3坪のザボンに立つ、水口素子ママ(左)。

私が暗くなると、女の子たちも暗くなり、お店も暗くなる。すると、ますますお客様は来なくなる。そこから3年、ザボンも三平も赤字が続きました。利益が出ないものだから、毎月、毎月、自分の懐からお金を出していくしかない。このままではくたばる前に、自分の老後資金まですべてなくなってしまうのではないかと思い悩みました。

ザボンも三平も、両方潰れてしまったらどうしようといつも考えるわけです。そんなときに、いつも親身になって相談に乗ってくれていた先生たちや恩人たちが、次々に亡くなっていきました。特に丸谷先生が亡くなられたときは、ひどく悲しみ憂いました。店を開いたきっかけでもありましたから。

とうとうストレスで大腸ガンを患ってしまいました。摘出手術は成功したものの、「しばらく店の仕事から離れないと、ストレスでガンが再発するかもしれない」とドクターストップがかかりました。店の顧問会計士にも、「どちらも厳しい状況なのだから、銀座か赤坂、どちらか手放しなさい」と言われ、情けなくなった。

毎月膨らんでゆく赤字を見るのが苦痛で、赤坂のビルは水道管が壊れたり、天井から水漏れしたり、老朽化も激しく、もうなにもかも嫌になってしまいました。すると、なんだか魔法にでもかかったかのように、店をやめたほうがいいんだと思い込むようになってしまった。偶然、三平を欲しがっていた方がいたので、タダ同然で譲り渡してしまったんです。それが、3年前のことです。

三平は私にとって思い入れのある店でした。看板は漫画家の久里洋二(91)さんが描いてくれ、詩人の大岡信(17年没)さんの書を店内に飾っていました。それに、「三平」の名付け親は丸谷先生です。

後になって考えてみると、やめる必要なんてなかった。もう少し頑張ればやれたものを、どうして私は簡単に手放してしまったのだろうと後悔の念に駆られました。丸谷先生たちの恩を私の一時の気の迷いで台なしにしてしまったような気がして、とにかく自分を恥じました。

■「まだやるのか、もういい加減にやめろよ」

私は朝8時に起床し、毎日美容室に行きます。家に戻ったら、16時までお客様にお礼状を書いたり、店の経理作業をしたりして、ザボンへ向かいます。店が終わると深夜3時まで経理作業の続きです。その日の売り上げやらなんやらを帳簿に記入して、ツケのお客様を整理しなきゃいけない。通帳を見て、入金してくれた人は売り掛け帳にチェックを入れて、支払いがまだの人には請求書を送ります。

ママの自宅では、店が始まる前だけでなく、店が終わった後も夜中の3時まで経理作業は続く。
ママの自宅では、店が始まる前だけでなく、店が終わった後も夜中の3時まで経理作業は続く。

この作業が大変で。月末の支払いはどうしようか、売り上げが少ないから、あのお金をこっちに持ってきて、女の子たちの出勤調整はどうしようか……。足りないときは自分の財布から出すしかありません。そんなことを毎日考えていると、脳に不安がこびりついてしまい、たった5時間しかない睡眠時間も寝られないんです。睡眠薬がないと寝付けないようになってしまいました。

あまりにも屈辱的で、さすがにもう銀座から離れようと思った。鹿児島にも居場所はないので、残りの老後資金を持って、物価の安い海外にでもひとりで逃げようと本気で考えました。

「私も年ですから、このへんでやめたほうがいいでしょうか」と周りに相談すると、さいとうたかを(83)先生、坪内祐三(20年没)先生、重松清(56)先生が口をそろえて、「まだやめることないじゃないか」と引き留めてくださった。その言葉は胸に深く沁みました。

三平の失敗もありましたし、ザボンだけはなにがあっても、体が動かなくなるまでやり遂げると、そのとき決意しました。三平の件は本当に、一生の不覚だったのです。

19年5月、ザボンのある銀座6丁目「第4ポールスタービル」が耐震上の理由から取り壊されることになり、店も撤退せざるをえなくなりました。大きなビルが建ち、ブランドショップに取って代わられるようです。引退のタイミングとしてはベストのような気もしますが、すでに7丁目の物件に移転することが決まっています。先生たちも、「まだやるのか、もういい加減にやめろよ」なんて言ってきますけど、私は引退の「イ」の字も考えませんでした。

都内某所のマンションで、ペットたちとともに暮らす。失恋を機に、50歳で結婚をあきらめた。
都内某所のマンションで、ペットたちとともに暮らす。失恋を機に、50歳で結婚をあきらめた。

私からザボンを取ったら、何も残りません。50歳で結婚はあきらめましたが、私はザボンと結婚したと思っています。お金がなくなり私が不幸になろうと、ザボンの灯をともし続けられるのならそれでいいのです。伊丹さんが言ったように、銀座の女は不幸の影があるほうが美しく見える。ただ、不幸な顔をしながら生きていくのではなく、それを心に秘めながら明るく生きていくというのが、銀座の女の魅力なのだと思っております。

20年1月13日、ザボンにもよく来てくださっていた坪内祐三先生がお亡くなりになりました。最後にお店にお見えになったのは、19年の12月26日のことでした。ご冥福をお祈りいたします。

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水口 素子(みずぐち・もとこ)
銀座老舗文壇バー「ザボン」ママ
鹿児島から上京後、商社で役員秘書として勤務。囲碁棋士の藤沢秀行に連れられ、銀座を訪れたことを機に退社。文壇バー「眉」に入店し、5年で独立。

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(銀座老舗文壇バー「ザボン」ママ 水口 素子 撮影=大槻純一、藤中一平、プレジデント編集部)

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