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「勝てる自信はないが、それを言い出せない」日米開戦を招いた日本人の悪癖

プレジデントオンライン / 2020年4月20日 9時15分

1941年12月7日真珠湾攻撃/日本機の攻撃を受ける戦艦「ウェストバージニア」(左)と「テネシー」。 - 写真=近現代PL/アフロ

なぜ日本はアメリカとの太平洋戦争に踏み切ったのか。名古屋大学名誉教授の川田稔氏は「陸軍側は、海軍側に『戦争に自信なし』と明言させることで、開戦を回避したいと考えていたようだ。しかし、海軍はそれを言い出せず、陸軍も引くに引けなかった」という——。

※本稿は、川田稔『木戸幸一』(文春新書)の一部を再構成したものです。

■中国駐留軍をめぐる近衛首相と東条陸相の対立

1941年(昭和16年)10月2日、ハル国務長官から覚書のかたちで、9月25日の日本側提案に対するアメリカ政府の回答が示された。それは、三国同盟問題では日本側の姿勢を評価しながらも、より明確な回答を求めていた。

さらに、中国に軍隊を駐屯させる要望は容認しえず、日本軍の仏印および中国からの撤退を明確に宣言する必要があるとのことだった。また、日中間の地理的条件による経済的特殊関係の承認についても受け入れられないとしていた。

このハル覚書をうけ、10月5日、東条英機陸相は近衛文麿首相と会談した。東条は、アメリカの態度は、駐兵拒否、三国同盟離脱であり、これらは譲れないと述べた。

近衛は、駐兵が問題の焦点だ、「一律撤兵」を原則的には受け入れ、「資源保護などの名目で若干駐兵させる」ことにしてはどうか、との意見を示した。

東条は、それでは「謀略」となり「後害」を残す、として反対した。近衛の原則一律撤兵・実質駐兵論に対して、東条は不確かなもので容認できないとしたのである。

同日、海軍でも首脳会議が開かれた。そこで岡軍務局長の提案により、交渉継続の方向で近衛首相が東条陸相と会談し、交渉期限の延長や条件の緩和を話し合うことを、首相に進言することとなった。

翌6日の海軍首脳会議でも、「撤兵問題のみにて日米戦うは馬鹿なことなり」として、条件を緩和してでも外交交渉を続ける方針が申し合わされた。原則的には「撤兵」とし、治安維持のできたところから撤兵する、とされた。

■海軍トップが、対米戦勝利の自信はない旨を明言

10月7日朝、陸海相が会談した。及川古志郎海相は東条陸相に対し、なお交渉継続の余地はあり、もう少し期限に余裕が必要だとして、10月15日の決定延期を申し入れた。

東条の「勝利の自信はどうであるか」との問いに、及川は「それはない」と答えている。ただ、「この場限りにしておいてくれ」と付言した。海軍トップの海相が、対米戦勝利の自信はない旨を明言したのである。東条は、この場限りの話として聞かされたが、海軍に自信がないことを知った。

そこから東条も、海軍に戦争遂行の自信がないのなら、不本意だが、9月6日御前会議決定を見直さなければならないのではないかと考えはじめていた。

同日(7日)、武藤章軍務局長は、富田健治内閣書記官長に対し、「駐兵も最後の一点ともならば考慮の余地あり。また交渉をなすべし」、との意見を伝えている。武藤は、固守していた中国駐兵についても、対米交渉の最終盤においては、なお譲歩を考慮する余地があると考えつつあったのである。

■東条陸相、撤兵論・御前会議決定の再検討を拒否

木戸幸一内大臣の日記には、この間の動きについて、こう記されている。

「十月七日……富田[内閣]書記官長来訪、対米交渉につき左の如き話ありたり。米国の覚書につき、陸軍は望みなしとの解釈なるが、海軍は見込みありとして交渉継続を希望す。……海軍側は、首相はこの際遅滞なく決意を宣明し、政局を指導せられたしと要望す。先ず首相は、強硬意見を有する陸相と充分意見を交換したる後、陸海外の三相を招き、自己の決意を披瀝し、協力を求むる筈なり」

さて、10月7日の夜、近衛・東条会談がおこなわれた。ここで、近衛が、「駐兵に関しては撤兵を原則とすることとし、その運用によって駐兵の実質をとることにできないか」、と意見を述べた。だが、東条は、「絶対にできない」と拒否している。

つづいて近衛は、9月6日御前会議決定について「再検討が必要である」と主張した。

これについても東条は、「御前会議の決定を崩すつもりならば事は重大である。何か不審があり不安があるのか。……もし疑問があるというならそれは大問題になる」、として受け入れなかった。

近衛は、「作戦について十分の自信がもてないと考える」と一応答えているが、自身ではそれ以上の根拠は示せなかった。最後に東条は、「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」、と述べている。

つまり、東条は、近衛の原則撤兵・実質駐兵論を「絶対できない」と頑強に拒否し、御前会議決定の再検討についても容認しなかったのである。

■「撤兵も考えざるべからざるも、決しかねるところなり」

だが、翌8日、東条陸相は及川海相に、「支那事変にて数万の生霊を失い、みすみすこれ[中国]を去るは何とも忍びず。ただし、日米戦とならばさらに数万の人員を失うことを思えば、撤兵も考えざるべからざるも、決しかねるところなり」、と述べている。

岡敬純海軍軍務局長のメモでは、「陸相は最後撤兵問題のみにて対米交渉が纏(まと)まるならば、[撤兵を]考慮する意志を表明せらる」、となっている。東条も近衛には強く撤兵を拒否しながらも、なお動揺していたといえる。

このように、武藤のみならず、東条もまた、交渉の最終段階では全面撤兵も考慮せざるをえないのではないかと迷いを示していた。

政権中枢の近衛首相、東条陸相、及川海相は、個別に会談を続けた。近衛と及川はそれぞれ交渉継続の観点から、駐兵問題での陸軍の譲歩を求めたが、結局東条は譲らなかった。

■対米強硬論を公言していた東条陸相の迷い、動揺

ただ東条も、海軍が対米戦の自信がなければ、9月6日御前会議決定を再検討する必要があるのではないかと考えはじめていた。

御前会議の決定を尊重すべきとの基本的態度だったが、海軍に自信がないなら、御前会議決定を白紙に戻し、責任者は全て辞職すべきだ、とも述べていた。また撤兵についても動揺しはじめていた。

及川海相は、前述のように、近衛首相が自身の決意で、政局を交渉継続、撤兵の方向にリードしてもらいたい。場合によっては米側提案を丸呑みする覚悟で進んでもらいたい、と要請していた。

そして、首相が覚悟を決めて邁進(まうしん)するならば、それに海軍は全面的に協力する、との意向を近衛に伝えていた。及川も海軍のみの判断によって戦争回避の全責任を負うことはできなかったのである。

■天皇最側近から近衛首相へのアドバイス

10月9日、事態が緊迫するなかで、木戸は近衛に次のようにアドバイスしている。

川田稔『木戸幸一』(文春新書)
川田稔『木戸幸一』(文春新書)

御前会議の決定は、「いささか唐突にして、議の熟せざるものあるや」に思う。内外の情勢から判断するに、「対米戦の結論」は「再検討」を要する。この際は対米開戦を決意することなく、むしろ「支那事変の完遂」を第一義とすべきである。

アメリカに対しては、「自主的立場」を堅持するため、10年ないし15年の「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」によって、「高度国防国家の樹立、国力の培養」に専念努力すべきである。

「支那事変完遂」のためには、「交戦権の発動」(宣戦布告)も辞さず、陸軍動員により重慶、昆明等にも作戦を敢行し、「独力実力」をもって解決する決意が必要である、と。

これは、8月7日の近衛への意見と同方向のものだが、9月6日御前会議決定を再検討すべきことが主眼となっている。他には、日中戦争の軍事的解決を強調していることが注意を引く。

■自信がないと公言できない海軍、主張を変えられない陸軍……

想定される対米英戦争の重圧に苦しむ武藤や東条は、海軍が対米戦に自信がなく、それゆえ交渉継続を主張しているのを承知していた。そこで海軍側に戦争に自信なしと公式に明言させ、できれば開戦を回避したいと考えていたようである。

だが、海軍も組織内外の条件から、それは一貫して避けていた。及川海相は東条に対米戦の自信はないと自身の考えをもらしていたが、それは内々の話とされていた。したがって、東条も陸軍内外で、それを理由に従来の主張を変えるわけにはいかなかったと思われる。

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川田 稔(かわだ・みのる)
名古屋大学名誉教授
1947年高知県生まれ。1978年、名古屋大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。法学博士。専門は政治外交史、政治思想史。名古屋大学大学院教授などを経て現職。

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(名古屋大学名誉教授 川田 稔)

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