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99年続く「駅弁の立ち売り」を引き受けた53歳の新人の来歴

プレジデントオンライン / 2020年5月5日 11時15分

東筑軒の小南英之さん(60) - 撮影=鍋田広一

北九州市の折尾駅には、ホームで駅弁当を売る「立ち売り」がいる。小南英之さんは職を転々とした後、53歳のときに最高齢の新人としてこの仕事を始めた。2021年で100年を迎える伝統の仕事を、なぜ彼がやることになったのか。連載ルポ「最年長社員」、第5回は「弁当の立ち売り」――。

■ホームで歌う「かしわめし」の立ち売り

福岡県の中心地・博多と北九州市とを結ぶJR鹿児島本線上にある折尾駅(北九州市八幡西区)。かつて筑豊炭田の輸送路として栄え、現在は高校や大学が密集する学園都市の玄関口として大規模な駅舎の改修工事が進んでいる。

通勤・通学利用者が多くを占めるこの地方駅に、大正時代から99年続く駅弁当の立ち売りがいる。

平日の夕方、ホームに降り立つと威勢のよいかけ声が耳に飛び込んできた。車掌が被るような紺色の制帽に赤いジャケット姿、弁当が入った大きな木箱を首からぶら下げている。東筑軒の小南英之(60)は、定休日の水曜日を除く毎日、折尾駅ホームで弁当の立ち売りを1人で続けている。

販売時間は午前8時から午後4時まで(※)。1時間の休憩をはさみながら3種類の弁当を1日約30個売りさばく。看板商品は、鶏のスープで炊いたご飯の上に鶏肉と卵、きざみのりをあしらった「かしわめし」だ。緑色のうぐいす豆と合わせて美しく箱におさまっている。

※緊急事態宣言期間中は週5日で販売、時間は午前9時~午後4時15分まで。

在来線や特急が停車すると小南は両腕を大きく広げ、手を羽のようにひらひらと泳がせながら「おりおめいぶつ~かしわめし~」と歌声を響かせた。その横を、降りてきた通勤客や高校生らが黙々と通り過ぎていく。購入客は午前中と夕方ごろに集中するそうで、この日はもう2個しか残っていなかった。

やや大きな振り付けをまじえてホームを練り歩く姿にはベテラン販売員の風格が漂うが、小南が東筑軒に入社したのは51歳のとき。その2年後には「最高齢の新人販売員」として、それまで休止状態にあった立ち売り業務を復活させた。来年で100年を迎える伝統の仕事を、なぜ彼が引き受けることになったのだろう。

■「縁起でもない!」と塩をまかれた営業マン時代

福岡県八幡市(現北九州市)に生まれ、祖父母や叔母などを含む10人家族の大所帯で育った。家は飼料や米などを販売しており、小南は2人兄弟の長男。「何せ家族が多いもんですから。色々あっても、仲良くしないと生活していけなかった」と振り返る。

剣道着を着てほほ笑む男性
提供=小南英之さん

地元の高校では剣道部に所属していたが、クラスメートとつるむことはほとんどなかった。「みんなと同じ格好はしていたんですけれど……。群れるのが得意じゃないんですよね、昔から」。県内の大学を卒業した後、新卒で仏具店の「はせがわ」に入社した。最初の仕事は手あたり次第に家を訪ねて仏壇を売る“飛び込み営業”だったが、これが口下手な小南にとって過酷だった。

「『縁起でもない!』と塩をまかれたこともありますよ。でもね、あの仕事で僕は頭の下げ方を覚えたんです。いくら断られても『僕は馬鹿ですから難しいことは分からないけれど、僕の優秀なチーフには会ってください』とひたすらお願いしました」。セールストークができないことは致命傷になりえたが、体力だけはあった。せめてロウソクはいかがですかと、ひたすら足を使った。

徐々にだが、不器用でも正直な心持ちが評価されるようになり、所属する百貨店の店舗では一時トップの成績を収めるまでに至った。しかし、仏具という特殊な商品で毎回のように厳しいノルマを達成することは難しい。小南は約4年勤めたはせがわを退職した。

■大合併した北九州市に目立った名物はなかった

その後は地元に戻って家業を継いだが、店じまいを機に40歳で市内にある病院の設備メンテナンスの仕事に就く。全国に病院やリハビリ施設を展開していたため、3カ月は研修期間として茨城県で過ごした時期もあった。1社目ほどではないものの給料は申し分なかったが、前職でも一度転勤で県外へ出たことのある小南の中に、ずっと引っかかっている思いがあった。

何か、地元の魅力を発信するような仕事ができないか。

駅弁当かしわめし
撮影=鍋田広一

北九州市は1963年に小南の育った八幡市を含む5市が大合併し、政令指定都市になった歴史を持つ。しかし、工業地帯として成長を遂げた街には、目立った名物や特産品がなかった。小南が大学時代に新幹線でお土産を売るアルバイトをしていたときも、あったのは博多発の辛子明太子や広島県産のもみじ饅頭ばかり。市の中心地・小倉の食べ物はなく悲しかった。

メンテナンスをする対象は病棟から売店まで幅広いが、営業としてあくせく歩き回っていたころのような達成感や高揚感はあまりなかった。「不器用で、能がないもんやから」。そう困ったように笑う表情とは裏腹に、仏具店時代の大変ながらに感じた“人との出会いを大切にしたい”という思いは、忘れることができなかった。

10年近く勤めたが、ここも結局、辞めてしまう。

実家の近くに本社を置く「東筑軒」に入ることになったのは2011年。51歳でハローワークを訪ねたときだった。

■「立ち売りなんてしたくない」と思っていたが……

「実は、営業職では一度面接に落ちているんです。その後、前のような病院勤務の求人がないかハローワークに行ったら、たまたま東筑軒の総務部長がいました。営業で落ちたことを伝えたら『まだ求人はあるよ』と言い出して。結局、配送業務として採用してもらえました」

折尾駅の立ち売りは1921年に始まった。だが、小南が入社した当時は、前任者の退職をきっかけに2年半の間休止していた。高校時代の電車通学で売り子を見ていた小南は、10代の自分なら「立ち売りなんてしたくないと思っていた」。だが40年近くがたつと、事業所にぽつんと置かれた空っぽの木箱と帽子を見るたびに「やらないなんてもったいないな」と気にかけるようになっていた。

話す男性
撮影=鍋田広一

そのうち、福岡ドーム(現在のPayPay(ペイペイ)ドーム)や会議場などに弁当を配送していたときに配送業務の主任から「立ち売りの方が向いているんじゃないか?」と提案を受けた。もともと営業志望だったので接客はうれしかったが、同時に「自分に務まるだろうか」と不安もよぎった。前任者はすでに退社しており、引き継ぎもなければ何のノウハウも持っていない。

引き受ける以上は長くやりたい。しかし、本当に自分に向いているのだろうか。慎重な性分ゆえにずいぶんと考えて、ようやく引き受けた。主任に話を持ち掛けられてから1カ月が過ぎていた。

■スマホを見ていた高校生が思わず振り向いた

折尾駅看板
撮影=鍋田広一

2013年2月。寒空の下、慣れない重さの木箱を抱えてホームに立ったときのことを小南はよく覚えている。

「高校生たちはみんなスマホを触りながら歩きよってね。それを突然『お~りお~』と歌ったもんだから、『なんや!?』ってみんなが一斉に振り向いたんですよ」

呼び込みで歌う「かしわめし応援歌」と振り付けは自分で考えた。ちなみに、手を羽のようにひらひらとさせる舞いは“ようこそ折尾へ”という歓迎と“食べてくれていつもありがとう”という感謝の気持ちを表しているのだそうだ。「人と群れるよりも自分の個性を大事にしたい」という小南の信条がうかがえる。

最初のころは呼び込みに一生懸命になり、遅延していた電車の運行状況を知らせる構内アナウンスと声がかぶさって乗客から苦情を受けた。小南はそこで、単なる売店と立ち売りの違いを知ることになる。電話をしている人が近くを通れば声を落とし、観光客の道案内も引き受ける。一度、子どもがホームに転落したのを見たときは階下にいる駅員に知らせた。「商品管理は当然ですが、最も大事なのはお客様の安全です」と話す様子はまるでJR九州の一員のようだ。

立ち売りの復活は、東筑軒に新たな常連客ももたらした。月1回の通院で折尾駅を利用するたびに買ってくれる人や、小南の姿を間近で見てきた高校生が卒業報告をしてくれたこともあった。中でも、目の不自由な人を接客したときのことは鮮明に覚えている。

駅弁当を立ち売りする男性と客
撮影=鍋田広一

「『元気な声を聞きに来たんだ』と私に言ってくれました。その方の最寄り駅にもうちの売店はあるのに、わざわざ2つ離れた折尾駅まで買いに来てくれたんです。そのときは、立ち売りをやってよかったと心から思えました」

■便利な売店があるのに、立ち売りはなぜ消えないか

駅弁の立ち売りは、全国でもほとんどその姿をみかけない。多くはコンコースの土産屋や売店に置かれているから、改札をくぐる前に買っていく人も多いだろう。それでもなぜ、東筑軒はホームでの立ち売りにこだわり続けるのか。小南は「立ち売りの売り上げは二の次なんです」と言い切る。

「最初は少しでも売りたいと思っていました。改修前の折尾駅はホームの下にすぐ売店があって、競合していたんです。そのころは1日30個以上を売っていましたね」

その後、駅舎の改修工事をきっかけに売店は遠くに移動した。数を競う必要がなくなってからは、立ち売りの在り方をこれまで以上に考えるようになったという。

「これからはキャッシュレス(決済)の時代なのに、立ち売りは現金のみの取り扱いです。売り上げのメインはやっぱり便利のいい売店ですよ。呼び込みの歌に“応援歌”と名付けたように、弁当を売ることよりもお客さんを応援するのが自分の仕事。日本の立ち売り文化を守っていきたい、かしわめしで北九州全体をアピールしたいと思うようになりました」

目を輝かせ、いきいきと話す様子からは、頭を下げて回ったサラリーマン時代とはまるっきり変わったであろう自信と誇りが感じられる。しかし、立ち売りを始めたことは当初、家族にすら話していなかった。最高齢の新人という肩書に加え、給料は病院勤務時代の半分程度まで下がっている。「いやあ、なんか恥ずかしくてね……」。しかしあるとき、地元のテレビ番組に取り上げられたことで家族どころか、県内に広く知られてしまった。今では全国区の番組からも出演依頼が舞い込む人気ぶりである。

■今の仕事は「人生の集大成」

昨年11月に定年を迎え、再雇用された今も大きな木箱を抱えて変わらずホームに立ち続ける日々。小南は立ち売りの仕事を「人生の集大成」だと表現する。

笑う男性
撮影=鍋田広一

「休止期間はありましたが、立ち売りは2021年で100周年を迎えます。そして折尾駅周辺の再開発工事も2025年度に終わる予定で、新たな駅がオープンする。嘱託期間は65歳で終わりますが、この日まではやりたいですね」

20代から続けているフィットネスのおかげで、体はまだまだ動く。いくつまで働きたいか? との問いに「会社が許してくれるなら、70歳までやってみたい。レベルが下がらないうちは続けたいと思っています」とにっこり笑った。

60歳独身で1人暮らし。「不器用な性格やから、あんまりそういう機会がなかったですねえ」。仏具店時代に仏像の魅力にひかれ、京都の仏閣を年4回訪れることがライフワークになった。中でもお気に入りは瑠璃光院や秋に見る圓光寺。新型コロナウイルスの感染拡大で今年はまだ一度も行けていないが、いつもは休みの前日の夜にフェリーで出発し、兵庫県と淡路島に架かる明石海峡大橋を眺めながら船内でゆっくり過ごすのだという。

客先で塩をまかれながらも働き続け、家業や病院勤務と職を変えた小南は、50歳を超えて立ち売りという仕事にたどり着いた。今日も停車する電車にぺこりとお辞儀をし、「いってらっしゃい」「おかえりなさい」と乗客1人1人をやさしく見守っている。

どんな人にも人生の出番はやってくる。控えめでありながら99年の歴史を背負う小南の姿を見て、そんな言葉が浮かんだ。

連載ルポ「最年長社員」、第1シリーズは全5回です。5月1日から5日まで、5日連続で更新します。第2シリーズは6月に展開予定です。

(プレジデントオンライン編集部 内藤 慧)

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