あるとき「マレーシアの性暴力問題」に目覚めた35歳広告マンの転機
プレジデントオンライン / 2020年5月19日 15時15分
■マレーシア移住で知った性暴力被害の酷い現状
世界100カ国にオフィスを持つ広告代理店マッキャンエリクソンの松坂俊が家族と一緒にマレーシアに移住したのは2017年のこと。現在1カ月のうち3週間程度はマレーシアで働き、のこりの1週間程度は日本で働くという二拠点生活を送る。
移住してすぐの不慣れな異国の地での暮らしを親切に案内してくれたのが、当時マッキャンマレーシアで働いていたユイニ―という女性だ。
彼女は「多民族国家だから人との距離感を大切にすること」「食べることが大好きだからおいしい食べ物の話は盛り上がること」など、マレーシアで暮らす上で重要な文化や慣習を教えてくれた。また、週末になると松坂の家族も招いて現地の友人や知人を紹介してくれた。そのおかげで松坂は不安な気持ちを持つことなくマレーシアでの暮らしをスタートし、仕事と生活の基盤をつくることができた。
そんな大切な友人とランチを一緒にしていたある日、松坂は「昔、元彼にレイプされたんだよね」と告白を受ける。
「ユイニ―は8年間もその過去に苦しんでいたことを打ち明けてくれました。そしてその経験を自分と同じような境遇の人たちや社会のために役立てたいと言ったのです」
ユイニ―の話を聞いてから松坂が調べてみると、非政府組織の「Women's Aid Organisation(WAO)」が性的暴行の問題に取り組んでいることがわかった。WAOによると、報告されているレイプ被害件数だけでも2000年の3468件から2016年の5796件と1.67倍に増えている。しかも、17歳以上の独身女性を性暴力から守り、かつ被害者の権利が保護されるために十分な法律がない。そのため被害者は沈黙する傾向があり、実際に発生した事件の9件に1件の被害報告しかされていないという。
「ユイニ―の過去を聞いて、この現状を知った時、すごくショックを受けました。マレーシアには一緒に暮らす妻と娘もいます。それに僕も家族もマレーシアのことは大好きなので、自分がこれからも住む環境として何かアクションを起こさないとまずい。この問題に全面的にコミットしようと思うようになりました」
そんな思いから松坂は自らのプロジェクトを立ち上げる。
■マレーシアの法改正を目指す自腹のプロジェクト
初期開発に必要な機材や経費、渡航費は自腹で賄った。熱量があるうちにプロトタイプ(試作品)を出す必要があったからだ。自社のプロジェクトとして投資してもらう、第三者に投資してもらう。そういう選択肢もあったが、パワーポイントの企画書だけで承諾を得るには時間がかかる。
2018年5月、スポンサーもないままに松坂が個人のプロジェクトとして取り掛かると、プロジェクトに共感して無償で手を貸してくれる協力者も現れた。プロボノとして多くの協力者を巻き込むからには、そのリソースをいつまでも借りるわけにはいかない。そう思い動きを加速させると2018年12月からは会社のプロジェクトとして採択され、業務時間を割り当てられるようになり、一年弱でかたちになった。
そうして2019年に被害者のメンタルヘルス向上とマレーシアの性的暴行に関する法改正を目指すためのプロトタイプが世に出る。
性的暴行やDVの被害者に過去の自分に向けた手紙を書いてもらう。その際、筆圧と感情にひもづく脳波を計測。採取したデータを元に、手紙を動的なアート作品にする。2018年から2019年にかけて、30人以上に取り組んでもらった。松坂はこれを「Project Unsilence(プロジェクト・アンサイレンス)」と名づけた。
■「無関心な人たち」をアートで振り向かせたい
「このプロジェクトには2つのミッションがあります。1つは、『ライティングセラピー』のアップデートです。手紙を書くことは、過去と現在を客観的に見るというセラピー効果がある。しかし実際のセラピーは施術者によって質にバラつきが出ます。治療のための客観的な判断軸や根拠がないからです。脳波のデータを集めることで、セラピーの質を向上させたい」
「もう1つは、アートという表現を通して、この問題に無関心な人たちを振り向かせることです。被害者の心のうちはすごく複雑です。性的暴行やDV被害にあっても、恋人に対して憎しみと愛情が混ざりあっている。だから別れられないこともある。その複雑な感情を可視化するにはビジュアル表現が必要だと思った。ユイニーの場合、手紙を書き出した時には光のトゲのようなものがワーッと出てくる。そこからさらに書き連ねていくと今度はトゲが心臓のようにバクバクと動いて飛び出してくる。言葉では表現できない複雑な感情が一目でわかると思います」
先のWAO調査が示すように、マレーシアの性暴力被害には顕在化していない事例も多い。このプロジェクトをはじめた後、松坂は同僚の男性から「実は自分の妹も被害者なんだ……」と涙ながらに打ち明けられたという。
■日本とマレーシア「二拠点生活」の恩恵
プロジェクト立ち上げの背景には松坂自身の歩みも関わる。松坂は英ファルマス大学グラフィックデザイン科イラストレーション専攻で、卒業後には現地の広告会社でインターンをしながらフリーのイラストレーターをしていた。複雑な感情をそのまま表現できるビジュアル化の力を肌感覚で理解していたのだ。
そして何より日本とマレーシアのニ拠点生活も背中を押した。
「このプロジェクトは、日本人の自分が日本とマレーシアの二拠点生活で完成させたことに意味があります。マレーシア政府に自国内から法改正を訴えても、一意見としてスルーされてしまいがちです。日本から見てマレーシアはおかしいと発信する方が強いメッセージになる。マレーシアでは政府のキーパーソンや現地の技術者を紹介してもらう、日本では所属する大企業若手有志チーム『ONE JAPAN』のメンバーに協力してもらうなど、つながりを増やしたこともアウトプットを加速させました。プロジェクトのコアメンバーは9人。うちマレーシアのメンバーが4人で日本のメンバーが5人。日本のメンバーは当時、会ったこともないユイニーのストーリーに共感して、惜しみない協力をしてくださいました。テクノロジーのチームは完全に日本です。結果的にマレーシアと日本の両方を巻き込んだプロジェクトになりました」
■友人を助けることが社会貢献につながった瞬間
脳波のデータが蓄積されると治療の精度はさらに高まっていくという。現在、これまで集めたデータを活用しようとマレーシアの医療機関に働きかけ、共同リサーチを進めている真っただ中。集まったアート作品と論文をもとにマレーシア政府に訴えかけていくという。
「言葉や筆跡、感情のデータがたまってくれば、自己分析などにも使えます。教育機関と提携すれば子供が何に適性があるかを導き出すこともできます。また不登校や引きこもりといった教育現場の問題を克服するための装置にもなりえる」
振り返ると松坂は「自分の仕事は誰を救っているのか。ずっと違和感があった」という。
「仕事で徹夜とかは全然いいんです。だけど誰のためになっているかが分かればいいな、と。もちろん広告を全く否定しないし世の中に必要な仕事ですが、僕が徹夜の仕事をして幸せにできるのは世界の上位10%の人だけかもしれない。もしかすると残りの90%の中に不幸にしてしまっている人たちがいるかもしれない。自分が心から共感できて少しでも社会を前進させる仕事に打ち込みたい。その意味で今、友人のためにはじめた自分のプロジェクトの先に、誰かのためになっているという確かな手ごたえを感じています」
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マッキャンエリクソン クリエイティブディレクター
1984年東京都生まれ。英ファルマス大学卒業。2008年マッキャンエリクソンに入社。15年マッキャン・ワールドグループ国内外の若手社員グループ「マッキャン・ミレニアルズ」立ち上げ。16年より大企業の若手有志社員の実践コミュニティ「ONE JAPAN」に参加。17年よりマッキャンマレーシアのクリエイティブディレクター。2018年8月、TOY EIGHT創業。遊んでいる子供をAIで分析し才能を可視化するサービス及び知育施設をクアラルンプールで運営。同年4月にオンラインサロン「こどもの才能発見LAB」をオープン。
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(マッキャンエリクソン クリエイティブディレクター 松坂 俊 文=篠原克周 撮影=佐藤新也)
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