「恩人を裏切るなら出世させる」そんな誘いに若きプーチンはどう応じたか
プレジデントオンライン / 2021年5月29日 11時15分
※本稿は、佐藤優『悪の処世術』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。
■プーチンの「人情家」という意外な一面
鉄仮面のプーチンだが、しかし、その仮面の内側には「人情家」という意外な一面を抱え持っている。
そして、その意外性こそが彼が権力の階段を駆け上る切符となった。そもそも、彼はなぜ、ロシア連邦初代大統領エリツィンから絶大な信頼を得るまでになったのか。
私が、ロシアのある大富豪から「エリツィンは後継者をFSB長官のプーチンにするつもりらしい」と聞いたのは、1999年春だった。
当時のロシアでは、8人のオリガルヒヤ(寡占資本家)がGDPの3割を持っているといわれていた。クレムリンも彼らの意見を無視はできないのだ。
この大富豪は私を日本政府の窓口にしていたので、私は彼の事務所に足を運ぶことがよくあった。日本の政治情勢などについて一通り話したあと、彼にエリツィンの後継者について尋ねてみたところ、大富豪から出てきた名前が意外なことにKGB出身のプーチンであった。
「プーチンはエリツィンに何度も、ソプチャーク(元サンクトペテルブルク市長)との関係を断てば登用すると打診されていたが、それを断っているんだ。そのことで、かえってエリツィンは彼を信用するようになった」
ソプチャークという人物が何者かを知るためには、若かりし頃のプーチンについて触れておかなければならない。
■身を挺してかばってくれたソプチャークに忠誠を誓う
KGB第1総局所属時、旧東ドイツのドレスデンで働いていたプーチンは、ベルリンの壁が崩壊し東西ドイツが統一するや、社会主義体制に未来がないことを見抜いてKGBの予備役となる。
1990年に故郷のレニングラード(現サンクトペテルブルク)へ戻り、母校のレニングラード国立大学の学長補佐の職を得た。当時の学長が、改革派知識人のソプチャークだった。そこでプーチンは腹を据えてKGBを退職する。
1991年6月にソプチャークがレニングラード市長選挙で当選を果たすと、プーチンも市役所に移り副市長となってソプチャークを支えたが、当時、プーチンの不適切な財産管理によって市の財政に巨額の損失がもたらされたという批判が議会で巻き起こる。
プーチンに訴追の危険が迫ったが、この時に身を挺してプーチンをかばい、事件化されることを防いだのが市長のソプチャークだった。以来、プーチンはソプチャークに忠誠を誓う。1996年のサンクトペテルブルク市長選挙でソプチャークは再選を目指すも落選する。
ソプチャークを破って当選を果たしたヤコブレフは、副市長のひとりとしてソプチャークを支えてきたプーチンの同僚だった。
引き続き副市長としてともに働いてほしいと慰留されたが、プーチンはソプチャークを破った人間の下では働きたくないと拒否し、モスクワへ転居する。大統領総務局で働くようになり、エリツィンと面識を得るようになった。
■プーチンの固い忠誠心を信頼したエリツィン
ソプチャークはゴルバチョフに近い人脈に属する人であり、エリツィンとは緊張関係にあった。黙々と忠実に仕事をこなすプーチンを好ましく思ったエリツィンは、たびたびプーチンに声をかける。
「ソプチャークと絶交するならば、大統領府高官か閣僚に登用してやる」
プーチンはそのたびに断った。
「ソプチャークは私の恩人で友達です。友達との関係を断つことはできません」
決して「友達」を裏切らないプーチンという男は、エリツィンの目に好ましく映ったに違いない。特権乱用や不正蓄財の疑惑のあったエリツィン一族。政争の過程で流された血も少なくない。
それらの追及を最も恐れていたエリツィンにとって、決して裏切らない忠誠心こそ、後継者に求める資質であった。大富豪は私に言った。
「いまやまったく力がなくなったソプチャークにあれだけ義理立てするプーチンの姿に、エリツィンと彼の家族は『こいつを後継に据えれば、われわれを裏切ることは絶対にない』という感触を持つに至ったんだ」
鉄仮面の下に、そんな人情家としての一面があったことによって、プーチンはロシアのトップに君臨したのである。
■プーチンの対日戦略を決定づけた鈴木宗男
プーチンが人情家であると書いたが、だからといって彼が情緒によって動く人間であると考えるのは早計である。
プーチンは柔道を愛好しているし、佐竹敬久・秋田県知事から贈られた秋田犬の「ゆめ」をかわいがっているからといって、親日家だと思うのは間違いである。プーチンの関心事項はロシアの国益だけである。
日本がロシアにとって役に立つならば利用するし、日本の政策がロシアの国益を損なうと思えば日本を潰しにかかるだろう。逆に言えば、日本との戦略的提携が国益にかなうと思えば、北方領土についても譲歩する用意があるということだ。
さらに、日本との戦略的提携の可能性をプーチンが決して手放さないのは、彼が最初に出会った日本の政治家が鈴木宗男だったということとも関係していると思う。
KGBで訓練を受けてきたプーチンは感情を表に出すことはほとんどない。しかし、この人は、という相手には、ふとした瞬間にその感情をあらわにする。
2000年の年明け、前年の大晦日に辞任したエリツィンにより大統領代行に指名されたプーチンが、次期大統領としてほぼ間違いないと目されていた。この状況を受けて、日本政府は水面下で「小渕恵三総理の特使として『意中の人』をモスクワに送り、プーチンと接触したい」というメッセージをクレムリンに送っていた。
プーチンに「対露関係を日本は重要視している」というメッセージを伝えるとともに、次期大統領の人相見をその特使にさせようとしたのである。この時、総理官邸・外務省とクレムリンの連絡係を務めていたのが私だった。
小渕は特使となる「意中の人物」が誰なのか最初は黙して語らなかったが、それが鈴木宗男であることは明らかだった。
■「森・プーチン会談の日程をぜひ取り付けてほしい」
3月26日の大統領選挙を直前に控えた2月、クレムリンから裏ルートを通じて、私のところに「選挙前に会うことは不可能だが、第1回投票でプーチンが当選したならば、5月に正式に大統領に就任する前に特使との会談を実現できるかもしれない」というメッセージが届いた。
小渕は鈴木宗男を特使に指名し親書を持たせた。この親書には、ゴールデンウィークに首相が訪露してプーチンに会いたいという旨が書かれていた。しかし、それから間もなく異変が起きる。
ご存じのとおり、4月2日に小渕首相が倒れ再起不能になったのだ。丹波實駐ロシア大使をはじめとする外務官僚は、首相訪露の提案は白紙に戻すことを主張した。
しかし鈴木は、森喜朗幹事長が小渕総理の後継に内定しているのだから、森訪露の日程を組めばよいと考えた。これに対し、「森さんが国会で正式に総理に就任してからでなければ外交日程は組めない」と丹波大使は反対した。
私が「これは政治判断の話だから、外務省の事務方がとやかく言うべきことじゃない」と言うと、丹波大使にじろりと冷たい目を向けられた。大使公邸でこうしたやりとりをしていると、公邸の台所に鈴木あてに電話がかかってきた。
つなぐと、相手は森幹事長だった。「森・プーチン会談の日程をぜひ取り付けてほしい」という。それを聞いた丹波大使は「私も実はそれがいいと心の中で思っていました」とコロリと意見を変えた。「官僚は要領をもってその本分とすべし」という彼のモットーがよく現れていた。
■姑息な外務官僚のいやがらせ
クレムリンの大統領執務室に鈴木宗男が案内された時、私も末席に連なった。
白い大きな楕円形のテーブル中央に、鈴木が座った。1年半前の1998年11月12日に小渕総理が座った席である。私は左奥の最末席に腰掛けた。
鈴木は次期総理が幹事長の森喜朗であることを伝えると同時に、森の父親が日露友好に貢献した人物で、その遺骨がイルクーツク郊外のシェレホフ市にも分骨されていることを明かした。
その上で、4月29日前後にサンクトペテルブルクで非公式首脳会談を行うことを提案した。プーチンは手帳を取り出して確認すると「その日には別の予定を入れてしまったが、調整して会談する」と答えた。
私は「変だな」と思った。4月29日前後には、サンクトペテルブルクで小渕・プーチン会談を行うことについて、裏ルートではすでに日程を確保していたはずだからだ。なぜ別の予定が入っているのか。
ふと見ると、丹波大使が苦虫を噛み潰したような顔をしている。ようやく状況が読めた。丹波は小渕が再起不能であるという情報を得ると、首相官邸や自民党本部の了承を得ずに「4月29日の小渕・プーチン会談はなくなった」とロシア外務省に伝えてしまっていたのだ。
このフライングが露見することを恐れ、鈴木が森・プーチン会談として仕切り直すことを邪魔しようとしたのだ。姑息な外務官僚がやりそうなことである。
■「この席に小渕さんが座っているように思う」
プーチンとの会談の席で、鈴木は小渕総理の魂が乗り移ったかのように日露外交のために言葉を尽くしていた。
「この席に小渕さんが座っているように思う」とプーチンが言ったとたん、鈴木の目から涙があふれた。プーチンはしばらくそんな鈴木の様子を見つめていたが、やがてプーチンの瞳からも涙がこぼれ落ちたのである。
この席で、森・プーチン会談の日程が決まったことが、その後の北方領土交渉を肯定的に切り開いていくことにつながった。これが政治の力である。
会談が終了し、退室しようとする鈴木にプーチンが声をかけた。「できればのお願いなのだが」と前置きし、ロシア正教会のアレクシイⅡ世総主教(最高指導者)訪日の際に天皇陛下に謁見できるように働きかけをしてもらえないか、と言う。「もしも迷惑にならなければ」とプーチンは付け加えた。
鈴木は「全力を尽くす」と約束し、実際にその謁見を実現させた。プーチンは信頼する相手にしか「お願い」はしない。しかも、無理難題を押し通すのではなく、あくまでも「迷惑にならなければ」という態度で依頼する。
具体的な人間関係を通じて相手の民族や国家を見極め、時に鉄仮面の下に感情をさらけ出し、人の心にぐっと入り込んでくる。独裁者の多くは、人の心を掴む術に長けている。一方で、自身の地位を盤石なものとするために、敵と見定めた相手には容赦しないのである。
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作家・元外務省主任分析官
1960年、東京都生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了。2005年に発表した『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大矢壮一ノンフィクション賞受賞。『獄中記』(岩波書店)、『交渉術』(文藝春秋)など著書多数。
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(作家・元外務省主任分析官 佐藤 優)
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