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韓国と親密だった自民党が"嫌韓"に変質したのは「2012年のアキバ演説」からだ

プレジデントオンライン / 2021年6月30日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/oasis2me

20世紀まで日本の保守政治家は韓国と親密なつながりを持っていた。たとえば安倍晋三元首相の義理の祖父である岸信介は、日韓協力委員会の日本側初代会長。さらに父である安倍晋太郎は下関で在日実業家の熱心な支援を受けていた。そうした関係はなぜ「嫌韓」に変質したのか――。(第1回/全3回)

※本稿は、青木理・安田浩一『この国を覆う憎悪と嘲笑の濁流の正体』(講談社+α新書)の一部を再編集したものです。

■自民党が決定的に変質した光景

【安田浩一(ノンフィクションライター)】拉致問題以降、自民党が変質していった過程への青木さんの分析はとても興味深いものでした。僕は永田町にはくわしくないんだけど、ただ、僕が自民党を見ていて決定的に風景が変わったなと思ったのは二〇一二年。もちろんそれまでにも青木さんが話されたような紆余曲折はあって、二〇〇二年以降は安倍的な価値観に支配されていくのだけれど、僕にとって非常にわかりやすいかたちで自民党の変化を意識したのは、二〇一二年末の衆院選挙戦の最終日、いわゆるマイク納めの日だったんです。

安田浩一さん
撮影=西﨑進也
ノンフィクションライターの安田浩一さん - 撮影=西﨑進也

マイク納めというのは、それまでは新宿とか渋谷とか池袋といった大ターミナルでやるのが慣例でした。ところが二〇一二年は秋葉原で行われました。僕はそれを見に行ったわけですね。これまで何度も、自民党の最後のお願いというマイクパフォーマンスを見てきたんだけど、それと秋葉原はまったく違う雰囲気なわけですよ。

まず聴衆に日の丸の小旗を配布しているんです。それをやっているのは、自民党のネットサポータークラブ、J‐NSCや若手党員。それで、夜七時くらいに自民党の大型バスが安倍を連れてくるんだけれど、その前に都議あたりが演説しているわけですよね。

その際にメディアがカメラの場所とかをキープするわけ。そこで、「カメラこっち」とか「マイクこっち」とか言って移動している報道陣に向けて、一斉に、罵声が飛ばされたんです。

「マスゴミ帰れ」と。とくに槍玉に上がったのは朝日や毎日、TBSで、「出てけ、出てけ」という声が見事なまでに湧き上がる。だれかが指揮をとっているわけではなく、自然発生的に聞こえたんだけど、「毎日帰れ」「朝日帰れ」「TBS帰れ」と、延々とシュプレヒコールが繰り返される。これは、それまでなかった光景だったと思います。

■秋葉原に集まった聴衆の熱狂

【安田】以降すべての国政選挙戦は最終日が秋葉原なんですよ。自民党本部には遊説局という部署があって、僕は取材したことがあります。「なぜ秋葉原なんですか」と聞いてみたんですね。

そもそものきっかけは、二〇一二年九月に自民党総裁選があって、そのときに立会演説会を秋葉原でやってみたら思いのほか反応が良く、「オレ達の太郎!」という看板ができたりして、めちゃくちゃ人が集まってきた。秋葉原にはオタクが多いとかネトウヨが多いという意味ではなく、ただ親和性が高いというか、そういう人が集まりやすい環境があったというわけです。

【安田】それで、総裁選が秋葉原で盛り上がったから、二〇一二年の衆院選のマイク納めも秋葉原でやってみたらということになったらしい。するとやはり想像以上に人が集まって熱狂したから、これはいけると思ったそうです。

各党党首の「最後の訴え」に耳を傾ける有権者=2012年12月15日、東京・秋葉原駅前
写真=時事通信フォト
各党党首の「最後の訴え」に耳を傾ける有権者=2012年12月15日、東京・秋葉原駅前 - 写真=時事通信フォト

■「まるで国威発揚の祭典」選挙戦にはなかった姿

【安田】排他的な「マスゴミ出てけ」というシュプレヒコール、それから集まった人に配られる日の丸の小旗、それが一斉に打ち振られる様子――まるで国威発揚の祭典ですが、これはそれまでの選挙戦にはなかった風景であり、二〇一二年以降、自民党のありようとして僕の中に刻印されているんです。自民党は、まったく別のものになってきたなという強烈な印象ですね。臆面もなく排外的な姿を見せつけるようになった。

気がついてみたら、青木さんが言われたとおり、戦後民主主義的な価値観を持つ政治家はほとんどいなくなっていた。野中広務であるとか古賀誠、山崎拓など、癖のある、しかし戦後の価値観を身に宿した人が一線から退いて、戦争を知らない二世三世議員が自民党の中心となった。つまり、風景だけじゃなくて内実までも変わっていったわけです。

排他的なナショナリズムが行き渡っていくのは、自民党だけのことではない。日本の右派と呼ばれている人たちが、きわめて差別的な嫌韓の姿勢を強めるのは、やはり二一世紀に入ってからだと思います。

たとえば昔の右翼って、僕も取材しましたけど、台湾や韓国とは、反共産主義の防波堤、反共の同志として、連帯していたわけです。いまではすごく排他的な運動をしている瀬戸弘幸という日本版ネオナチのような人がいて、街頭でハーケンクロイツを掲げてあちこちでデモをやり、あいちトリエンナーレ糾弾を支援し、僕や青木さんの批判などをブログに書いている。ところが彼は、若いころには韓国の農村開発運動――セマウル運動に参加していて、韓国に実際に出向いて農村で作業をやっていたんですよ。

■右翼にとって韓国は同志だった

【安田】また、一部の右翼団体は、韓国で軍事訓練のマネゴトなんかをしていたわけです。つまり、右翼にとっては反共の同志として韓国が存在していた。そしてまた、かつては右翼の構成員に在日コリアンがいたことも事実です。

僕はある右翼団体の幹部に聞いたことがあります。「なんでいま反韓・嫌韓なんですか?」と。いまや右翼団体もそのへんのネトウヨと思想そのものが変わらなくなっているから、「昔は韓国とは、反共の同志だと言って、がっちり手を握っていたじゃないですか」と訊(き)くと、「そのとおりだ。じつは韓国が文民政権になってからパイプがなくなった」という答えが返ってきました。

つまり日本の右翼が向き合ってきた相手は韓国の一般庶民ではなく、軍や情報機関の人間だったんです。日本の陸士上がりの軍人なんかが韓国のなかにけっこういたんですよね。

【青木理(ジャーナリスト)】ええ。朴正熙などはまさにその代表格です。先ほどお話ししたように、朴正熙は旧日本軍の陸軍士官学校出身で、だから日本の保守政界と濃密なパイプを持っていました。朴正熙が暗殺された後にクーデターで権力を掌握した全斗煥(チョンドゥファン)そして盧泰愚(ノテウ)といった歴代大統領も軍出身の元軍人です。

青木理さん
撮影=西﨑進也
ジャーナリストの青木理さん - 撮影=西﨑進也

■パイプを失い広がった「排除の空気」

【安田】そういうことです。旧日本軍の影響を受けた親日派的な存在はかつては韓国軍人のなかに多かった。日本の右翼はその層と反共という点で一致し、同時に日本政界との利権のパイプ役となり、固く結びついていた。ところが文民政権になってからは韓国社会も変化し、民主主義を成熟させ、日本の右翼は韓国とのパイプを失うわけです。

かつての親韓派である右翼幹部は私の取材に対し、「我々は韓国の民間にもパイプを持つべきだった。そうしたら日韓の右翼は団結できたかもしれない。しかし我々は軍としかつきあいがなかったから、韓国自体とのパイプが断ち切られた。そうなると韓国を、日本の国益という視点だけで見るしかない。そうすると我々は韓国の反日が許せない。竹島をめぐる領土政策が許せない。我々としては韓国の内情に深く関われないし、内情を知る機会も手段も持つことができないから、こうしたスローガンしか出てこないわけだ」と解説しました。たぶんそのとおりだろうなという気がします。

そういったかたちで、民間の右翼から政権に至るまでが、二一世紀に入って、色彩を変え、姿を変え、内実を変えていく。排除の空気がどんどん広がっていく。それにともなって、社会もメディアも、そうした気配に感染してよりいっそう、差別的で排他的な社会が作られたのかなという気がしますね。

■安倍一族と在日コリアンの濃密な関係

【青木】そうですね。二一世紀に入って色彩が変わった、というのはそのとおりだと思います。そして二〇〇二年の日朝首脳会談などが分水嶺になった。

一方、かつての日韓保守政界の親密な関係という意味では、安倍晋三の選挙地盤である下関の風景も象徴的でしょう。僕は現地で取材して『安倍三代』にも書きましたが、山口県下関市にある安倍の邸宅や事務所は、もともとパチンコ店を営んでいた在日コリアン実業家の土地だったんですね。

もちろん安倍晋三が手に入れたものではありません。彼にそんな才覚も懐の深さもあるはずがなく、父である安倍晋太郎が地元で在日実業家の熱心な支援を受けていたからです。その実業家はのちに帰化し、すでに亡くなっていますが。

せっかくなので安倍家のルーツを簡単におさらいすると、晋三の父方の祖父に当たる安倍寛(かん)が政治家として最初に国政進出を果たし、一九三七年の総選挙で衆議院議員に初当選しました。安倍家は日本海に面した小さな漁村で代々醸造業を営んでいましたが、安倍寛は村長などを務めて地元の人びとの厚い信頼と支持を集めていたようです。

【青木】そうした支援を背に国政進出した安倍寛はじつに立派な政治家でした。軍部が圧倒的な力を持っていた時代に軍部の暴走や富の偏在を批判し、一九四二年のいわゆる翼賛選挙では大政翼賛会の推薦を受けずに当選を勝ち取っている。まさに反戦・反骨の政治家です。安倍晋三に爪の垢でも煎(せん)じて飲ませたいぐらいですが、残念ながら安倍寛は病気がちで、終戦の翌一九四六年に五一歳の若さで亡くなってしまう。

■下関の邸宅や事務所用の土地提供も

その安倍寛の一粒だねである晋太郎が岸信介の娘・洋子と結婚し、毎日新聞の政治部記者を経て後継になるわけですが、晋太郎も決して左右に傾かないバランス型の政治家でした。また、下関は古くから日本と朝鮮半島との交流の要衝になってきた港町ですからね。現在も釜山と行き来する関釜フェリーが就航していますが、地元には在日コリアンもたくさん暮らしているわけです。

そして安田さんが一部指摘されたように、冷戦体制下では日本の保守政界と韓国の軍事政権が反共と利権を結節点に深く広く結びついていました。したがって韓国系の在日実業家が晋太郎を支援するのはとくに不思議でもなく、下関では邸宅や事務所用の土地の提供までを受けていた。

このうち下関の高台にある邸宅の敷地は晋太郎時代に登記が移され、現在は晋三名義になっています。

日野山公園の頂上から見た下関市街地
写真=iStock.com/Koshiro Kiyota
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Koshiro Kiyota

これには事情があって、かつて「パチンコ疑惑」が右派メディアのキャンペーン報道で政治問題化しましたよね。主に社会党議員らがパチンコ業界と癒着しているという点が批判の的になったイデオロギー色の強いキャンペーンでしたが、「疑惑」は当時の自民党幹部だった晋太郎にも飛び火した。下関の邸宅などの土地は在日実業家から格安で提供されているではないかとメディアに指摘され、邸宅の所有権は間もなく晋太郎に移されたんです。

しかし、事務所の敷地は現在も在日実業家が立ちあげた会社が所有者になっているはずですよ。

■「自民党の政治家と結びつくのは自然なこと」

【青木】こういう政治と地元財界の関係が健全かどうかといえば、相手が在日であろうとなかろうと不健全だと僕は思いますが、かつての日韓の関係を、とくに両国の政権をつないでいた深く密接な関係を踏まえれば、似たような話はあちこちに転がっていたでしょう。

ご存知のように在日コリアン社会にもいわゆる民団(在日本大韓民国民団)系と総聯系があって、民団系で商売をやっている在日実業家にしてみれば、自民党の政治家と結びつくのはむしろ自然なことでした。

もうひとつ指摘しておかねばならないのは、下関という街で安倍寛や安倍晋太郎が置かれていた状況です。日本海に面する村で醸造業を営んできた安倍家は、地元では絶大な支持を受けていましたが、選挙区内の最大都市である下関ではアウトサイダーだった。下関のエスタブリッシュメントはなんといっても林家でしたから。

【安田】サンデン交通を経営する林一族ですね。私も週刊誌時代に同社の労働争議などを取材したことがあります。下関における同家の存在感の大きさに驚いたことがあります。

【青木】ええ。地元で大きな力を持つサンデン交通グループやガス会社などを牛耳る林家は戦前から政治家を輩出し、戦後に通産官僚を経て政界入りした故・林義郎は厚生大臣や大蔵大臣などを歴任しています。

■「日韓地下水脈」をつないだ主役は祖父・岸信介

【青木】現在はその系譜を長男の林芳正が継いでいるけれど、晋太郎が政界入りしたころの下関は林家の威光が絶大で、主だった地元有力企業はほとんどが林家の支援についた。中選挙区制のもとでそんな選挙を戦うことになった晋太郎は当初、少なくとも下関では新参者のアウトサイダーであり、だから地元では在日コリアンの実業家をはじめとするアウトサイダーたちの熱心な支持に頼った。

青木理・安田浩一『この国を覆う憎悪と嘲笑の濁流の正体』(講談社+α新書)
青木理・安田浩一『この国を覆う憎悪と嘲笑の濁流の正体』(講談社+α新書)

しかも晋太郎がなかなか大したものだったのは、民団系の在日実業家らの支援を受けつつ、総聯系の在日コリアンにも決して敵対的ではなかったらしい点です。

下関で取材してみると、総聯系の在日コリアンは安倍晋三をクソミソに批判しますが、晋太郎のことを悪くいう在日コリアンはほとんどいない。聞けば、下関の朝鮮学校を密かに視察して大量の文房具を寄贈したこともあったそうです。やはりバランスがいいというか、懐の広い政治家だったのでしょう。晋三とは雲泥の差です。

その晋太郎の最大の後ろ盾は義父の岸信介であり、ある意味ではその威光に頼るひ弱なプリンスといった見方をされてきたわけですが、晋三が敬愛しているらしき岸もまた朴正熙政権と深く広く結びついていました。いや、往時の「日韓地下水脈」をつなぐ主役こそ岸だったと評しても過言ではないでしょう。

国交正常化から間もない一九六九年に設立された日韓協力委員会の日本側初代会長は岸信介。同時期に華々しく就航した関釜フェリーの第一便にも岸は晋太郎らとともに乗船しています。もちろん反共というイデオロギーが最大の動機だったでしょうが、日韓国交正常化に伴う巨額資金などをめぐる利権漁りの側面も強かったはずです。

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青木 理(あおき・おさむ)
ジャーナリスト
1966年、長野県生まれ。慶應義塾大学文学部卒。1990年、共同通信社入社。大阪社会部、成田支局などを経て、東京社会部で警視庁の警備・公安担当記者を務める。ソウル特派員を経て、2006年からフリーランス。著書に『トラオ 徳田虎雄 不随の病院王』『絞首刑』『北朝鮮に潜入せよ』『日本の公安警察』などがある。

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安田 浩一(やすだ・こういち)
ノンフィクションライター
1964年生まれ。静岡県出身。「週刊宝石」「サンデー毎日」記者を経て2001年よりフリーに。事件・社会問題を主なテーマに執筆活動を続ける。ヘイトスピーチの問題について警鐘を鳴らした『ネットと愛国』(講談社)で2012年、第34回講談社ノンフィクション賞を受賞。2015年、「ルポ 外国人『隷属』労働者」(「G2」vol.17)で大宅壮一ノンフィクション賞雑誌部門受賞。著書に『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書)、『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)、『ヘイトスピーチ』(文春新書)などがある。

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(ジャーナリスト 青木 理、ノンフィクションライター 安田 浩一)

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