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「一番見るのはヒカキン」盲学校の生徒たちがYouTubeに夢中になるワケ

プレジデントオンライン / 2021年6月30日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/oatawa

若者に人気のYouTube。それは視覚障害のある若者の間でも同じだ。ある盲学校の生徒たちは「YouTubeでヒカキンの番組をよく見る」という。彼らはどうやって動画を楽しんでいるのか。「Screenless Media Lab.」による連載「アフター・プラットフォーム」。第3回は「スマホの登場がすべてを変えた」――。(第3回)

■視覚に頼った番組や広告が増えている

インターネットの発達とスマートフォンの普及により、人が日々さらされる情報量は近年、飛躍的に増加し、情報過多の弊害が指摘されるようになった。

2018年にNHK放送文化研究所が実施した「情報とメディア利用」世論調査でも、年代を問わず多くの人が「情報が多すぎる」「情報疲れが起きている」と回答している。

いつ頃からか、テレビには頻繁(ひんぱん)に字幕が入るようになった。字幕機能の設定にかかわらず、番組中のすべてのコメントが字幕表示される傾向が強まっている。

視覚のみで番組のリズム感を表現するこの手法は、電車内や街頭で音声を伴わずに放映されるデジタルサイネージ広告等が典型だ。ほかにも、移動中などに音を消してスマホ画面を見る習慣が一般化したことで、ネット上の動画CMでも同様の手法が採用されるようになった。

効果音やあおり文句などを動画の中で視覚的に表現し、音声なしでも不足を感じさせないようコンテンツを構成するのだ。このように、動画メディアでは、音声情報を視覚に置き換える動きも広がっている。より分かりやすくはなるが、情報量はさらに増えるとも言えるだろう。

ではこうした傾向を、視覚に障害のある人たちはどう感じているのだろうか。

■目が見えないと豊かな感性が身につきやすい?

劇作家の寺山修司が制作し1984年に放映された、ソニーカセットテープのラジオCMがある。作中、寺山は目の見えない若者たちが学ぶ文京盲学校を訪ねた経験を語り、「彼らは色を音で表現するんです」と言って、その例を挙げる。

「白い色はこんな音(蒸気機関車の汽笛の音が流れる)」「金色はこんな音(金属の鍋を叩く音)」。「鏡はどんな音」と訊くと、「絹糸の切れる音」という答えが返ってきた。

その表現は独特で、詩的で新鮮な印象を受ける。「目の見えない人々には、健常者が持っていない独自の感覚や感性の豊かさがあるのではないか」と感じさせられる。このCM作品は「ACCパーマネントコレクション(CM殿堂入り作品)」に選定され、今もYouTubeで視聴することができる。

それから40年後の現在、目の見えない若者たちはどのように世の中を聞き取っているのだろうか。

■ラジオかと思いきや「YouTube見てます」

われわれは目の見えない若者が置かれた今の状況を知ろうと、かつて寺山修司が訪れた東京都立文京盲学校に取材を依頼し、許可をいただいた。高校生にあたる年代の視覚障害者の生徒が通学する特別支援学校である。

取材を申込んだ時点のわれわれの思惑は「目の見えない子どもたちは、視覚重視の方向に向かう動画メディアに疎外感を感じており、聴覚メディアであるラジオの重要性を訴えるのではないか」というものだった。

だが、実際に盲学校の生徒たちに話を聞くと、回答はまったく異なるものだった。「みなさんはふだん、どんなメディアに接していますか」という最初の質問に対し、「一番見ているのはYouTube」という、いかにも今どきの高校生らしい答えが返ってきた。

驚いたのは、生徒たちがYouTubeを「見る」と表現した点にある。

ネット上でもっともポピュラーな動画メディアであるYouTubeは、「聴覚情報の視覚化」がもっとも進んだコンテンツでもある。それをなぜ、視覚障害者の子どもたちが好んで「見て」いるのか。

「一番見ているのはヒカキンかな」
「うん。ヒカキンおもしろい」

名前が挙がったヒカキンは、商品紹介動画などを投稿して10代の若者を中心に人気を博している男性YouTuberである。

われわれは視覚障害のある生徒たちの趣味嗜好が、あまりに一般の若者と同じであることに虚を突かれた。

■商品の登場から味の感想まで、すべてが分かる

ヒカキンの動画を音の面から分析してみよう。まず、さまざまな効果音やエフェクトが巧みに使用され、番組を盛り上げている。音と言葉の使い方に細かく神経が配られ、情報空間として完全な整合性を保っているのだ。

商品紹介動画で例えるならば、「これ買ってきた」という言葉が「ドーン」という効果音とともに語られ、音を聴いているだけで「商品が今、登場した」ことが分かる。

商品の開封時には「では、今から開けます」という語りがつき、開封の後には商品の紹介や説明があり、「使ってみて、ここがおもしろかった。ここがすごい」といった感想が続く。

「これ、すげえな」というとき、口ではそう言いながらも「がっかり」する場合もある。しかし、ここでは声色が完全に使い分けられているので、音だけですべての状況が分かるように構成されている。

目の見えない若者たちからすると、非常に分かりやすい。

番組の内容も、ラジオ以上に現代性を持っている。同世代に人気のYouTube番組という現代を象徴するコンテンツが、音によって完璧に表現され、目の見えない生徒たちもそのおもしろさを享受している。それを彼らは「見る」と表現しているのだ。

■格闘ゲームのプレイは「音」で

取材をしていてもうひとつ驚いたのが、盲学校の生徒たちがテレビゲーム、それも対戦型の格闘ゲームを楽しんでいることだった。

ヘッドセット
写真=iStock.com/kazuma seki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kazuma seki

生徒たちに「ふだんは何をして遊んでいますか」と聞くと、「ゲーム」「対戦ゲーム」という答えが返ってくる。健常者の高校生となんら変わりないが、彼らは音によってキャラクターの動きを聞き分けているという。

健常者はほとんど意識していないが、対戦ゲームではキャラクターの動きに常に効果音が伴っており、その音にもすべて異なる意味がある。パンチを打ったときの音とキックを放ったときの音は異なり、キャラクターが跳躍し、着地したときの「シュタッ」という音ひとつをとっても、キャラクターごとに違うのだ。

動作ごとに効果音がつき、その音が動作ごと、キャラクターごとに異なっているので、彼らは音の組み合わせによって攻防の様子を知り、「今、何が起こっているのか」を聞き取ることができるのだ。

■ドラゴンボール、ストリートファイターⅡなど

ただし、すべてのゲームがそこまで細かく作り込まれているわけではない。

作り込みができていない、音的にチープなゲームは視覚障害者にはプレイできない。取材中、遊んでいるゲームとして生徒たちが挙げたのは『ドラゴンボール』や『ワンピース』のバトル系のゲーム、『ストリートファイターⅡ』の特定のバージョンなどだった。

『ストリートファイターⅡ』は左右に配置されたキャラクター同士が戦う、2Dタイプの格闘ゲームである。戦闘中にキャラクター同士が入れ違い、左右逆になることもある。

比較的初期のバージョンでは、キャラクターごとの効果音はモノラルで、右に配置されたキャラクターの音は右からだけ、左に配置されたキャラクターの音は左からだけ聞こえるようになっていた。それであれば彼らは、キャラクターが左右入れ替わったときにもすぐに聞き分けることができる。

しかしバージョンが上がっていくと、音響が健常者目線でリッチになり、両方のキャラクターの音が左右から同時に聞こえてくるステレオフォニックな作りになっていく。

そうなると生徒たちには、モノラルだったときには判断できた、音によるキャラクターの位置関係の判別ができなくなってしまうのだという。

■スマホの登場が視覚障害者の世界を変えた

情報技術の発展によって、これまで辞書のように大きかった点字の本も、点字デバイスの改良によって、読みやすさは格段に向上しているという。また、文京盲学校の生徒たちの中には、一般の高校生以上にたくさんの本を読んでいる人もいる。特に近年、生徒たちの状況に大きな変化が生じたからだ。

文京盲学校のある先生は、盲学校に勤務した後、5年ほど一般の高校に異動になり、最近また戻ってきたのだが、「異動でいなかった5年の間に、劇的に変わっていた」と言う。その大きな変化とは、スマートフォンの普及だった。

スマホやタブレットのテキスト読み上げ機能の発展は著しく、特に倍速機能を利用すれば、数多くの読書が可能となる。したがって、集中してじっくり読む時は点字デバイスを、多くの読書には音声読み上げと、さまざまなツールを用いた情報体験が可能になっているのだ。

「視覚障害者にとって、スマホは圧倒的なゲームチェンジャーだった」と先生たちは言う。

スマホは音声入力、音声読み上げなど、視覚障害者の困りごとを補い、視覚世界を音に変換するツールとして圧倒的な力を発揮した。視覚障害者の意思に応え、目の代わりとなって、彼らが「知りたい」と思ったこと、「今これが見たい」と思ったことをその場で「見せてくれる」ツールなのだ。

■われわれが持っていた傲慢で誤った期待

今回の取材でわれわれは、寺山修司が1984年に投げたと同じ、色に関する質問もしてみた。

だが生徒たちの答えは、40年前とはまったく変わっていた。

空は青であり、太陽は赤、金属の色は銀色だという。わざわざ音に変換するようなことはなく、表現的にも感覚的にも健常者と何も変わらない。

なぜそうなったのか。それは情報量の圧倒的な増加が生んだ変化だった。

今も昔も、目の見えない子どもたちは直接、青い空を「見る」ことはできない。けれども今の子どもたちは、青い空を称える詩や小説を大量に「読む」ことができる。さまざまな作家の目を通じて、色の概念を身につけている。その感覚は健常者であるわれわれとほとんど変わらないものである。だから今、視覚障害者である彼らにとっても、空は生き生きとした青色なのだ。

われわれは「かつて寺山修司が見出した、視覚障害者特有の感性的な豊かさを、現代において再確認したい」という、今思えばいかにも健常者の傲慢さが漂う狙いをもって、40年前に寺山が行ったのと同じ盲学校に取材を申し入れ、生徒たちに同じ質問を投げかけた。

寺山修司が驚嘆したのと同じように、生徒たちがわれわれと異なる感覚器を使って世界を認識しているのであれば、感性的にもわれわれと違っており、そのことに新鮮な驚きを覚えるのではないかと期待していた。

しかし、それは誤った期待だった。

■彼らの情報空間は健常者と大きく変わらない

取材を通じて思い知らされたのは、「われわれが『感性的な表現の豊かさ』と勝手に思っていたものは、実はただの情報格差に過ぎなかった」という事実である。

スマートフォン
写真=iStock.com/Chinnapong
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Chinnapong

40年前、視覚障害者の子どもたちは、健常者との情報格差を彼ら独自の表現で補っていた。それをわれわれは「感性の違い、豊かさ」と思い込んでいた。

ところが2010年代に入り、スマホや点字端末のような新しいデジタルツールを用いて、テキストを音声や点字に自在に変換できるようになったことで、視覚障害者が取得できる情報量は、従来の制限を越えて飛躍的に広がった。

そうやって豊かな情報を得られるようになったとたん、彼らの中の情報空間はわれわれと大きくは変わらないものになった。

われわれはこの取材で改めて、技術が情報格差をどのように埋めようとしているのか、それにより人間の感性にどのような変化が生じているのかを、まざまざと知ることになった。

■情報過多だからといって単純化できない

冒頭で触れたように、現代社会では「情報が視覚ばかりに偏るようになっている」「SNSで情報過多になっている」とされ、識者がそれを問題視している。しかし情報増加が意味すること、それにより社会にどんな変化が起きつつあるかについては、単純化された議論で語り尽くすことはできない。

身体障害者に対して、「機能が制限されているがゆえに生まれる感情の豊かさ」というような、勝手なポジティブなイメージや幻想を抱くのも、健常者の側の傲慢なのだ。

われわれはしょせん、自分が受け取っている情報に基づいて構築された情報環境の虜である。その点では健常者も視覚障害者も変わりはなく、違いがあるとすれば、それは情報の「量」だけなのだ。

情報こそが私たちの内的世界を作っている。今回の盲学校への取材は、その事実をありありと教えられた出来事だった。

最後に、本稿の執筆にあたっては、東京都立文京盲学校の生徒、教職員の方々に伺ったインタビューから多くの示唆を得た。関係者に厚く御礼申し上げたい。

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Screenless Media Lab. 音声メディアの可能性を探求し、その成果を広く社会に還元することを目的として2019年3月に設立。情報の伝達を単に「知らせる」こととは捉えず、情報の受け手が「自ら考え、行動する」契機になることが重要であると考え、データに基づく情報環境の分析と発信を行っている。所長は政治社会学者の堀内進之介。なお、連載「アフター・プラットフォーム」は、リサーチフェローの塚越健司、テクニカルフェローの吉岡直樹の2人を中心に執筆している。

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(Screenless Media Lab.)

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