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コスプレイヤーが東大博物館に通っていたら……標本にハマった男性が「路上博物館」の“館長”になるまで

プレジデントオンライン / 2021年10月5日 9時15分

写真=筆者撮影

「動物の骨」を使って博物館の面白さを発信している人がいる。国立科学博物館の元研究員・森健人さんは、3Dプリンタで標本のレプリカを作り、それを広く販売したり、路上や公園で披露したりする「路上博物館」の館長だ。フリーライターの川内イオさんが取材した――。

※本稿は、川内イオ『ウルトラニッチ 小さな発見から始まるモノづくりのヒント』(freee出版)の一部を再編集したものです。

「路上博物館」館長の森健人さん

■動物の頭蓋骨が並ぶ“不思議なアトリエ”

千葉県松戸市の閑静な住宅街のなかにある大きな二世帯住宅。

現在はシェアアトリエとして活用されているその一室を訪ねると、雑然とした部屋のなかに動物の頭蓋骨がいくつも置かれていた。もし、泥棒が深夜なにも知らずにこの部屋に忍び込んだら、懐中電灯の灯りに浮かび上がる骨を見て悲鳴を上げるかもしれない。

これらは本物の白骨ではなく、アトリエの3Dプリンタで出力されたもの。素人目にはなんの骨か判別がつかないが、ライオン、キリン、パンダなどの骨が、本物とほとんど変わらないほど精巧なレプリカになっている。

棚に並ぶ骨格標本
写真=筆者撮影
アトリエに並ぶ動物標本のレプリカ。まるで本物のようだ。 - 写真=筆者撮影

この不思議なアトリエを「実験拠点」としているのが、一般社団法人「路上博物館」。代表と館長を務めるのは、国立科学博物館が設立した科学系博物館イノベーションセンターの元職員、森健人さんだ。

この、3Dプリンタで成型した動物の骨格標本をミュージアムグッズとして販売するという前代未聞のモノづくりに挑む男の野望とは――。

■豚のマスクをリアルに作りたい

神奈川県で高校まで過ごした森さんは、「なんとなく海と生き物が好き」という理由で福井県立大学の生物資源学部に進学した。しかし、授業の内容は想定外だった。

「福井県立大学は福井県に貢献することが重要視されていて、福井県の海洋生物資源といえば鯖(さば)のへしことか蒲鉾(かまぼこ)とか食品加工なんですよ。もう、まったく興味が持てなくて。なにも調べずに受験しちゃったからな」

学業に身が入らない森さんは、ゲームや漫画好きが集っていた文芸部で、ラバーマスク作りに打ち込んだ。ラバーマスクとは、映画やアニメのキャラクターを模したり、ユニークな表情をしたゴム製の被り物である。

手作りのマスクをかぶる森さん
写真提供=路上博物館
手作りのマスクをかぶる森さん - 写真提供=路上博物館

子どもの頃からコスプレが趣味の森さんにとって最大の課題になっていたのが「顔」。いくらメイクをしても顔を変化させるには限界がある。しかしある時、「マスクを被れば没入感がある」と気づいてから、ラバーマスクを自作するようになった。

その頃はホラー小説やホラー映画にはまっていたそうで、人気映画『SAW』に登場する殺人鬼がかぶっていた豚のマスクを作っていた時のこと。「もっとリアルに作りたい。もっと豚のことを知りたい」と思った森さんは、突拍子もない行動に出た。福井大学の医学部に通っていた知り合いに、「解剖に潜り込ませてほしい」と頼んだのだ。

■標本作りにひかれたきっかけ

もちろんその願いは叶わなかったが、そこから動物の解剖に興味が湧き、いろいろと調べていた大学4年生の時に、友人が『小さな骨の動物園』という本をプレゼントしてくれた。

コスプレをする森さん
写真提供=路上博物館
コスプレをする森さん - 写真提供=路上博物館

その本には、ドイツにある「標本作成専門学校」に通い、日本で唯一の標本士になった相川稔さんがコラムを寄せていた。「こんな人がいるのか!」と驚嘆した森さんはすぐに相川さんの連絡先を突き止め、当時、ドイツの博物館で働いていた相川さんにメールを送った。

しばらくすると、返事が来た。相川さんは、自身が卒業したボーフム市立高等職業専門学校について、高校の授業をしながら標本作りも学ぶ場所と説明したうえで、こうアドバイスをくれた。

「大学を卒業した君が入るのは、つまらないかもしれない。高校卒業後に受験できる専門学校が2年に一度、学生を受け入れているから、そこに行ったらいいんじゃないか?」

「それなら、そうしよう!」

就職にも、就職活動にも興味が持てなかった森さんは、ドイツで標本作りを学ぶ専門学校に入るという新たな目標を得て、2007年に大学を卒業。留学資金を貯めるために、契約社員の仕事を見つけて働き始めた。

■仕事を辞め、東大博物館に通う

1年後には貯金が200万円貯まったが、仕事に熱心になりすぎて当初の予定ほどドイツ語を身に付けられなかったこともあり、留学を断念。

日本でなにかできることはないかと、『標本学 自然史標本の収集と管理』 (国立科学博物館叢書)を読んでいたら、遠藤秀紀という研究者が書いた章が目に留まった。「標本とはなにか」「なぜ我々は標本を残さなければならないのか」といったテーマについて熱く記していたからだ。

思い立ったら即行動の森さんは、遠藤先生が働く東京大学内の施設、東大総合研究博物館(東大博物館)を訪ねた。そこで、本を読んで感銘を受けたことを伝え、「解剖を学んで、標本作りができる人間になりたいんです」と訴えると、遠藤教授は、「それはいいね」と言った後に、森さんが予想もしなかった言葉を発した。

「じゃあ、時々ここに来て、解剖したらいいよ」

森さんは、この時、単なるフリーター。それにもかかわらずあっさりと受け入れられて拍子抜けするとともに、遠藤教授の度量の広さに感嘆。間もなくして仕事を辞め、東大博物館に通い始めた。2008年5月のことだった。

■解剖三昧の日々のなかで見失った目標

一般には知られていないことだが、動物園や水族館で動物が亡くなると、大学や博物館に連絡が入る。学術目的で解剖したり、標本を作ったりするという目的が共有されているからだ。

日本中の博物館の冷凍庫に様々な種類の動物の亡骸が収められていて、バックヤードでは職員や学生が毎日のように解剖をし、標本を作っている。動物園でしか見たことのない動物を解剖するのは、森さんにとって強烈な体験だった。

「最初の頃は、すごくドキドキしました。良し悪しとは別次元のよくわからない罪悪感みたいなものもあったし。当時はけっこう解剖の夢を見ましたね」

数カ月もすると慣れてきて、それまで外見しか知らなかった動物の体の構造を学ぶことが楽しくなってきた。コスプレするために豚のラバーマスクをリアルに作りたいという最初の動機は、次第に記憶の片隅に消えていった。

その頃、遠藤教授から「大学院に入ったら?」と誘われ、受験を決意。時間がたっぷりあった無職の森さんは必死に勉強をして、東大の農学部と理学部の大学院に合格した。理学系研究科に進み、2009年4月、晴れて東大の大学院生として解剖三昧の日々を送るようになった。

■「解剖して、その先になにがしたいのか」

それから修士課程2年、博士課程4年、計6年間を東大博物館で過ごした。その間にひと通りの動物を解剖し、珍しいところではコアラ、ゾウ、キリン、ホッキョクグマも手掛けた。

森さんのノート
写真=筆者撮影
森さんのノート - 写真=筆者撮影

それは貴重な経験になったものの、入学時の目的だった「標本を作りたい」という想いは薄れていた。東大博物館に標本作りに長けた人がいて、自分の出る幕はないと感じたせいもある。それもあって、いつしか「解剖して、その先になにがしたいのか」を思い悩むようになった。

2015年、博士論文を書き上げて、ついに燃え尽きた。もう解剖もしたくないし、論文も書きたくない。

「研究の世界からおさらばしよう」と思い、就職活動もせずに大学院を卒業。なにひとつやりたいことが思いつかないままぼんやりと過ごしているうちに、生活費にも事欠くようになった。

ある日、国立科学博物館の「モグラ博士」として知られる川田伸一郎さんから、突然連絡があった。要約すると、次のような話だった。

「何人かの非常勤職員が就職して、ポストに空きがでたからいろいろな人に声をかけているけど、断られ続けて、最後にお前に連絡した。俺はお前を推してる訳じゃないし、来て欲しいと思ってる訳じゃないけど、どうだ?」

率直すぎて、むしろ爽快感すらあるこの誘いに、森さんは乗ることにした。

「お金がなくなったので、行きます」

こうして2015年5月、国立科学博物館の動物研究部支援研究員の職を得た。

■造形への想いが唐突に蘇った

森さんのポジションは、実業家としてハワイで大成功した日系2世、ワトソン・T・ヨシモトさんの財団からの寄付金で雇用されていた。ヨシモトさんは自身が所有していた剥製を国立科学博物館に寄贈しており、「ヨシモトコレクション」として保管、展示されている。

森さんはこのヨシモトコレクションに関する研究をするのが、ミッションだった。新しいことに取り組んで刺激を受けているうちに、自分を見つめる時間もできた。そしてある時、ハッとした。

「僕はなんのために解剖してきたのか。学者になるためじゃない。造形をしたかったからだ」

いつの間にか忘れていた造形への想いが唐突に蘇(よみがえ)った森さんは、すぐに行動に移した。同年7月、ハリウッドの特殊メイク業界で長年活躍しているキャラクターデザイナー、片桐裕司さんが開催している3日間の造形セミナーに参加。そこには、「リアルな造形の感覚をつかみたい」という3DやCGのアニメーターたちが多く受講していた。

彼らと話をしていて、森さんは10年近く前の自分を思い出した。彼らは「馬の関節とかもう少しちゃんと知りたいんだけど、参考資料が少なくてぜんぜんわからないんだよね」と言いながら、頷(うなず)きあっていたのだ。そう、豚のラバーマスクを作る時に森さんが感じていたことだ。

■人生を変えた造形セミナーでの出会い

この時、「動物について知りたい人たちと、生の情報をつなごう!」と思い立った。それは、1メートル先も見えない濃い霧が晴れていくような感覚だった。

「それまでの数年間、俺はなんのために生きているのかってずっと鬱々としていたんですけど、このセミナーでの出会いによって、ようやく自分が目指すべきことが見つかった気がしました」

ちょうどその頃、大学院時代の先輩からたまたまフォトグラメトリという方法があることを教えてもらう。調べてみると、高性能のデジカメで物体を様々な方向から撮影し、数百枚の写真をコンピューターに取り込み解析して、3Dモデル化する手法だった。当時はフォトグラメトリの黎明期(れいめいき)だったが、無料のソフトや手法の解説がネット上にあり、「やってみるか」と試してみたら、「案外できる」と手ごたえを得た。

標本の3Dデータ
写真=筆者撮影
標本の3Dデータ - 写真=筆者撮影

同時期に、筑波大学で働いていた造形セミナーの仲間のオフィスを訪ねた。国立科学博物館の研究室も筑波にあり、通りを挟んで向かい側という距離だったのだ。

そこで目にしたのは、当時登場したばかりの3Dプリンタ。これが想像以上のクオリティで、これならフォトグラメトリで3Dモデル化したデータを3Dプリンタで具現化できるかもしれない! と興奮した森さんはすぐに研究費で3Dプリンタを購入した。

■3Dプリンタで研修手法を刷新

国立科学博物館には、動物の体の構成が一目でわかる骨格標本がある。森さんが最初に3Dプリントでレプリカを作ったのは、クロツチクジラだった。

フォトグラメトリーの様子
写真提供=路上博物館
フォトグラメトリーの様子 - 写真提供=路上博物館

その頃、まだ関連する論文もなかった新種で、仲の良い研究者がよく似たツチクジラと比較する論文を書いていた。その研究に役立つかもと、森さんから提案したのだ。

「クジラって頭の骨だけでもすごく大きいんですよ。でも、人間ってある程度大きい物を同時に見比べることができないんですよね。それで、フォトグラメトリで取り込んだデータの縮尺を小さくして、3Dプリンタで小さくして出したら見やすいかなと思ったんです」

3Dモデル
写真提供=路上博物館
標本の3Dモデル - 写真提供=路上博物館

森さんの手によって、それまでは実物を巻き尺で測ったり、写真で見比べるしかなかった巨大なクジラの頭の骨が、ほぼそのままの形で手のひらサイズになった。しかも、クロツチクジラとツチクジラの違い比較をするのに十分な精度があった。昔ながらの研究手法がテクノロジーの力で一気に刷新された瞬間だった。

3Dプリンターが動く様子
写真提供=路上博物館
3Dプリンタが動く様子 - 写真提供=路上博物館

■「居酒屋博物館」で気づいたこと

国立科学博物館の非常勤職員になって2年目、研究活動の一環として新しい活動を始めた。

「居酒屋博物館」だ。

ある日、ポケットにツチクジラの骨格レプリカを忍ばせて、ひとり居酒屋に向かった。そこで同じくひとりで飲んでいる会社員風、同世代の男性に「どうも! お兄さんなにやってるんですか?」と話しかけた。その男性からひと通り話を聞くと、「で、お兄さんは?」と聞き返された。そこで骨格レプリカを取り出して、「実は……」と語り始める。

骨格レプリカを動かしたり、相手に渡して間近に見てもらったりしながらツチクジラの説明をすると、大いに盛り上がった。

手ごたえを得た森さんは、それから居酒屋に通い、たまたまその日、その場所に居合わせた人に話しかけては、骨格レプリカを見せて説明をした。男女を問わず「うわー、なんだこれ!?」「初めて見た!」「すごい!」と毎回好反応で、森さん自身もその場のやり取りを楽しんだ。気づけばそれは、大学院生時代に森さんが思い描いた時間だった。

「修士を終える時に東日本大震災が起きてから、人のためになる科学ってなんだろうと何年も悩みました。博士課程を終える頃に、最終的には人間にとって最も大切なのは幸せで、人の役に立つというのは人を笑顔にすることだと吹っ切れたんです。人々を笑顔にするためには、論文のような専門的な話も楽しめるよう科学をエンタメにすべきだと思いました。居酒屋博物館の活動を通して、幸せな気持ちで科学に興味を持ってもらえたらいいなって実感できたんです」

■「骨、見ませんか?」路上博物館、始動。

森さんは、ある研究会で居酒屋博物館について発表した。すると、質疑応答の時間に「酔っ払いに対しての教育普及効果はどの程度なのか? 翌朝には忘れているんじゃないか?」と疑問を呈された。あまりに的確なツッコミに反論できずにいた森さんに、別の研究者が「それならもう少しフラットな場所でやったらいいんじゃない? 道端とか」と言った。

確かに、博物館の外に出て科学をエンタメにするのなら、居酒屋も道端も変わらない。森さんは舞台を路上に変えることを決め、白い布に黒字で「路上博物館」と書いたノボリを自作。2018年5月18日、「国際博物館の日」に、シルクハットに黒ずくめの服装、口ひげの両端をサルバドール・ダリのように逆立て、キリンと人間の頭骨のレプリカを持って、東京・上野に出陣した。怪しげな出で立ちにも、意味を込めた。

路上博物館の森さん
写真提供=路上博物館
路上博物館の森さん - 写真提供=路上博物館

「おっさんが骨を持って立ってたら、ただの不審者ですよ。でもコスチュームを着ていれば、パフォーマーなんだなって思ってもらえるじゃないですか。では、どんなコスチュームにするか。そもそも博物館は、貴族や王様が自分の支配した地域のものを集めて見せびらかしたのが始まりなんですよね。それを整理し、分類するのに雇われたのが科学者です。その原点に立ち返って、昔の英国貴族風のゴシックな時代をイメージしたコスチュームにしました」

久しぶりにコスチュームをまとった森さんは、水を得た魚のようにエンターテイナーとしての本領を発揮。「骨、見ませんか?」と道行く人たちに話しかけ、11時から16時までの5時間で、延べ200人の通行人と会話を交わした。

この時、「大人になってから博物館に行ったことがある人?」と尋ねると、あると答えた人は200人のなかでほんの数名だった。上野には動物園、美術館、博物館が並び、知的好奇心が旺盛な人が多いはずだと考えていた森さんにとって、それは衝撃的な現実だった。一方で、居酒屋と同じく、大人も子どもも骨の解説をすると食いつきがよく、楽しんでくれているのが明らかだった。それは大きな収穫だった。

■1000円札を出した若者との出会い

この後、森さんは時間の許す限り路上に出かけ、2018年末までに10回以上の展示を行った。11月23日から翌年の2月24日まで、京成電鉄の「旧博物館動物園駅」駅舎の公開に合わせて開催された展示会にも参加。そこでは、この駅が閉じた1997年に上野動物園で亡くなったパンダ、ホァンホァンの頭骨のレプリカを展示し、話題を呼んだ。

こういった活動を職場でもアピールしたところ、国立科学博物館が設立し、2019年の4月に始動した科学系博物館イノベーションセンターで非常勤職員として働くことになった。一部からはレプリカを作ることに対して「本物の価値が損なわれるんじゃないか」と疑問視する声もあがったそうだが、森さんはわが道を突き進む。

「路上博物館」には多くの親子が集まった
写真提供=路上博物館
「路上博物館」には多くの親子が集まった - 写真提供=路上博物館

着任してすぐの4月、知人から「地域のイベントに出ない?」と誘われて、文京区の路上に立った。試しに投げ銭を求めてみると、何人か、おひねりをくれる人がいた。そのなかに、ひとりだけ1000円札を出した若者がいた。

「なんていい人だ!」とテンションが上がった森さんは若者と挨拶を交わし、連絡先を交換した。数日後、若者からメールが届いたのをきっかけに、ふたりは密にやり取りをすることになる。

■5年の雇用期限を前に起業を決意

その若者は、齋藤和輝さん。森さんの取材の際、同席してくれた齋藤さんに、なぜ1000円だったんですか? と聞くと顔をほころばせた。

「僕は経済学部の卒業なので、ひとりで博物館に行っても得られる感想は『大きい』とか『強そう』という程度です。でも、森さんの話を聞きながら目の前にある標本を触るとすごく納得感がある。同時に、じゃあこれはどうなんだろう? と新しい疑問が浮かぶ。自分のなかから問いが生まれるこの体験がとても面白かった。僕は以前から、面白いものには紙のお金を出そうと決めていたので、1000円を出しました」

当時都内のIT企業で働いていた齋藤さんは、間もなくオーダーメイドのワークショップ開発で起業しようというタイミングだった。奇遇にも、森さんも1年後の身の振り方を考えている時期だった。非常勤職員は5年いっぱいで職場を離れるのが慣習で、2015年から働き始めた森さんも、2019年度末に離職することが確定的だったのだ。

この頃になると、森さんの取り組みが業界内でも知られ始め、個別の依頼が入るようになっていた。これで飯を食っていけたらいいなと思い始めていたタイミングで起業直前の齋藤さんに出会ったのは、運命的だった。ふたりは意気投合し、一緒に独立することを決意する。

■博物館をつなぐ森さんの大計画

ふたりは、計画を立てた。一般社団法人「路上博物館」を立ち上げ、日本中の博物館と提携して骨格標本を3Dデータ化し、それぞれの博物館オリジナルのミュージアムグッズを製作する。その売り上げの一部を標本の持ち主である博物館に還元する。

さらに、自分たちもレプリカの販売や出張展示を行い、一般の人たちに直接アプローチすることで、標本や博物館への関心を高める役割も担う。そうすることで、日本中の博物館と共存共栄を目指すというものだ。

「博物館の展示って、目で観ることしかできないでしょう。でも、観察に必要なのは目だけじゃない。触ってわかることも多いんです。それに、気になった展示にちなんだグッズが欲しくなる人も多いと思うんです。だから僕は、その博物館の標本の骨格レプリカが手に入ったらいいよなと思いました。レプリカを触りながら展示を観れば理解が深まるし、ほかの博物館の標本のレプリカと比べて違いを探すのも楽しいんですよ」と森さん。

インタビューに答える森さん
写真=筆者撮影
インタビューに答える森さん - 写真=筆者撮影

例えば、と言いながら、上野動物園にいたジャイアントパンダのホァンホァンとその娘、トントンの骨格の違いを説明してくれた。

「パンダは竹や笹を食べますが、もともと肉食の系統なので歯にすり潰す機能がなくて、パキパキ押しつぶすだけだから、ぜんぜん消化できなくて8割がウンチになって出ちゃうんです。それで、必要なエネルギーを確保するために、1日10時間も咀嚼(そしゃく)しています。ホァンホァンは野生由来だったから、頭骨をまっすぐ前に向けると、口が下を向きます。恐らく、10時間、下を向いて食べていたからでしょう。動物園で生まれ育ったトントンは、口が前を向きます。理由はわかりませんが、いいエサをもらって10時間も咀嚼する必要がなかったからだと僕は推測しています。こういうことを考えるの、楽しくないですか?」

森さんの解説を聞いて「めちゃくちゃ面白い!」と興奮した僕は、齋藤さんが指摘するこのビジネスの発展性にも納得できた。

「この博物館のこの標本という形で、レプリカを揃えて楽しいという価値が拡がる可能性がありますよね。しかも、骨のレプリカなら言語を超えて世界に通じるし、水族館や動物園にも拡げられる。それぞれのオリジナル商品を売ることで博物館同士や博物館と動物園、水族館が競合しなくていいビジネスなのも大切です」

文化庁のデータによると全国に博物館は5738館あり(2018年)、入館者数は年間30万人を超える。また、日本動物園水族館協会の統計では、水族館と動物園に年間で合計7000万人が訪れている。唯一の無二のミュージアムグッズを展開するのに魅力的な市場でもあった。

■コロナ禍で始動した“路上博物館”

2020年5月18日、一般社団法人「路上博物館」設立。コロナ禍で思うように活動できないなかで、マーケティングを兼ねて7月にクラウドファンディングを行った。

書影
川内イオ『ウルトラニッチ 小さな発見から始まるモノづくりのヒント』(freee出版)

「国立科学博物館の標本が自宅に届く! 3Dプリントレプリカ&ARポストカード限定販売」と掲げ、キリン、シマウマ、ジャイアントパンダなど10種類の骨格レプリカとポストカードを販売したクラウドファンディングは開始15時間で100%(100万円)を上回り、最終的には支援者は608人、総額761万3600円を達成して終了した。

スタート前には「100万円もいくかな?」と話していたふたりにとって、想像をはるかに超える結果になった。

今年3月には、オリジナルグッズを販売するオンラインショップ「かねろ」をオープン。ここでは、クラウドファンディングの時に製作した10種類に加え、森さんが最初にレプリカを作ったクロツチクジラもラインナップに加わった。そして今、3つの博物館とオリジナルのミュージアムグッズを開発する話が進んでいるという。

■標本をもっと身近なものに

森さんによると、東京国立博物館は1877年(明治10年)に「教育博物館」となり、教育機関に作成した剥製や骨格標本の販売を始めている。それから5年後の1882年頃には払い下げの希望が殺到し、新たな事業として取り組むことになったそうだ。森さんは、「路上博物館の活動は、教育博物館時代の『払い下げ』へのオマージュです」と語る。

僕からすれば、ふたりの取り組みは、博物館の学芸員、研究員だけが間近に見て、触れることを許されていた標本の民主化だ。このレプリカがきっかけで、新しい研究が生まれたり、研究者を志す子どもたちが増えたりすることも十分にあり得る。

インタビューのなかで森さんが話してくれたレオナルド・ダ・ヴィンチのエピソードで、締めくくろう。

「レオナルド・ダ・ヴィンチは画家であり、造形もしながら、すごい数の解剖もしていました。それまでは、ギリシャ時代にまとめられた人体の資料があるのだから、人間の解剖なんて必要ないと思われていたんですが、ダ・ヴィンチは本を見てもよくわからないからと解剖を始めます。それに触発された若い医者が続々と出てきて、ルネサンス時代に解剖学も花開きました。僕がやっていることも似ているなと思っています。現代のレオナルド・ダ・ヴィンチと書いておいてください! いや、やっぱりやめて」

3Dプリンタで印刷した標本のレプリカ
写真=筆者撮影
3Dプリンタで制作した標本のレプリカ - 写真=筆者撮影

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川内 イオ(かわうち・いお)
フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。

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(フリーライター 川内 イオ)

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