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「皇帝の嫡子を産んだ母は殺せ」「前皇帝も一族も殺せ」1600年前の"危ない中国"を知ろう

プレジデントオンライン / 2021年11月30日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/zorazhuang

中国の「南北朝時代」(439-589)は、「半端ない規模で人が死ぬ」「ヤバい時代」だった⁉ 実態はいかなるものだったのか。通史『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』(中公新書)を書いた会田大輔さんに、中国ルポライターの安田峰俊さんが聞いた――。
日本でもよく知られている三国志の物語は、司馬氏の西晋により280年に三国が統一されて幕切れを迎えた……。が、それから遣隋使や遣唐使で知られる7世紀の隋・唐まで、中国史の知識がすっぽり抜け落ちている人も多いのではなかろうか。事実、三国志と隋唐時代に挟まれた約300年間の中国は、目まぐるしく王朝が移り変わる動乱の時代だった。

まずは西晋が内紛で崩壊し、中国北部で異民族の小王朝が乱立(五胡十六国)。やがて鮮卑(せんぴ)族の北魏(ほくぎ)が台頭して5世紀なかばに華北を統一する。いっぽう中国南部は晋の皇族が亡命政権(東晋)を樹立後、王朝が宋・斉・梁・陳と続いた。北族(遊牧民)の北朝と、漢民族の南朝が対峙(たいじ)する「南北朝時代」である。やがて北朝の系統である隋が中国を再統一した。

■北方の遊牧民が、漢人と衝突し、融合した時代

——今年、日本史の世界では清水克行先生の『室町は今日もハードボイルド』(新潮社)が話題になりましたが、中国の南北朝時代も別な方向でアナーキーです。少年皇帝が即位する→親族や軍人がクーデター→帝位を簒奪(さんだつ)→前皇帝を暗殺→一族や関係者を粛清……というパターンが繰り返され、半端ない規模で人が死ぬ。すごく「ヤバい時代」です。

【会田】そうですよね。遊牧民が大量に入ってきて漢人と衝突し、融合していった時代ですから、現代の価値観からするとおかしな人や不思議な人がいっぱい出てくる。自分が研究している時代の概説書を書いてみて、われながら「ヤバい時代」という形容にうなずくところがあります。

——しかも、残酷さの程度は遊牧民の北朝も漢民族の南朝も変わりません。本書のエピソードでいいますと、個人的には斉の明帝のキャラクターがしんどかったですね……。

【会田】斉の明帝は政治的には有能でしたが、猜疑心(さいぎしん)が強く、自身の親族でもある前代までの皇帝(高帝・武帝)の血筋をほぼ根絶やしにしました。しかし、敬虔(けいけん)な仏教信者であったことから、粛清を決めるとまずは焼香して嗚咽したとされています(*1)

——血も涙もない冷血漢よりも、相手を哀れんでいるのに大虐殺を続けられる人のほうがホラーです。明帝の息子の東昏侯(とうこんこう)も残虐な少年皇帝で、妊婦の腹を裂いたというひどい話があるようですね。結果、有力者だった蕭衍(しょうえん)(梁の武帝)に討たれています。

【会田】殺されたり負けたりした人は歴史書で悪く書かれるので、「暴君」の実態は判断が難しい部分もあります。似たような悪行の話は、前代の南朝宋の少年皇帝だった後廃帝にも伝わっています。彼も宋末の権力者である蕭道成(しょうどうせい)(斉の高帝)によって廃されています。

(*1)『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』85ページ

■「殺生関白」とそっくりなエピソードは事実だったか

——代々似たようなことばかりやっている……。と思いましたが、よくよく考えると、「妊婦の腹を裂く」という悪行は日本の「殺生関白」豊臣秀次がらみの俗説にも出てきます。紋切り型の話すぎて、真偽が怪しい気もしてきますね。

【会田】そうなんです。歴史的な暴君の象徴みたいなエピソードで、事実とは考えにくいところもある。そのため、「妊婦の腹を裂く」という悪行については、拙著には記載しませんでした。

同じく、女性がらみの乱倫の話も事実であるかは注意する必要があります。そもそも暴君に限らず、史書に出てくる個人的エピソードがどこまで事実に近いかというのは判断が難しいところがあります。とはいえ、その手の話をすべて削ぎ落とすとつまらなくなりますから、一般書として通史を書くうえでは悩ましい問題なのですが……。

——東昏侯を討った梁の武帝は敬虔な仏教信者で、南北朝史のなかでも名君だったとされます。しかし、彼ですら、やはり王朝をひらいた時点では、それまで形式的に帝位につけていた当時15歳の少年皇帝(斉の和帝)を殺している。救いがありません。

【会田】当時の南朝のひどい話は、貴族社会の成立にも大きく影響されています。貴族が牛耳る社会ですので、皇帝の家格が臣下の有力貴族よりも低いといったことが普通にある。そうした国家のなかでどう生き抜くか、どう政権を維持するかという課題のなかで、激しい闘争が繰り広げられたわけなのです。

■暴君がすくない「弱国」から隋唐帝国が生まれた

——北朝の場合はいかがですか。こちらも残酷・乱倫エピソードは事欠きません。例えば本書の話ですと、北斉の文宣帝は相当な暴君に思えます。「北斉」は北魏が東西に分裂した後に東魏に代わって成立した国ですね。

【会田】北朝の支配層は北族(遊牧民)によって押さえられていました。権力闘争も皇族や北族間でおこなわれていました。ただ、やがて孝文帝改革(北魏の孝文帝による漢化改革)を通じて貴族制が導入されたので、漢人の貴族も力を持ちはじめます。北斉の時代には、漢人貴族と北族系の勲貴(創業の功臣)、さらに皇帝一族に加えて、「恩倖(おんこう)」(皇帝の寵愛を受けた功臣子弟など)の三つ巴ならぬ四つ巴の権力闘争が起きていました。

——北斉の文宣帝は、父親の側室・爾朱(じしゅ)氏に手を付けようとして拒否されたので殺害、さらに人望のあった弟2人を鉄籠に入れてめった刺しにしてから焼殺、加えて前王朝の北魏の皇族らも大量に殺害して数千人を粛清しています。いっぽう、座禅を好み、僧侶と交わって菩薩戒を受ける敬虔な仏教徒でもあった。わけのわからない人です。

会田 大輔『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』(中公新書)
会田 大輔『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』(中公新書)

【会田】文宣帝はめちゃくちゃな人物なのですが、北族系の勲貴や皇族を殺すことで帝権の強化を図った可能性も指摘されています。一見すると暴政に見える行為も、すくなくとも彼本人のなかでは、なんらかの狙いがあったのかもしれません。でも、やりすぎですよね。しかも結果的に、北斉は内紛で消耗してしまいますし(*2)

——結果、ライバルの北周(西魏の後継国)よりも国力が高かったはずの北斉は権力闘争で半壊。そこで漁夫の利を得たのが北周です。この国はやがて華北を統一し、やがて代わった隋が中国全土を再統一することになります。

【会田】北周は、最初は弱国でした。漢人貴族は二流の連中しかおらず、北族もパッとしない連中が集まっていた。寄せ集めの集団なので、それほど激しい権力闘争が起きなかった。その結果が、ひいては隋唐帝国につながったということでしょう。ちなみに隋の初代皇帝である楊堅(ようけん)(煬帝(ようだい)の父)は北周の外戚、唐の初代皇帝の李淵(りえん)の父も北周の重臣で、いずれも鮮卑族の影響が強かったとみられる家系です。

(*2)『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』212ページ

■嫡子を産んだ母親は殺される残酷な制度

——すこし時代をさかのぼりましょう。北朝の北魏の帝室では、皇帝の嫡子が決まると、その生母を殺害するという「子貴母死(しきぼし)制」が制度化されていました。もちろん現在とは価値観が異なった、約1600年前の中国の話とはいえ、これは恐るべき制度です……。

【会田】遊牧民の社会は母親に力がありますから、それを克服したかったのでしょう。実際に「子貴母死制」の導入後、北魏では数十年にわたって皇太后や外戚の専横はありませんでした。でも個人的な感想を言えば、やっぱりひどいと思います。ちなみに、前漢の武帝が外戚をはびこらせないために幼い皇太子の母親を殺した前例がありますが、漢王朝はこれを制度化したわけではありません。しかし北魏では、個性的な初代皇帝・道武帝がこれをおこない、さらに息子の明元帝も続けたことで、制度として事実上定着しました(*3)

——この制度には遊牧民の鮮卑族の伝統も関係していたのでしょうか。

【会田】いや……。母親はすごく重要な存在ですから、殺すという発想は遊牧民の社会にも本来ありません。漢人の社会にも当然、親孝行の観念がある。いずれの社会にも存在しないものが、道武帝の個性によって生み出された。必然的なものではなかったはずです。

——後宮で暮らし、嫡子を産んだら殺されることを知りつつ妊娠・出産する女性の心理を想像すると、やりきれないものを感じます。

(*3)『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』32ページ

■皇后は子供を産まない

【会田】後宮の女性は、当然ながら皇帝を拒めません。しかも実例を見る限り、正妻たる皇后は嫡子を産んでいないのです。子貴母死制が適用されたのは、多くの場合は漢人の女性で、後宮内の序列もあまり高くありませんでした。皇后を殺すのは、さすがにまずいということだったのでしょう。

——いっそうやりきれない話ですね。

【会田】はい。後宮にはいろいろな女性がいたわけです。滅ぼした国の皇帝の娘とか、遊牧民の柔然からやってきた女性とか。あと、犯罪をおかして殺された人物の娘や親族の女性たちもいる。また、子貴母死制によって実母を失った皇帝も寂しかったのか、その代替行為として、保母に「皇太后」の称号を贈ったケースもあります。

——南北朝時代は、中国史のなかでは女性が政治的な影響力を発揮する機会が多かった時代だったとも言われますが。

【会田】そうですね。例えば高校の世界史教科書にも出てくる均田制を創出したのは、幼少の孝文帝に代わって権力を握っていた馮太后(ふうたいごう)(文成帝の皇后)という女性です。また、孝文帝の孫の時代に権力を握った胡太后は、対象を皇族に嫁いだ女性に限定していたとはいえ、現在でいう「DV防止令」を出していたという驚くような話もあります。しかし、一概に女性の活躍した時代だったと無邪気には持ち上げられない、ひどい現実も存在したのです。

■台湾問題と南北朝時代の類似性

——184年の黄巾の乱の発生から(西晋の短期間の統一を除くと)589年の隋による再統一まで、中国は延々と分裂状態が続きました。南北朝時代の人々の間で、そもそも「あるべき形」の中国とはどんな形がイメージされていたのでしょうか。

【会田】これは非常に熱いテーマです。南朝の場合は、亡命政権だった東晋までは華北を奪還する意思を明確に持っているのですが、やがて宋あたりから怪しくなり、タテマエはさておき現実的には建康(南朝の都、現在の南京)が天下の中心だという意識になる。仮に南北分裂がそのまま続いていたら、中国が2つの国家になっていた可能性もあったでしょう。

——戦後、中華民国が台湾に移転してから、蒋介石の生前は「中国を代表する唯一の政府」として大陸反抗を夢見ていたのが、蒋経国(しょうけいこく)時代の終わりから台湾化しはじめて、台北を首都にする島国に変わった経緯と似たものを感じます。歴史を知ることで現代が見える部分もありますね。

【会田】歴史は現代社会を理解するヒントになると思います。いっぽう北朝の場合は、最初はあまり統一に関心がなかったのが、社会や制度の中国化を進めた孝文帝の時代あたりから、本格的に意識しはじめます。

——遊牧民だった頃は無関心だったのに、「中国人」に変わると中華の統一に欲を出す。初期の中国共産党が、少数民族地域の分離独立権まで認めていたのに、政権が安定すると辺境まで支配したがるようになったのとも通じるところがあります。

【会田】なるほど。

——そういえば、遊牧民主体だった北朝が中国化するにつれて儒教統治、徳治主義的な傾向を見せていった様子も、インターナショナルな共産主義政権が中華ナショナリズム政権に変わってからの中華人民共和国の姿とよく似ているような……。

【会田】そこらへんを読み取っていくのは、歴史を学ぶ醍醐味のひとつでしょうか。中華圏の人々は、歴史に自分たちを重ね合わせていて、明らかに意識して行動してますよね。

中国と台湾の困難な国際関係を示唆した絵
写真=iStock.com/Andrew Linscott
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Andrew Linscott

■自分が「つなぎ」だと思って過渡期を生きる人はいない

——本書の帯には「三国志と隋・唐の間をつなぐ」とあります。事実、正史の『三国志』は、429年に宋の裴松之(はいしょうし)が詳細な注釈を入れてエピソードを大量に追加したことで、後の小説『三国志演義』のモチーフになりました。同じく三国志の基礎的な史料『後漢書』の完成も437年ごろ。つまり、この時代までは三国志がすこしだけ続いていた。

【会田】范曄(はんよう)が『後漢書』で描いた、魏晋南北朝時代の貴族の源流の一つと言われている後漢末・三国時代の名士たちの描写は、当時そのままの姿ではなく南朝の貴族社会の価値観が反映されていたとも言われていますね(*4)

(*4)安部聡一郎「党錮の「名士」再考 貴族制成立過程の再検討のために」(『史学雑誌』111-10、2002)

——いっぽう、隋唐帝国はもともと鮮卑系がルーツです。前史としては北魏が成立した386年か、拓跋(たくばつ)氏の代(だい)が成立した310年までさかのぼれる。南北朝時代とは、三国志の長い後日談であり、隋や唐の壮大な前日談だった時代かもしれません。

【会田】確かに時代をつないだという側面はあります。南北朝時代には新たな官制・税制・都城・美術・文学などが生み出され、隋や唐に継承されました。仏教や道教が人々の間に浸透したのもこの時代です。従来の南北朝研究もその視点からアプローチされることが多かった。ただ、当時を生きていた人たちは、別に「後世につなごう」という意識で生きていたわけではないでしょう。激動の時代をなんとか生き抜こうとして、あがいていた。

——確かに……。現代日本にしても、たぶんバブル後の長い端境期(はざかいき)の時代なのだろうと思いますが、この時代を生きている僕たちの人生は「つなぎ」じゃありませんよね(笑)

【会田】本当にその通りです。

■トライアンドエラーを繰り返した模索の時代

【会田】南北朝時代って、中国にとって「模索の時代」だったと思うのです。北も南もトライアンドエラーを繰り返していたことで、ときには子貴母死制みたいに、現代どころか当時の価値観でも仰天するような変な制度が出てくることもある。他にも南朝を傾かせた武将・侯景(こうけい)が称した「宇宙大将軍」、天の神との同一化を図った北周の天元皇帝、皇帝が寺院の奴隷になる捨身などなど、興味深い制度や政策があります。

——生き物の進化の過程でも、背中に帆があったり鼻の上に奇妙なトサカがあったりするヘンな生物が生まれて、その後に発展せずに絶滅するケースが多々あります。進化の袋小路みたいな存在も生まれ得ますよね。

【会田】はい。人類の歴史もそれの繰り返しだと感じます。歴史は「発展」しているのではなくて、適応と進化の繰り返し。そのなかで生き残ったものが現在まで続いている。でも、この本のなかでは生き残ったものだけではなく、トライアンドエラーの結果として消えたものも多く描きたいと考えました。

——なるほど。

【会田】そもそも、現代だって後世につながらなさそうな政策や文化ってたくさんありますよね。私たちにとっては当然視されている常識だって、実は「進化の袋小路」に入っていて後世に継承されないものかもしれません(笑)。だからといって、それがすべて無駄かというと、そんなわけないですよね。歴史もそんなふうにみると、さらに面白くなるような気がします。

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会田 大輔(あいだ・だいすけ)
明治大学兼任講師
1981年生まれ、東京都出身。2013年、明治大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(史学)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、現在、明治大学・東洋大学・山梨大学等非常勤講師。専攻は中国史(南北朝隋唐史)。第35回東方学会賞受賞。著書に『南北朝時代―五胡十六国から隋の統一まで』(中公新書)がある。

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安田 峰俊(やすだ・みねとし)
ルポライター、立命館大学人文科学研究所客員協力研究員
1982年生まれ、滋賀県出身。広島大学大学院文学研究科博士前期課程修了。著書『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』が第50回大宅壮一ノンフィクション賞、第5回城山三郎賞を受賞。2021年は『現代中国の秘密結社 マフィア、政党、カルトの興亡史』(中公新書ラクレ)、『「低度」外国人材 移民焼き畑国家、日本』(KADOKAWA)、『八九六四 完全版 「天安門事件」から香港デモへ』(角川新書)、『中国vs.世界 呑まれる国、抗う国』(PHP新書)を続々と刊行。

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(明治大学兼任講師 会田 大輔、ルポライター、立命館大学人文科学研究所客員協力研究員 安田 峰俊)

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