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江戸城最後の天守は明暦の大火で消失、では初代と二代目はなぜなくなったのか

プレジデントオンライン / 2022年2月4日 19時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ziggy_mars

江戸城の天守は3度建て替えられた。3度目の天守は明暦の大火で消失している。それでは1度目と2度目の天守はどうしてなくなったのか。日本中世史・近世史・都市史が専門で江戸東京博物館学芸員の齋藤慎一さんが解説する――。

※本稿は、齋藤慎一『江戸 平安時代から家康の建設へ』(中公新書)の一部を再編集したものです。

■天守が江戸城にあったのは「わずか51年」

天守も時代の変化を象徴的に語っていた。

江戸城天守への注目は実に高いのだが、わからないことが多い。しかしながら、徳川家の権威を考える上で避けて通れず、若干ながら触れてみたい。

江戸城に天守が建てられていたのは、慶長12年(1607)の竣工から、明暦3年(1657)正月の明暦の大火で焼亡するまでのあいだである。江戸時代が慶長8年(1603)から慶応3年(1867)まで265年にもわたるのに対し、天守が江戸城に聳(そび)えていたのはわずか51年である。天守のない江戸城の時代のほうがおよそ5倍も長く、その意味では天守の存在意義はいかほどであったか。

■江戸城の天守は3回も建てられている

加えて、江戸城の天守は3度も建てられている。最初の天守は慶長12年、2度目の天守は元和9年(1623)頃、3度目の天守は寛永15年(1638)である。3度目の天守は明暦の大火で焼失するので、存続したのは20年である。慶長期および元和期の天守はいかなる理由で終末を迎えたかは明らかではないが、長く見積もって慶長期天守は16年間、元和期天守は15年間ほど存続したことになる。各地に現存する天守が江戸時代初頭以降に存続したことを考えると、江戸城の天守の寿命はきわめて短い。そして3度の建て替えのために、天守の具体的なイメージもつまびらかでない。

江戸城天守が描かれた屏風として「江戸図屏風」「江戸名所図屏風」「江戸天下祭図屏風」「江戸京都絵図屏風」の4つが知られている。加えて、「武州豊島郡江戸庄図」のような絵図にも描かれている。

■「写生に近いと考えられる」天守の描画

それぞれの屏風などに描かれる千鳥破風(ちどりはふ)や唐(から)破風、壁面構造を比較すると、描かれた天守は一様でないことは明らかである。屏風を描いた画家たちは江戸の景観や風俗を描くことを主目的としていたのであり、天守そのものをどれだけ忠実に描こうとしたかは定かではない。屏風は工房で制作され、素材となる天守をどれだけ正確に書き取ったかも明らかではない。多くは寛永期の天守を描いたと予想されるが、天守のイメージは正確とはいえないようだ。

そのようななか、『武州州学十二景図巻(ぶしゅうしゅうがくじゅうにけいずかん)』に描かれた江戸城天守は注目したい絵画である(図版1)。画家が天守そのものを描こうとしていること、江戸周辺の代表的な景観を集めたものであることから、景観そのものを重視していること、以上から写生に近い描画だったと予想されるからである。しかし、写生は上野からの遠望であり、墨の線も淡い。屏風などの絵画よりは実際に近いイメージかもしれないが、具体像には届かない。

【図版1】『武州州学十二景図巻』東京都江戸東京博物館蔵
【図版1】『武州州学十二景図巻』東京都江戸東京博物館蔵(画像=『江戸 平安時代から家康の建設へ』)

■1度目の天守と2度目の天守がなくなった理由

3度目の天守は明暦の大火で焼失した。では家康が建てた1度目と、秀忠が建てた2度目の天守はなぜなくなったのであろうか。1度目の天守は本丸面積が狭小だったため、本丸拡張にともない取り壊されたという説がある。「慶長江戸図」に描かれた位置から、おおよそ現在の天守台の位置へ移されたのもこのときであるという。

2度目の天守については、近年に福田千鶴が「たたむ」という語彙から意図的に壊したという重要な見解を示している(福田千鶴『城割の作法 一国一城への道程』吉川弘文館、2020)。3度目の家光の天守は、2度目の秀忠の天守を少なくとも取り壊して再建した。遠く江戸城天守を望む人々にとって、時代の変化、将軍の交代を示すわかりやすい表現となろう。1度目から2度目への建て替えも、同じ効果が期待されていたのだろう。

門の形式、石垣、建物の内装など、城は新しく生まれ変わることで時代の変化を語ろうとしていた。となれば天守にも、同じ期待が注がれていたと考えてよいだろう。

■連立式天守は江戸城にはなかった

天守を考える素材はいくつかある。しかし、3度の天守の具体像はまだ解明できない。そして江戸城が歴史を刻んだ年代の大半は天守がなかったのである。この点は揺らがない。天守がなくとも江戸城は存続した。またその時々に個性を表現していた3度の天守は個々独自のものであった。これらの点は江戸城を考える上で重要な点であり、1つの天守のみをクローズアップさせることは、江戸城の存在意義を限定してしまうだろう。その意味ではまぼろしのままのほうがよいのかもしれない。

齋藤慎一『江戸 平安時代から家康の建設へ』(中公新書)
齋藤慎一『江戸 平安時代から家康の建設へ』(中公新書)

ところで、千田嘉博は「江戸始図」の読解から慶長期の江戸城天守について新しい説を提唱した(千田嘉博・森岡知範『江戸始図でわかった『江戸城』の真実』宝島社新書、2017)。「本丸内部で第一に注目すべきは天守群です。現在の江戸城の本丸は中に天守台だけがぽつんとありますが、「江戸始図」が描いた慶長期の江戸城では、連立式の天守群を構成していて、想像を絶した堅固な構えになっていたと確認できます」、「慶長期の江戸城の大天守が単立したのではなく、姫路城のように連立式天守であったと確実になったからです」と述べた。

「江戸始図」が記載している、大天守西側の本丸壁面に方形の黒塗り四角とは、小天守の存在を示唆するのではないか。この記載から千田は連立式天守を導き出した。ところが一連の「慶長江戸図」には「江戸始図」が記載するような、本丸西側塁壁に大天守と連結する小天守が存在するような描画はない。一連の絵図群のなかで、「江戸始図」だけに小天守を思わせる描写がある。どうやらこの記載は誤写のようである。残念ながら、姫路城のような連立式天守は江戸城には聳えてはいなかった。

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齋藤 慎一(さいとう・しんいち)
江戸東京博物館学芸員
1961年東京都生まれ。85年明治大学文学部史学地理学科卒業。89年明治大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程退学。2001年博士(史学)。1988年より東京都江戸東京博物館学芸員。組織改編をへて2010年より東京都歴史文化財団江戸東京博物館学芸員。専門は日本中世史・近世史・都市史。著書『中世東国の領域と城館』(吉川弘文館、2002年)、『戦国時代の終焉』(中公新書、2005年)、『中世武士の城』(吉川弘文館、2006年)、『中世を道から読む』(講談社現代新書、2010年)、『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)、『中世東国の信仰と城館』(高志書院、2021年)。編著『城館と中世史料 機能論の探求』(高志書院、2015年)。

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(江戸東京博物館学芸員 齋藤 慎一)

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