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初代トヨタ・クラウンを「日本で最も売れるクルマ」にするため開発者が最もこだわったパーツ

プレジデントオンライン / 2022年1月28日 10時15分

クラウンのデラックス版として発売されたRSD型(写真=Tokumeigakarinoaoshima/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

トヨタ自動車が1955年に発売した初代クラウンは、発売当初は認知に苦しんで売れなかったが、その突出した性能からしばらくすると日本一のクルマになった。開発者たちはいったいどんな工夫を凝らしたのか。『トヨタ物語』(新潮文庫)を出したノンフィクション作家の野地秩嘉さんが解説する――。

※本稿は、野地秩嘉『トヨタ物語』(新潮文庫)の一部を再編集したものです。

■「日本人の頭と腕で大衆車を作る」トヨタの夢

豊田自動織機時代から豊田喜一郎の夢は日本人の頭と腕で本格的な大衆車を作ることだった。しかし、結局、生きている間に夢はかなわず、志を受け継いだのは副社長となり技術部門を統括していたいとこの英二である。

英二は本格的な国産乗用車を開発するために設計部だけではなく、生産技術部からも技術者を呼び、横断的な開発集団を作った。トップに開発主査という新しい名称をつけ、清新な気持ちを技術者集団に与えた。初代の開発主査になったのは中途入社のエンジニア、中村健也である。

中村は兵庫県西宮市の出身。長岡高等工業学校電気工学科(現・新潟大学工学部)を出て、クライスラーの車を組み立てていた共立自動車製作所に入った。組み立てだけではつまらない、国産自動車の開発をしてみたいと思い、中村は4年で同社をやめた。失業中、自動車雑誌に載っていた喜一郎の投稿記事を読む。

「この人の下で働きたい」と直感し、トヨタを訪ねた。運のいいことに、トヨタは挙母工場(現豊田市)の完成直前で、技術者を探していた。喜一郎の面接を受けた中村は無事、入社し、車体工場で溶接機の担当となる。

■どしゃ降りでも絶対に傘をささなかった男

その後、中村は住友機械工業(現・住友重機械工業)と協力して挙母工場で使うための2000トンプレス機の開発に着手した。戦争で一時中断したけれど、戦後の1951年にはこれを完成させている。当時、日本最大の鋼板用プレス機で寿命は長く、現在もタイにある協力会社でトヨタ車のフレームを打ち出している。

ポートレートを見ると、中村の風貌(ふうぼう)は映画『王様と私』で知られるロシア生まれの俳優、ユル・ブリンナーにそっくりだ。目鼻立ちがくっきりとした男で、頭はスキンヘッド。いかにも鼻っ柱の強そうな顔をしている。事実、そうだったようで、さまざまなエピソードが残っている。

背広やネクタイとは無縁だったが、服装にだらしがないわけではなかった。現場でも事務所でもカーキ色のナッパ服に、パリッとした真っ白のワイシャツを着る。それが中村流のおしゃれだった。合理的というのか、変人なのか、かなりの雨が降っても絶対に傘をささなかったことで知られていた。どしゃ降りのなかでも、両手を身体(からだ)の側面にピタリとつけてどんどん歩いていく。

■「砂利だらけの道でも乗り心地のいい車を作れ」

彼の部下だったこともある豊田章一郎は不思議に思って聞いてみた。

「中村さん、どうして傘を差さないのですか?」

中村は「うん」と嬉(うれ)しそうな顔で答えた。

「章一郎くん、いいかい、雨の日に手を振って歩くと袖(そで)まで濡(ぬ)れる。しかし、ほーら、ぴたりとくっつけていれば頭と肩しか濡れないんだ。なっ、いい考えだろう?」

章一郎はそんなことをせずに傘を差せばいいのにと思ったけれど、余計なお世話だと思ったから、「はあ」と答えておいた。

だが、鼻っ柱の強さと人と違うユニークな考え方をする性格が新車の開発には向いていたのだろう。英二に抜擢(ばってき)されて主査になった中村は「研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし」という豊田綱領を体現して独自の開発方法を作り上げた。

英二が中村に与えた新車のコンセプトは「日本の道路を走っても、乗り心地のいい車を開発する」ことだった。

昭和30年代初めの道路舗装率はわずか1パーセントにすぎない。幹線道路以外はすべて砂利道だった。雨が降った日はぬかるみになり、風が吹けばホコリが舞い上がる。乾いた後、路面はでこぼこになる。そんな道を走っても、人が心地よく乗れる車を作ることが中村に課せられた仕事だった。

■「それは無理」というエンジニアに中村は…

中村は開発メンバーを集めて、「みんなで市場調査をする」と宣言した。そうして、タクシー会社、トヨタ自販の販売店を回り、新型乗用車の大きさ、スタイルなどへの意見を集めて回った。トヨタが新車開発で本格的に顧客調査、市場調査を採り入れたのはこの時が初めてである。

一方、車の乗り心地をよくするために先進技術を取り入れた。前輪をコイルスプリング独立懸架方式にすることで、車体が上下に揺れることを減衰させた。中村が指示した設計だったが、当初、配下のエンジニアは「それは無理です」と反論した。

「コイルスプリングを使うと乗り心地はよくなります。しかし、耐久力はまだ証明されていません」

エンジニアの意見を聞いた中村はちょっと黙ってから首を振った。

「オレはもともと金属の専門家だ。鉄のことならみんなよりもよくわかっている。コイルスプリングの材質はよくなっているから、ちょっとやそっとじゃ壊れない。今回はこれで行く」

■「1枚で曲面のフロントガラス」を初めて開発

もうひとつ、中村が固執したのがフロントに曲面のカーブガラスを使うことだった。それまでの車は平面のガラスを継ぎ合わせた2枚ガラスだったが、サプライヤー(協力企業)の旭(あさひ)硝子(ガラス)に無理を言って、曲面のガラスを開発してもらったのである。フロントが曲面ガラスになったので、前方が見やすくなったし、また室内が広く感じられるようになった。新車の大きなセールスポイントとなったのである。

開発中、中村はスタッフの話に耳を貸したが、「日本で初めて」「世界でも初めて」という技術を取り入れる時だけは自分の意見を通した。

乗用車を作っていたのはトヨタだけではない。日産、いすゞ、三菱もやっていた。世界を見ればビッグ3をはじめとするアメリカ勢、そして、ヨーロッパの自動車会社……。モデルチェンジが当たり前の自動車業界では新車に何らかの新しい試みがなければたちまち陳腐化してしまうのである。

日本の小さな会社が真似(まね)ばかりしていたら、世界との競争力を獲得できない。特需で儲(もう)けたとはいえ、開発資金はビッグ3に比べたら雀(すずめ)の涙だったし、人材だって寄せ集めだ。

それでも、中村たちは創意くふうとチームワークで新車、クラウンを作り上げた。

黒塗りの高級車のドアを開こうとしている男性の手元
写真=iStock.com/LanaStock
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/LanaStock

■海外の後継モデルより性能で上回っていた

1955年、トヨタはクラウンを発売した。前輪独立懸架の他、後輪は3枚板バネ懸架方式を採用。前輪と相まって悪路での乗り心地のよさを達成した。

操作ではダブルクラッチを踏まなくても変速できるシンクロメッシュ付きの常時かみ合い式トランスミッションを採用。運転しながらのクラッチ操作がぐっと楽になった。

なんといっても特徴は「観音開き」と呼ばれたドアの採用だ。観音像を納めた厨子(ずし)の扉が両開きになっていることから付けられた名前だが、タクシー会社は「乗客が乗り降りしやすい」と歓迎した。業務用を意識したドア設計だったのである。

このように中村たち開発グループは市場調査をした結果を踏まえ、さらに世界でも最先端の技術を組み込んでクラウンを作った。

当時、日本でノックダウン生産されていた海外メーカーの車はいずれも設計が古いものばかりだった。日産のオースチンA40は本国では1947年に発売された型の後継モデルだし、日野のルノーは1946年に発表されたものだ。日本人は「外国製品は上等」と思っていたけれど、新車のクラウンはヨーロッパの車と比べても遜色(そんしょく)がないどころか、性能では上回っていた。

■当初は不振だったが…大ヒットを生んだ立役者

売り出されたクラウンには2種類があった。RS型トヨペット・クラウンは自家用車向け、RR型トヨペット・マスターはタクシー、つまり営業車向けだった。どちらにもRが付くのはR型という新型エンジンを積んでいるためである。

発売した1955年、「両車種を合わせて月産1000台」が目標だったが、実際には月600台ほどしか売れなかった。「本格的国産乗用車」と玄人(くろうと)には評判がよかったのだけれど、売れ行きはなかなか伸びていかなかった。

ところが、年が明けたら販売台数は急増する。発売と同時に買ったタクシー会社の運転手たちが「お客さんが乗り心地がいいと言っている」とアナウンスしたため、追随して購入するタクシー会社が増えたのだった。

野地秩嘉『トヨタ物語』(新潮文庫)
野地秩嘉『トヨタ物語』(新潮文庫)

クラウンは月産約800台のヒットとなり、10月には自家用車向けのクラウンだけで月産1000台になった。前年のこと、顧客のタクシー会社から「営業車用のマスターより、お客さんは乗用車のクラウンに乗りたがっている」と要望が出た。

そこで、個人オーナー向けを改良したクラウンのデラックス版(RSD型)を出したところ好評で、こちらもまたヒットした。

結局、初代クラウンはマイナーチェンジを繰り返し、7年の間、国産乗用車としてもっとも売れた車になった。

ちなみにRS型クラウンの販売価格は101万4860円。公務員初任給が8700円だったから、その116倍にあたる。普通のサラリーマンが10年間、懸命に働いてやっと買うことのできる価格だった。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。近著に『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)がある。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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