女好きで放蕩三昧だったのに…水戸黄門・徳川光圀が"名君"と呼ばれるようになったワケ
プレジデントオンライン / 2022年3月12日 12時15分
■慈悲深いお殿様のはずが…水戸黄門・徳川光圀の意外な顔
水戸黄門の愛称で親しまれる第二代水戸藩主徳川光圀は江戸時代を代表する名君である。仁政を行なう慈悲深いお殿様のイメージが強いが、光圀の実像はそのイメージで収まり切れるものではなかった。
青年時代、光圀は放蕩(ほうとう)三昧な生活を送っていた。水戸藩主となってからは、自分の名前を後世に残したい名誉欲が動機となり、『大日本史』という歴史書の編纂事業に着手する。
その裏には同じ御三家の尾張徳川家、紀州徳川家への強いライバル心も秘められていたが、この編纂事業は「水戸学」が生まれるきっかけにもなった。そして幕末に入ると、光圀が産みの親となった水戸学は幕府の存立を脅かす思想へと転化していくのであった。
■不良少年だった過去…青年期の放蕩三昧な生活
寛永十年(一六三三)、光圀は兄の頼重を差し置いて、幕府から水戸徳川家の世継ぎに指名された。光圀六才の時である。第二代藩主の座を約束されたものの、十代前半の頃から、光圀の生活態度は荒んでいく。その振舞いは初代藩主の父徳川頼房をはじめ水戸家の期待を大きく裏切るもので、不良少年としか言いようがない生活ぶりだった。
補導役を勤めた藩士の小野言員によれば、派手な格好をしていて、話す内容にも品格がなかった。水戸家の世継ぎでありながら、天と地ほど身分の違う草履取りたちと気軽に話を交わし、その内容も女性の話ばかりであった。
光圀の侍医だった井上玄桐も、光圀が遊里通いに精を出していたと証言する。朝帰りとなったため鰹売りに姿を変えて屋敷内に戻ったり、遊里からの帰路、悪友にそそのかされて浅草で人を斬ったことまであったという。
その放蕩ぶりは、江戸の旗本の間でも評判となる。そんな不良少年が家督を継いでしまえば、いったい水戸家はどうなるのか、その行く末が案じられるというのが世間の評価だった。
光圀が放蕩三昧な生活に走った背景には、兄を差し置いて水戸藩の世継ぎに指名されたことへの苦悩があった。世継ぎの重圧から逃れたい気持ちが動機だった。
しかし、十八才の時に『伯夷(はくい)伝』に出会ったことが、光圀の人生を大きく変える。『伯夷伝』は、古代中国の殷王朝の時代に生きた伯夷と叔斉兄弟の清廉な生き様を取り上げた伝記だが、光圀は大いに感銘を受ける。それまでの放蕩生活を恥じ、学問に精を出す好学の青年へと生まれ変わる転機となった。
そして、『伯夷伝』をヒントに、兄頼重の子供を自分の跡継ぎに指名することで、兄を差し置いて世継ぎの座に据えられた苦しみから抜け出し、心の安らぎを得ようと決意するに至った。実際、その通りになる。
■領民のための政策で、財政難に拍車がかかる
光圀が父の死を受け、藩主の座に就いたのは寛文元年(一六六一)のことである。光圀は三十四才になっていた。
水戸家は徳川御三家として位置付けられていたが、尾張・紀州家に比べると石高は半分ほどの三十五万石に過ぎなかった。そのぶん、朝廷から与えられる官位は尾張・紀州家よりも低く、光圀の不満の種となっていた。
立藩当初から、水戸藩は財政難に苦しんでいた。石高の割には藩士の数が多かった上に、江戸在府が義務付けられたからである。
参勤交代制により、大名は大勢の家臣とともに一年おきに江戸藩邸での生活が義務付けられたため、江戸での出費が藩財政に大きくのし掛かった。とりわけ水戸家の場合は、水戸に帰れず江戸での生活が続いたため、その負担は他藩に比べるとはるかに大きかった。
光圀は財政難を克服するため、みずから質素倹約に努めることで支出の切り詰めをはかる。朝夕の食事は一汁三菜以下、衣服も粗末なものを着るなどして範を垂れたが、藩のみならず藩士たちの生活も苦しかった。財政難の水戸藩は自力では藩士の生活を支援できず、幕府から特別に拝借金を受けることで、藩士への生活支援に転用したほどだった。
しかし、支出を切り詰めるだけで財政難が克服できるわけもない。結局は収入の増加つまりは年貢の徴収を厳しくするしかなかった。となれば、農村が疲弊して農民が逃げ出し、田畑が荒廃するのは避けられない。
光圀は産物に賦課していた雑税を免除したり、食料を支給することで、領民の生活を支援している。この一連の施策が、光圀の名君としてのイメージを作っていく。仁政を行う慈悲深いお殿様のイメージだが、それは水戸藩の収入を減らし、支出を増やす施策である以上、財政難をより深刻にするものでしかなかった。
光圀は財政問題を解決できないまま、元禄三年(一六九〇)に藩主の座を兄の子である綱條に譲る。六十三才の時だった。
■水戸光圀を変えた一冊の書、歴史書の編纂に秘めた狙い
『伯夷伝』との出会いは光圀が生まれ変わる大きな転機となったが、水戸藩そして幕府の歴史に大きな影響を与える事業に着手するきっかけとなった。『伯夷伝』を読んだことで、歴史上の人物の生きざまを介して歴史を知ることの面白さを実感した光圀は、日本の歴史を編纂しようと思い立ったのである。
武士の家に生まれたとは言いながら、現在は泰平の世であるため戦場では武名を立てることができない。歴史書を編纂すれば、少しは自分の名も後世に伝わるのではという考えがそこにはあった。光圀はもちろん、水戸藩の名前を後世に伝えようという目論見である。
名声欲が『大日本史』編纂の動機になっていたわけだが、水戸藩には同じ御三家でありながら、幕府からは尾張・紀州家よりも格下の扱いを受けたことへの鬱屈(うっくつ)があった。つまり、両家への対抗意識も、光圀が水戸藩オリジナルの事業として『大日本史』編纂に情熱を捧げた背景となっていた。
初代神武天皇から百代後小松天皇まで歴史を取り上げた『大日本史』の編纂は光圀の狙い通り、水戸藩の文化事業として後世高く評価されるが、編纂事業に伴う費用が藩財政悪化の大きな要因となったのもこれまた事実であった。編纂に携わる大勢のスタッフの人件費はもとより、全国各地への史料採訪に要した費用も相当な額にのぼった。
『大日本史』の編纂事業は光圀の代では到底終わらず、本文以外の付録的なものも含めれば明治まで掛かってしまう。このことからも、いかに壮大な事業だったかが分かるだろう。言い換えると、その事業には莫大な費用が投ぜられたのであり、水戸藩が慢性的な財政難に陥る大きな要因の一つとなった。
■名声欲で始めた編纂事業のはずが、倒幕の一因に…
『大日本史』の完成を待たずに、元禄十三年(一七〇〇)に光圀は七十三才の生涯を終える。その後、『大日本史』は未完の状態ながら幕府と朝廷に献上され、出版もされた。これにより、水戸藩の修史事業の成果が全国各地へ広がっていく。
光圀が主導した『大日本史』の編纂に象徴される文化事業は水戸藩内での学問熱を高め、いわゆる水戸学を誕生させる。そして、光圀が産みの親とも言うべき水戸学は正統性を重視する学問という点が特徴であった。
江戸時代は、徳川家が天皇から将軍に任命されることで幕府の設置が許され、国政を任せられた時代であった。幕府権力に正統性を付与したのが天皇である以上、水戸学は天皇の権威に注目し、これを強調する尊王論へと行きつく。光圀自身も尊王の志が厚い人物だった。
ただし、水戸学はもともと幕府の存在を否定する思想ではなく、朝廷を敬うことで国政を委ねられた幕府の統治力を強めるための学問だったが、江戸後期特に幕末に入って、内憂外患に翻弄(ほんろう)された幕府が国家的な危機に対して有効な対応を取れなくなると、そのぶん、幕府頼りにならずとして、幕府に国政を委ねた朝廷に期待する学問となっていく。朝廷に期待する思想と言い換えた方が正確かも知れない。
朝廷への期待感が高まるほど幕府への失望感が高まり、水戸学は幕政批判の思想へと転化する。こうして、水戸学をバックボーンとする倒幕思想が沸き立つことになり、幕府は滅亡への道をひた走る。
『大日本史』の編纂・刊行は歴史への関心を高める効果ももたらした。徳川家が天皇から国政を委任されている事実を広く知らしめることにもなったが、幕府からするとあまり好ましいことではなかった。天皇という自分よりも上の存在を知られてしまうからだ。皮肉にも、幕府を支える立場のはずの水戸家は『大日本史』を通じて、その事実を標榜する歴史的役回りを演じる。
幕末には、『大日本史』に象徴される水戸学は光圀の意図を越え、幕府の存立基盤を大きく揺るがす学問となる。いわば、死せる光圀、生ける幕府を走らせる事態が到来するのであった。
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歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。
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(歴史家 安藤 優一郎)
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