「後継ぎは優秀な人間がいい」とは限らない…徳川家康が「凡庸な三男・秀忠」を二代将軍に選んだ深い理由【2023編集部セレクション】
プレジデントオンライン / 2024年5月7日 10時15分
■跡継ぎ育成に失敗していた家康
人質から天下人に成り上がった徳川家康。日本で最も出世した偉人といえるだろう。
慶長8年(1603)、朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた家康だが、そのわずか二年後、息子の秀忠に将軍職を譲り、徳川が政治権力を世襲することを内外に誇示した。さらに武家諸法度、一国一城令、禁中並公家諸法度、寺院法度などで、政権を危うくする大名、朝廷、寺社と徹底的におさえたのである。
けれど、将軍を隠退して大御所になってからも秀忠には政治を任せず、家康は死ぬまで権力を手放さなかった。このため、死に臨んで家康は、秀忠のもとで徳川政権が続くかおおいに心配したが、それはまったくの杞憂(きゆう)に終わった。
「凡庸」と言われた秀忠が、じつは極めて優れた為政者だったからだ。いったい秀忠はどのように家康から権力を引き継ぎ、徳川体制を盤石にしたのだろうか。
天下を統一して戦国の世を終わらせた徳川家康は、江戸幕府を開いて初代将軍となった。その後、将軍職は秀忠、孫の家光と十五代にわたって継承されていき、徳川将軍家のもとで二百年以上にわたって平和な世の中が続いた。そういった意味で家康は、見事に事業承継に成功したといえる。でも、そんな家康も当初は、跡継ぎの育成に失敗している。
長男の信康を二十一歳の若さで死に追いやっているからだ。
■家康は自分の意志で信康を切腹させたのか
歴史に詳しい方は、家康が息子を切腹させたのは、織田信長に命じられて仕方なかったのだと思っているだろう。
大久保彦左衛門が著した『三河物語』などによれば、信康と妻・徳姫(信長の娘)の仲が悪く、不満に思った彼女が夫の信康と姑の築山殿(つきやまどの)の悪口を書き連ねて父に送ったという。その文中に決して信長が許容できない文言が含まれていた。
築山殿が甲斐出身の「めつけい」という唐人医師と不倫しており、彼を通じて敵の武田勝頼と内通し、信康を引き込んで謀反を企んでいると記されていたのだ。
驚いた信長が、家康の重臣・酒井忠次を呼び出して問いただしたところ、なんと事実だと認めたのである。そこで怒った信長が家康に信康の処分を命じ、泣く泣く家康は息子を自刃させたといわれてきた。
ところが近年、この逸話は疑わしくなっている。
家康自らの意志で、息子信康を滅ぼしたという説が有力になりつつあるのだ。これまで言われてきた話とは正反対なので、驚く読者も多いだろう。家康が信康を処罰したのは、信康一派が家康に謀反を企んだからとか、家康と信康が外交方針をめぐって対立したのが要因だ、などといわれている。
ただ、戦国時代には親子や兄弟で殺し合う例はあちこちで発生している。家康の宿敵である武田信玄も、謀反を企んだ息子・義信を幽閉し、一説には自刃させたといわれている。そういった意味では、決して珍しくない話ではあるが、のちに「神君」といわれる家康も嫡男の信康に背かれてしまったようだ。それを隠すため、後世に“お涙ちょうだい”の話が創作されたのかもしれない。
■関ケ原合戦に遅参した「凡将・秀忠」
家康が自分の後継者に選んだのは、三男の秀忠であった。次男の秀康は跡継ぎにしなかった。これについては、秀吉の養子に出したからとか、家康が三河の名家出身の西郷局(秀忠の母)を寵愛したからなど、諸説あってよくわからない。
だが、ご存じのとおり、慶長五年(1600年)、秀忠は関ヶ原合戦に遅参し、凡将のレッテルを貼られてしまう。合戦前、江戸にいた家康は秀忠軍を東山道から先発させた。率いた武士の多くは徳川譜代の大身や猛将であり、家康が引率した武士に小者が多いのと比較すると、秀忠軍のほうが徳川軍の主力部隊といえた。天下分け目の合戦で、息子に花を持たせてやろうという気持ちがあったのかもしれない。
だが結局、真田昌幸の拠る上田城に足を取られ、秀忠が到着したのは関ヶ原合戦の三日後であった。
■「決して遅れまい」と臨んだ大坂冬の陣
このため、腹を立てた家康は秀忠に会わなかった。さらにその後、主な重臣たちを集めて、後継者の再選定会議を開いたという。このとき秀忠を推した者は、大久保忠隣ただ一人だったといわれている。家康もずいぶん酷なことをする。けれど、近年、この会議については否定されている。いくらなんでも、さすがに家康もこんなまねはしないだろう。秀忠の面目が丸つぶれになるからだ。
とはいえ、合戦に遅参したことは、秀忠にとって大きな心の傷となったようで、次の戦では決して遅れまいと行動している。ちなみに次の合戦というのは、関ヶ原合戦から十四年後の大坂冬の陣である。
家康は、慶長十九年(1614年)十月一日に諸大名に大坂への出陣命令を発し、自身は十一日に二十万という大軍で駿府を出立し、二十三日に京都の二条城に入った。
このとき江戸城にいた秀忠は、出立に手間取り、家康が二条城に入った日に六万の軍勢を連れてようやく江戸を発している。ただ、その日のうちに神奈川宿に着くと、家康の側近の本多正純に対して「本日、神奈川にまでやってきた。まもなく上洛するから、私が行くまでは開戦を待つよう父上に伝えてほしい。時機を失いたくないのだ」と記した書簡を送っている。
あきらかに関ヶ原合戦がトラウマになっていたのがわかる。
■大軍を率いて常識外れのスピードで移動
その後も秀忠は、たびたび正純や藤堂高虎(外様だが家康の側近)に同じ内容の文書を送り、常識外れのスピードで進軍していった。
これを知った家康は「大軍なのに、無理な行軍をするな」と使いを送っていさめたが、なんと秀忠はこれを黙殺したのだ。
二十九日に東海道の吉田宿に到着した秀忠軍だったが、「御道急がせ給(たま)ふほどに、供奉のともがら武具諸調度まで残置て馳走(馬を駆って走った)せり」(『徳川実紀』)という異常な状況になった。さらに、三日前に出立した先鋒(せんぽう)隊の伊達政宗軍を追い越しそうになったのである。
十一月一日、そんな秀忠は三河国岡崎で、また家康の書面を受け取った。そこには「大軍を急に押給はば、人馬疲労するのみならず行列混乱し、其上軽率の御挙動、大体を失ひ給ふべし。かまへて緩々と押れて、寛大持重の体を失い給ふまじ」(『徳川実紀』)と書かれてあった。
そこで、さすがに秀忠も歩みを緩め、十日になって京都の伏見城に入ったのである。それにしても、たった十七日間で江戸から京都まで六万の大軍を連れてくるのは、尋常なスピードではなく、遅れてはなるまいという秀忠の焦りがよくわかる。
■“会長”となって権力を握り続けた家康
さて、話を関ヶ原合戦まで戻そう。
秀忠軍の遅参もあって、合戦で活躍したのは東軍に属した豊臣系の大名たちで、家康の直臣たちは大功を立てられなかった。このため、外様に大幅な加増をせざるを得ず、家康は完全に権力をにぎるのに手間どり、江戸に幕府を開いたのは、慶長八年(1603)二月のことになった。
ところが、わずか二年後の慶長十年(1605)四月、家康は将軍の地位を秀忠に譲ってしまう。今後は代々徳川家が将軍となって権力をにぎるということを、内外に示すためだった。大御所となった家康は、このとき六十四歳、すでに隠居してもいい年令だが、それ以後も家康は権力を手放さなかった。
中小企業の社長が息子に社長職を譲りながら、会長として会社を牛耳るようなやり方だ。しかも、まもなく駿府城に移った家康は、死ぬまで権力を維持し続けたのである。
よく、秀忠が将軍になって以降、徳川政権は江戸(秀忠)と駿府(家康)で二頭政治をおこなっていたとされるが、それは嘘だ。駿府の家康がブレーンに政策を練らせ、それを江戸の秀忠に実行させていただけ。現在の事業承継とは正反対の手法である。とはいえ、そうしたやり方があってもよいだろう。
けれどそうなると、一般的に二代目社長が不満を持つものだが、秀忠はひたすら父を敬愛し、逆らうことはなかった。
■カリスマ性がないからこそ、父を崇敬していた
これに関して、次のような逸話が伝わっている。秀忠が駿府城に滞在したさい、家康は側室の阿茶局に「秀忠はまだ若者だ。さぞかし独り寝は寂しかろう。侍女の花(はな)に菓子でも持たせ、あいつの部屋へ遣わしてやれ。きっといい慰めになるだろう」と夜伽の女を送らせた。花は、有名な美人だった。
ところが秀忠は、花が家康から遣わされた者だと知ると、裃(かみしも)をつけて正装したうえで、部屋へ迎え入れて上座に座らせたのだ。そして、彼女が持参した菓子を頭にいただいて丁重に礼を述べたうえ、「今宵は遅いですので、どうぞ早めにお帰りください」と、自ら戸口まで出て見送った。
その話を聞いた家康は「あいつの律儀さには、はしごをかけても届かない」と苦笑したという。少々、わざとらしさを感じるものの、ここまで実の息子に敬愛されたら、家康も秀忠を可愛く思うだろう。
秀忠は、家康のようなカリスマ性がないことは自分が一番わかっていた。だから父を崇敬したのであり、さらに父の言動も見習ったのである。
■常日頃から教訓を垂れていた家康
幸いなことに家康は、大の教え好きであった。重臣たちにはことあるごとに、政治のあり方について諭していた。たとえば、「徳川四天王」として有名な本多忠勝は、主君に教えてもらったことを子孫に書き残している。その『本多平八郎忠勝聞書』を意訳して紹介しよう。
「私は、若年から家康公のお側に仕え、幸い気に入られてずっと勤めていたので、まったく学問をする暇がなかった。ただ、文盲であるけれど、不断に主君の金言を聞いてきた。だから家を整え、国を治めることは、少しは心得ているつもりだ」
そう述べ、家康の教訓を次のように書き留めている。
「家康公は、人は天道(天地自然の摂理で至高の存在)に従って生きることが大事だとおっしゃった。天道は、われを生かしてこのような立場にしてくれているのだから、それをおろそかにしては天罰があたる。また、よい部下を選べとも言われた。よいとは心がよいことで、男ぶりではない。物言少なく、心正直にして、主人のためを第一に考えて諫言する、それが最上の者である。
さらに、気に入らないことでも家臣の『異見』(異なる意見)は聞くようにしろ。そうしなければ、次第に人が離れ、自分一人きりになり、家は没落してしまうだろうとおっしゃった。
家康公は、己(おのれ)一個の我を立てないようにしろといさめてくださった。たとえ、お前が中国の聖人君子・堯舜(ぎょうしゅん)のような知恵を持っていても、自分の心を恃んではならない。大国を治める者は一人ですべてを見聞できるわけではない。だから正直なものを五人、十人と目付にして統治しろと言われた。
大名が高禄を取っているのは、身を楽にするためではない。上に立つ者は、国を守り、民百姓を安んじさせるために存在すると語られた」
このように家康は、近侍する重臣に常日頃から教訓を垂れていたのである。
■「さすがは親子なり!」と称賛された秀忠のひと言
さらに家康は忠勝に、「本を読むことは身を正しくするためで、心ここにあらずの状態で読んでも何の役にもたたない。一文を読んでは心に刻み、一言聞いてはそのまま実行に移すつもりで読みなさい」と読書の方法まで教えている。
重臣に対してさえこんなふうだから、跡継ぎの秀忠は、さらに家康から細々と教えを受けていたに違いない。
こんな話がある。
大坂夏の陣のとき、家康は河内星田に本陣を敷き、秀忠は砂の地を陣とした。決戦直前、家康の陣中で、謀反をたくらむ大名があるという風説が流れた。これを耳にした家康は、にわかに立ち上がって「そんな不届き者がいるのに、このわしが気づかぬはずがあろうか!」と叫び、周囲を睨みまわした。
ほぼ同時刻、秀忠の陣中でも同様の噂が流れた。すると、なんと秀忠も急に立ち上がり、家康とまったく同じ言葉を吐いたのである。
「さすがは親子なり!」
そう徳川の家臣たちは感激したというが、これは、秀忠の努力の賜物だった。
■涙ぐましい努力の結果、家康に認められた
繰り返しになるが、関ヶ原合戦に遅参した秀忠を、譜代や諸大名は「凡庸な二代目」と心の底では軽んじていた。もちろん秀忠もそれはわかっていた。だからこそ、実父の家康を神のようにあがめ、その行動様式を徹底的に学ぶ努力を続けてきたのだ。この逸話が、それを物語っていよう。
だが、こうした秀忠の涙ぐましい努力を、家康が認識していたかどうかはわからない。
家康はまた、有能な武将を選んで秀忠につけた。立派な跡継ぎにしようという親心だ。その一人が、立花宗茂である。宗茂は不敗の名将として知られ、大友義鎮の家来だったが、九州平定で島津の大軍を引きつけて孤軍奮闘したことで豊臣秀吉から独立大名に抜擢され、柳川の地を与えられた。
さらに、朝鮮出兵でも明の大軍を食い止める働きを見せ、名将として名を高めた。関ヶ原合戦では、西軍に属して東軍の大津城を攻め落としたが、西軍が敗れると改易され浪人となった。
しかし、執拗(しつよう)に失地回復を家康に働きかけたので、ついに改易から六年後、家康は宗茂を登用することに決めた。そして、側近の本多正信に対し、「秀忠は年若なので、律儀にして戦功を上げた者を相談相手にしたい」と述べ、宗茂を秀忠に付属させたのである。
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歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数
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(歴史作家 河合 敦)
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