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悠仁さまの筑波大附属進学は「異色ではない」と言えるこれだけの理由

プレジデントオンライン / 2022年3月25日 8時15分

お茶の水女子大付属中学校の卒業式に臨まれる秋篠宮ご夫妻と長男悠仁さま。2022年3月17日、東京都文京区 - 写真=AFP/時事通信フォト

秋篠宮家長男の悠仁さまが今月、お茶の水女子大学附属中学校を卒業し、4月から筑波大学附属高校に進学されることになって話題になった。現在も天皇陛下の長女、愛子さまが在学するほか、多くの皇族を輩出してきた学習院大学だが、神道学者で皇室研究者の高森明勅さんは「歴史をさかのぼれば、皇族の教育は必ずしも学習院に限ったものではなかった」という――。

■「華族」のための学校だった学習院

先頃、秋篠宮家のご長男、悠仁親王殿下が筑波大学附属高校に進学されることが決まった。これまでは一般に、皇族は学習院で学ばれるのが慣例と見られていたので、悠仁殿下のご経歴はいささか異色な印象を与える。そのために、今回のご進学も含めて、いろいろと注目を集める場面があった。

しかし、少しロングスパンで皇族の養育や教育をめぐる環境を俯瞰的に眺めてみると、さまざまな変化やバリエーションがあったことが分かる。

そもそも、学習院は「華族」のための学校だった。華族とは、明治日本が新しく創出した貴族制度だ。古代以来の公家(くげ)の子孫、江戸時代の大名家の関係者、薩摩・長州・土佐藩などの出身でとくに手柄があった者などに、爵位が与えられた。

その華族の団体である華族会館が、イギリスの貴族学校を手本として学校を作ることを構想。プランが実って明治10年(1877年)に私立学校として開設されたのが「学習院」だった。

やがて明治17年(1884年)には、宮内省所管の官立学校に衣替えをした。

学習院初等科の正門と本館。明治32年(1899年)7月四谷の現在地に完成したもので、本館は新校舎建築のため昭和11年(1936年)に取り壊された。大正4年(1915年)ごろ撮影。学習院百年史第一編より。
写真提供=学校法人学習院
学習院初等科の正門と本館。明治32年(1899年)7月四谷の現在地に完成したもので、本館は新校舎建築のため昭和11年(1936年)に取り壊された。大正4年(1915年)ごろ撮影。学習院百年史第一編より。 - 写真提供=学校法人学習院

■制服、ランドセル…学習院から広がる

面白いのは、学習院で海軍士官型の制服が採用され(明治12年〔1879年〕)、さらに生徒たちにランドセルを背負わせるようになると(同18年〔1885年〕)、制服とランドセルの使用が全国各地に広がったらしいことだ(高橋紘氏)。おそらく、同院が憧れの目で見られていたからだろう。

初期のランドセル(写真提供=学校法人学習院)
初期のランドセル(写真提供=学校法人学習院)

戦後、昭和22年(1947年)に再び私立学校となり、現在に至っている。その際、日本国憲法によって、第1章の優先的な適用を受けられる皇室の方々(天皇・皇族)と第3章の全面的な適用を受ける国民以外に、中間的な「貴族」身分を設けることが禁止された(第14条第2項)。その結果、“華族の学校”だった学習院は当然ながら、根本的な変更を余儀なくされた。新しく制定された学則には以下のようにあった。

「本院は総(すべ)ての社会的地位、身分に拘(かかわ)らず、広く男女学生を教育することを本旨」とする、と。

学習院は戦後、全く新しい形で再スタートしている。

こうした経過の中で、たとえば現在の天皇陛下の祖父にあたられる昭和天皇の場合は、どのような教育環境にあられたのか。

■新しい校舎、選ばれた「ご学友」

昭和天皇は明治34年(1901年)にお生まれになり、同41年(1908年)に学習院初等科に入学された。当時の院長は陸軍大将・乃木(のぎ)希典(まれすけ)。これは、昭和天皇(その頃の立場は皇孫=天皇の孫)のご入学をにらんで、明治天皇がその人格を高く評価しておられた乃木を院長に指名されたことによる。乃木の名前は、現在も東京の「乃木坂」という地名として残っているし、同地には乃木大将を祀る乃木神社が鎮座している。

学習院は昭和天皇のご入学に際して、校舎を1棟、新設している。また、クラスは選ばれた12名が「ご学友」となり、途中で転校した1名を除き、卒業まで同じメンバーだった。彼らは午前8時前に学校に行き、校門に並んで昭和天皇を出迎えた。

乃木院長は、週に1回、ご学友たちの手の爪が伸びすぎていないか点検して、昭和天皇にけがをさせないように気を配ったという。

毎年、年の暮れから3学期いっぱいは寒さを避けて、沼津や熱海の御用邸ですごし、ここで勉強された。父親の大正天皇(当時は皇太子)が大病を患って、ご病弱だったことが影響したという。

それにしても、徹底して特別扱いだったことが分かる。

■皇太子だけのための学校

大正3年(1914年)に学習院初等科を卒業されると、中等科には進学されなかった。昭和天皇(当時の立場は、明治から大正に時代が移っていたので、皇太子)だけのために特別に設置された学校にお入りになったからだ。その学校の名前は「東宮(とうぐう)御学問所(おがくもんじょ)」。“東宮”とは皇太子のことを指す。

立案者は乃木で、総裁に就任したのは元帥(げんすい)(陸軍・海軍の大将の中からさらに選ばれた軍人として最高の地位)だった東郷平八郎。日露戦争の日本海海戦で劇的な勝利をもたらした連合艦隊司令長官として有名な人物だ。東郷も死後、東京・原宿に鎮座する東郷神社に祀られることになった。

御学問所では教科ごとに一流の教授陣を揃えた。「歴史」の担当は白鳥(しらとり)庫吉(くらきち)(東京帝国大学教授)、「地理」は山崎直方(同)、「数学」は吉江琢児(同)、「国語・漢文」は飯島忠夫(学習院教授)、「法制経済」は清水(しみず)澄(とおる)(行政裁判所評定官)等々といったメンバーだ。教科書も独自に編集したものを使用した。大正10年(1921年)に卒業されるまでの正科16科目を、教授23人で担当した。

たったお1人のために何とも贅沢な教育機関というほかない。

さらに、ご学友として5人の生徒が選ばれた。彼らは宮内省の臨時職員(出仕)とされ、形式上は学習院中等科・高等科に籍をおいた。しかも御学問所に附属した寄宿舎で共同生活をすることになった。土曜日の午後は自由に遊び、日曜日は夕方までそれぞれの家に帰ることが認められた。家に泊まることができるのは、夏休みなど長い休みの初めと終わりだけたったという(永積寅彦氏『昭和天皇と私』)。

■東大総長推薦の教師が「帝王学」の講義

この御学問所は、まさに将来の天皇のための教育機関だった。だから、カリキュラムの中で「倫理」がとくに重視された。これこそ、いわゆる“帝王学”にあたる科目だったと言ってよいだろう。しかし、それが重要な科目であればなおさら、誰がそれを担当するのかが大きな意味を持つことになる。

そこで、学界の最高峰というべき東京帝国大学(今の東京大学)総長の山川健次郎に、人選を依頼した。しかし、「大学教授の中には1人も適任者はいません」と言って、本人も固く辞退した。その上で、唯一その任にふさわしい人物がいるとして推薦したのが、私立「日本中学校」校長の杉浦(すぎうら)重剛(しげたけ)だった。

その地位・肩書は、世間的には何ら重みを持たない微々たる存在だった。だが、東大総長が自信を持って唯一の人物として名前を挙げたことは重大だ。結局、肩書的には教授陣の中で最も見劣りする杉浦が、御学問所で最も大切な「帝王学」にあたる科目を、たった1人で担当することになった(地理や数学、フランス語、習字などは複数が担当した)。

体裁ではなく、実質を重んじた結果だった。

■影響を与えた杉浦の講義

杉浦は期待を裏切らない教育成果を上げた。たとえば、日本が総力戦に敗れ、被占領下におかれるという未曾有の経験をした時に、昭和天皇は国民に戦後復興の方向性を示すお言葉を発表された。それが昭和21年(1946年)の年頭の詔書(いわゆる「人間宣言」)で、冒頭には昭和天皇ご自身の強いご意思によって、明治維新の国是を定めた「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が掲げられた。これは、杉浦が授業の柱として、五箇条の御誓文をとりわけ重視していたことが、背景にあったと考えられる。

杉浦は5年生3学期の「民は邦(くに)(=国)の本(もと)」という授業で、民主主義(当時の表現では民本主義)は新しい言葉ではなく、明治天皇の五箇条の御誓文にすでに盛り込まれていたと教えていた。

昭和天皇はのちに、記者会見の場で昭和21年(1946年)の年頭詔書について、五箇条の御誓文こそがその主眼だったと強調されている(同52年〔1977年〕8月23日)。

「民主主義を採用したのは明治大帝の思し召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもととなって明治憲法ができたので、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います。……日本の誇りを日本の国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから」と。

そこに杉浦の講義の影響をはっきりと見て取ることができる。

御学問所を卒業された大正10年(1877年)、昭和天皇は20歳になられた。同年11月には、以前から病気を抱えていた大正天皇のご症状がより悪化されたために、摂政に就任され、天皇がなさるべきことを全て代行される立場となられた。

■騎馬戦では“脚”の役

では、昭和天皇のご長男で、天皇陛下の父宮にあたられる上皇陛下の場合はどうだったか。ここで取り上げてみたいのは、戦前と戦後の、皇族の教育を取り巻く環境の激変ぶりを示す事実として、上皇陛下が学習院大学を中退されていたという、現代の日本人の多くににとってはいささか意外な話題だ。

敗戦後、宮内省(当時)は当初、その頃は皇太子だった上皇陛下のために、再び御学問所を設けるつもりでいた。しかし、被占領下の時代であり、占領当局がそれを「民主教育に反する」として認めなかった。そこで、学習院で学ばれることになった。

戦後の学習院では、昭和天皇の時とはうって変わって「特別扱いはしない」という方針が貫かれた。たとえば、昭和23年(1948年)10月に行われた中等科時代の運動会の時に、騎馬戦で上皇陛下が“脚”の役をされて「拍手はさらに一段と強くわき上がった」という場面があった(小野昇『天皇記者三十年』)。

その延長線上の出来事として、学習院大学が上皇陛下の進級を否認するという判断を下した。

■学習院大学を中退された上皇陛下

昭和28年(1953年)の出来事だ。この年、上皇陛下は昭和天皇のご名代として、イギリスのエリザベス女王の戴冠式に出席された。旅程は3月30日から10月13日にわたり、欧米各国を巡られた。その間、カナダのサン・ローラン首相による歓迎演説が議会で行われたり、イギリスのチャーチル首相主催の歓迎午餐会に出席されたり、アメリカのアイゼンハワー大統領と会見されるなど、まさに皇太子としてのご公務そのものだった。これは当時、「国事行為の臨時代行に関する法律」が未成立だったために、昭和天皇が、憲法が定める国事行為を必ずご自身でなされなければならず、海外にお出ましになることがかなわなかったという事情があった(同法の成立は昭和39年〔1964年〕)。

エリザベス女王の戴冠式が行われたロンドンのウエストミンスター寺院
写真=iStock.com/imortalcris
エリザベス女王の戴冠式が行われたロンドンのウエストミンスター寺院 - 写真=iStock.com/imortalcris

その頃、上皇陛下は学習院大学2年に在籍しておられたが、長期欠席のため単位が不足しているとして、学習院は「3年への進級は認めない」との方針を打ち出した。これによって、上皇陛下は留年ではなく、退学という道を選ばれた。昭和29年(1954年)4月以降は聴講生になられ、週に3回程度大学に通われる一方、お住まいの東宮御所で特別教育を受けられた。

学習院大学の同級生が卒業する昭和31年(1956年)3月の卒業式には“来賓”として出席されている。このご経歴について宮内庁のホームページには、同年「学習院大学教育ご修了」と表記され、他の皇族について学部学科を明記して「ご卒業」と書かれているのとは、明確に区別している。

なお上皇陛下ご自身はのちに、このご経験について以下のように述べておられた(昭和52年〔1977年〕12月9日)。

「私なんか大学から離れてから本当の学問の情熱というものを感じました。あの戴冠式(出席)のあとで大学の進級問題が起こって、学生でなくて、聴講生の方がいいといわれた。その時はそうしたいと思ったわけでもないですけれども、いま考えるとそれが大変良かったと思っています」

上皇陛下がハゼなどの専門研究によって、めざましい学問的業績を残しておられるのはよく知られているだろう。

■3歳で親元を離れた上皇陛下

天皇陛下についても少し触れておこう。今や忘れられかけているかもしれないが、天皇陛下が上皇・上皇后両陛下と「親子同居」の暮らしの中でお育ちになったことは、当時は画期的な出来事だった。

大正天皇も昭和天皇も、親子同居の暮らしを強く望まれた。しかし、その頃の宮中では、「親子が一緒に暮らすと厳しい躾ができない」「親子愛・家族愛などは私的な感情にすぎず、むしろご公務の妨げになる」という考え方が根強かった。

そのために、たとえば上皇陛下の場合は、生まれてわずか3年3カ月で親元から引き離された。宮内省の役人や看護師などがチームを組んでお世話にあたったが、まるで“おとぎ話の王子さま”のように扱って(社会教育学会編『皇太子さま』)、昭和天皇は苛立ちを覚えられたという。結局、上皇陛下は昭和34年(1959年)に上皇后陛下と結婚されるまで、「家族」生活というものを経験されることがなかった。

■「親子同居」という“新しい”暮らし方

今、振り返るとずいぶん非人道的な話としか思えないが、もともとは京都の公家の風習だったという(宮本常一氏)。昭和天皇が生まれて2カ月あまりで親元から引き離された時、母親の貞明皇后(大正天皇の皇后)は「生まれつき快活そのものだったのに、悲しみのあまり体調を崩された」(エルヴィン・ベルツ『ベルツ日本再訪』)ことも伝えられている。

天皇のお子様が当主となられる直宮家(じきみやけ)での親子同居の先駆けは、昭和天皇の一番下の弟の三笠宮家だった。そのことを、同家のご長男だった寛仁(ともひと)親王は「初めて歴史に挑戦した」(『皇族のひとりごと』)と記しておられた。

しかし、宮家ではなく内廷(いわゆる天皇家)で親子同居を経験されたのは、上皇・上皇后両陛下のもとでお育ちになった天皇陛下が最初だった。

先頃、天皇陛下のお誕生日に際しての記者会見(2月21日)と敬宮(としのみや)(愛子内親王)殿下のご成年を迎えられてのご会見(3月17日)が、相次いで行われた。親子同居という暮らしが内廷に新しく取り入れられたことの大切さを、改めて強く感じさせるご会見だった。

天皇陛下のお側近くで暮らすことで、敬宮殿下は今、皇室の中で誰よりも多くのことを天皇・皇后両陛下から直接、学んでおられる。それは、どのような教育機関によるより濃密で質の高いものだろう。先日のご会見で敬宮殿下がまとっておられた独特の“オーラ”(風格・チャーミングさ)は、そのことを何よりも雄弁に語ってくれた(本連載3月24日公開の拙稿 「結婚後も皇室にとどまりたい」皇室研究家が初の記者会見から読み取った愛子さまの裏メッセージを参照)。

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高森 明勅(たかもり・あきのり)
神道学者、皇室研究者
1957年、岡山県生まれ。国学院大学文学部卒、同大学院博士課程単位取得。皇位継承儀礼の研究から出発し、日本史全体に関心を持ち現代の問題にも発言。『皇室典範に関する有識者会議』のヒアリングに応じる。拓殖大学客員教授などを歴任。現在、日本文化総合研究所代表。神道宗教学会理事。国学院大学講師。著書に『「女性天皇」の成立』『天皇「生前退位」の真実』『日本の10大天皇』『歴代天皇辞典』など。ホームページ「明快! 高森型録」

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(神道学者、皇室研究者 高森 明勅)

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