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「君たちはお国のために働く観光事務員です」政府公認の"特殊慰安所"が女性たちに使った誘い文句

プレジデントオンライン / 2022年4月16日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/superwaka

終戦からわずか3日後の1945年8月18日、政府は米兵向けに女性をあてがう施設を作ることを全国の知事に命じた。そこで働いた女性たちはどう集められたのか。元NHK記者の村上勝彦さんの著書『進駐軍向け特殊慰安所RAA』(ちくま新書)より、女性たちの証言を紹介する――。(第2回)

■慰安婦になった19歳女性は電車に飛び込み自殺した

いくつかの本や雑誌記事に出てくる女性の話がある。

丸の内で働いていた19歳の元タイピストである。女性はRAA(特殊慰安施設協会)に事務員として応募してきたが、説得されて慰安婦になることを承諾した。「悟空林」に配属され、具体的な話を聞いている間じっと体をこわばらせ顔を伏せていたという。世話したおばさんは「処女なら無理もない。すぐ慣れるだろう」と思ったという。

開店初日の8月30日、朝から米兵が歓声を上げて店に押し寄せてきた。一人の兵隊が「ナンバーセブン、ノーガール」とどなっていた。手分けして探すと布団部屋の隅で彼女がなきじゃくっていた。「おばさん堪忍して、怖くて恐ろしくて」と泣いて話すので、夕方まで休ませることにした。

しかしその日も終わりというとき、兵士たちでごったがえす廊下で大きな黒人兵が「ナンバーセブン、グッド」と笑顔で叫びながら出て行った。

彼女の割部屋の布をめくると、乱れたシーツと血が見えるだけで彼女の姿はなかった。店中大騒ぎで探したものの彼女はみつからなかった。

翌日大森警察署に問い合わせると、京浜電車に飛び込み自殺した娘がいるという。現場に駆け付けると、菰(こも)をかぶせられたそのナンバーセブンの女性が横たわっていた。

■京浜急行大森海岸駅付近にあった慰安所

この女性だけではない。慰安所の仕事のあまりの凄さに逃げ出す女性や、精神に異常をきたす女性もいた。

この女性の話は『りべらる』の糸井やRAAの鏑木清一の文章、1978年発行の『東京闇市興亡史』(猪野健治編)など、当時のことを描いた本には悲劇の例として必ずと言っていいほど出てくる。

この自殺した元タイピストの女性の勤務先は「悟空林」とも「小町園」とも言われているが、開業日からみて「悟空林」ではないかとおもわれる。

小町園や悟空林、楽々、見晴などの慰安所があった京浜急行大森海岸駅のあたりは、今はビルやマンションが立ち並び、当時を思い浮かべられるものも、気配も残っていない。

■勤務していた女性の体験談

RAAの慰安所の様子が具体的に描かれた最初のものは、1945年11月の『新生活』創刊号だろう。「敗戦考現学 第一課」という奇妙なタイトルでRAAの慰安所のことが出てくる。冒頭に以下のように記されている。

戦いは終わった! 白昼の街頭に麗々しく掲げられた看板は「昭和のお吉」の募集看板だった。いわく「特殊慰安施設協会」

続いて、女性の体験談が掲載されている。

慰安所で働いて半月の女性は、

「東京では一〇〇〇人の応募者があり、九割が芸妓や娼婦等の経験者だったが、戦地で夫を失った人もいて複雑な気持ちになった。その人はもう決心して、泣いたりする様子はみじんもなく一種の気高ささえ感じられた。私はお吉のような志士的行動のみを追ってもいなければ、ナイチンゲールのような博愛的情熱に囚われているわけでもない。無知な放心状態で、動物的生活的本能に動かされているのでもない。そのくせ女の犠牲という言葉に不思議な魅力を感じている」

と複雑な心情を語っている。

昭和23年ごろの闇市(東京)
写真=時事通信フォト
昭和23年ごろの闇市(東京) - 写真=時事通信フォト

■「ここへ来る人はみんな借金のある人ばかり」

また別の女性も、こう事情を述べた。

「今どきのインフレに女一人が子供を抱えて三〇〇や四〇〇でやっていけますかってんだ。ここへ来る人はみんな借金のある人ばかりと言っていい。ちゃんと四分六分の割合で働けば働くほど収入が入る。インフレ成金のおいぼれなんかのお妾になるのと違ってよう。そうでしょう。わかってわかってください……」

『女の防波堤』を著した田中貴美子が小町園に行くことになったときは次のような様子だった。

松造りの豪華な建物に感激し、一緒にいたみんなも上機嫌で、「こんなうちに住めるなら少しぐらいつらくても辛抱するわ」と言っていた。

■微笑みを絶やさず優しくサービスするように…

アメリカにもいた世話役のおばさんに、米兵を迎えるやり方をいろいろ説明された。彼女は、アメリカの生活に慣れた人らしく、アメリカ兵は生きるか死ぬかの戦争をしてきた人たちで、長い間女の身体に飢えている上、肉食人種の性欲は激しいので、微笑みを絶やさず優しくサービスすること、チップをはずむ者もいるので微笑みは忘れないことを強調した。

最後に、その世話役のおばさんは処女の人は手をあげるように言い、数十人のうち六、七人が手をあげると、おばさんの「教えますから」の言葉に、海千山千の女たちがどっと笑い崩れたという。

■「昭和の唐人お吉」という名のもとに躍らされた

MPや軍医が消毒にうるさいらしく、女たちは消毒の器械や手洗いの設備の説明を受け、熱帯の病毒を持っているものもいるから自分の身は自分で守るよう念を押された。

しかし、そののちに田中が体験したことは、世話役のおばさんに聞いた話から想像したものをはるかに超える生活であった。

田中はその本のあとがきで、「半官半民、公認の売春会社R・A・Aの女となって、「昭和の唐人お吉」という美名のもとに、躍らされた私たちに、その後これという救いもなく、あるのはただ転落の一途のみでございました」と記している。

■男を次から次へと抱いては送り、送っては抱き…

『潮』の1972年6月特大号には「進駐軍慰安の大事業を担う新日本女性求む」と題して占領軍慰安にかかわった女性たちの話を載せている。5人の話の概要を記す。

〔RAA慰安所「見晴」の慰安女性〕

三月一〇日の大空襲で他の家族は全員死亡し、ただ一人生き残った。防空壕だけが残り一人では不安なので両親と親しかった知人の男の人に頼み、一緒に壕で生活を始めた。ある夜、寝ているところをその男に強姦された。いくあてもなくふらふらしているうちに、銀座でRAAの立て看板を見た。

戸惑いながらも「どうせ汚れてしまったからだ。衣食住の心配がないだけましだ」と慰安婦になった。

「開店の朝、京浜国道の幅広い道は、アメリカの兵隊で、黒山のような波が襲ってくるようでした。恐怖におびえるまもなく、兵隊が入ってくるなり私を抱くとしびれるほど唇を吸う。そして無我夢中の一瞬が過ぎると、男は再びキスして出ていく。

呆然としていると入れ替わりに次の兵隊がくる。急いで消毒室に駆け込む。さらに送り込まれる男を次から次へと抱いては送り、送っては抱き、相手に対する好意の感情などわく余裕もなく時が過ぎていく……。

午後になり店を閉め遅い昼食をとったときはからだじゅうが痛くて、おなかがひどく疼く。あとで聞くと二三人もの相手をしていました。一カ月もするとお金のためとはいえ、つくづくこの稼業が嫌になりRAAをやめました。

あまりに数多くの男に汚された私のからだでは、まともな仕事などできません。あとは深い深いドロ沼へと……。GHQ、海上ビル、明治ビル界隈で夜の女。アヘン中毒にもなりました。パンパン狩りにあい、警察のお世話になったこともあります」

障子から覗く男のシルエット
写真=iStock.com/liebre
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/liebre

■「きみたちはお国のために働く誇りある女性です」

〔空襲で親兄弟を失った女性〕

知人が「観光事務員の大募集をしている」という話を聞き込んできた。高額な給料、豊富な食糧が約束されている。がつがつした気持ちで応募に行くと、応募者は列をなして群がっていた。採用可。数十人の女性たちに支配人から意外な言葉が述べられた。

「きみたちは特別挺身(ていしん)隊なのです。お国のため、日本の歴史のために働く誇りある女性です」と。その内容は驚くべきもので米軍兵隊のために特別設置された慰安所で慰安婦をつとめろという。

「慰安婦」この言葉に全身から血のひく思いだった。知人の顔もひきつっていた。二人で逃げようと夜、機会を狙ったがいたるところに武装した黒人兵が仁王立ちになっていて逃げることはかなわなかった。

「観光事業とは真っ赤な嘘で、完全に仕組まれたワナだった。支配人の甘言にのせられ、私たちがバカだったのだ。舌をかみ切る勇気もなかった二人は仕方なく命令に従わされてしまったのである。

連れていかれた部屋のベッドには薄い毛布が一枚あるだけ。シミーズの私が気も狂わんばかりになっていると、男が来た。ニヤニヤしながらトビラにもたれかかりズボンを脱ぎ始める……。何か叫ぼうとしたが、恐怖で声にならない。たちまち男に組み伏せられた私は激痛とともに気を失ってしまった。

ふと気が付くと眼前には別な顔が上下していた。すでに抵抗する気持ちもない、なすがままである」

■給与はピンハネ、食事はおしんことお茶漬けだけ

〔母の死に目にもあえず〕

父を栄養失調で亡くし、母が結核で療養し弟を含め一家を支えねばならなくなった女性。大阪から一九四六年の春に弟と上京し、父の知人を頼りに立川に来たものの知人の居場所がわからない。

駅の近くでうろうろしていると見知らぬ男に仕事を探しているのかと声を掛けられ、すぐにも働き始めたかった女性は、男の誘いに乗り、連れていかれたのが、国がやっているという慰安所だった。

「国がやっているというふれこみでも、業者が雇ったヤクザが監視していては逃げ出すこともできない。観念した私は、その夜から外人相手専門の慰安婦になってしまいました。母に命を少しでも長らえてもらうために、どうしてもお金が欲しかったことも、あきらめた原因の一つでした。

弟もやはり、私を慰安所に連れてきた男に、どこかに売りとばされたようでした。一日に二〇人から三〇人の兵隊の相手をしたために、微熱と痛さが出る。それに食事ものどを通らず夜も眠れない毎日でした。食事といってもおしんことお茶漬けだけ」

女性は、あがりの半分はくれるという約束をよそに、三分の二はピンハネされたが、それでも手に入る金はすべて大阪の母に送金していた。「立川時代の一年は、まるで地獄でした。『ハハシス』の電報を受け取った夜も、泣いて頼んでも帰してもらえない。枕をぐっしょり涙でぬらしつつ、一晩中、客の相手をしていた私です」

■「一般女子を守るための防波堤になってくれ」

〔地に落ちた大和撫子〕

広島県警から「遊女は一般女子を守るための防波堤になってくれ」と依頼してきたほどで、警察官がよくまあ「ねえさんや、女のコを数人貸してくれんかね」「白人さんを、よろしくお願いします」なんていうてアタマさげてきよりました。

ウチらの女性は、九州や四国の半農半漁の貧しい家の娘が売られてきましたが、言うことをよく聞くけん、むごい仕打ちにあったものは一人もおらず、みんなチョコレートやビスケットなどをもらって喜んでいました。一般家庭の婦女子を守るために、女郎は貢献したもんですよ。

■「外人の男の腕に抱かれてこの世を去りたい……」

〔家の前にジープが四〇台〕

ある女性が知人に紹介されたダンスホールは、豪華な三階建てのホテルにあった。彼女は外国人とのふれあいの多い環境に育ったので、多少の英語を話すことができた。この店でダンサーとして一生懸命やろうと覚悟を新たにしながら店に勤め始めた。

個室が与えられ、広い部屋にはダブルベッドやテーブルがおかれ、彼女はすっかり豪華さに酔っていた。

村上勝彦『進駐軍向け特殊慰安所RAA』(ちくま新書)
村上勝彦『進駐軍向け特殊慰安所RAA』(ちくま新書)

「ある夜のこと、寝ていて胸のあたりがへんに息苦しいので目を覚ますと、眼をギラギラさせて迫ってくる顔があった。逃げようとしたがシーツに足を取られ転倒してしまった。観念して眼を閉じた私の耳元で、外人が「ワタシ、カネヲハラッタネ。アナタ、ワタシトネル」とささやくのだ。そのひとことで、私は外人専門の淫売ホテルの女にさせられていたことを知ったのだ」。彼女はこう話している。

彼女は色々な淫売ホテルを転々とし、「惚れた男と結婚しよう」と一度はゆめみたが、結局「外人相手の商売のアジがしみついた私のからだでは、元のさやに戻るしかなかった」

そして一晩一〇人もの「まわし」をとる日が続く。彼女の借りた家の前にはジープが四〇台並んだこともあったという。また仙台の米軍の倉庫で数十人を迎えたこともあった。

「いずれにしても私のからだは外国の男たちによって女にされたのだ。外人の男の腕に抱かれてこの世を去りたい……」

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村上 勝彦(むらかみ・かつひこ)
元NHK記者
1953年富山県生まれ。東京大学卒業後、NHKで記者として20年余り勤務。その後編成や経営計画などを担当。退職後、BPO(放送倫理・番組向上機構)事務局に勤務し、放送の自律に関わる。現在は『月刊マスコミ市民』の編集委員。著書に『政治介入されるテレビ 武器としての放送法』(青弓社)がある。

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(元NHK記者 村上 勝彦)

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