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なぜ福沢諭吉は都心の超一等地に慶応大学を開けたのか…維新直後の東京で起きた「不動産大暴落」

プレジデントオンライン / 2022年4月16日 9時15分

江戸のパノラマ(写真=フェリーチェ・ベアト/PD-US/Wikimedia Commons)

約150年前の東京はどんな町だったのか。歴史家の安藤優一郎さんは「大名屋敷は荒れ果て、東京は草原になった。地価は大暴落し、都心一等地は1坪200~300円ほどになった」という――。

※本稿は、安藤優一郎『教科書には載っていない 維新直後の日本』(彩図社)の一部を再編集したものです。

■明治維新で経済危機に陥った東京

明治天皇の東幸(とうこう)を受けて東京は天皇のお膝元に生まれ変わったが、太政官(だじょうかん)をはじめ政府機能が移されたばかりの東京は荒れ野原が目立った。人口が減り続けたことを背景に、極度の経済不況に陥っていたのである。

まったく活気がなく、放置されて荒れ果てた土地も多かった。そうした事実はほとんど知られていないだろう。

維新直後の東京の姿を後世に書き残した女性がいる。近代日本の女性解放運動のシンボルの一人として知られる山川菊栄である。菊栄の母は青山千世(ちせ)といい、安政4年(1857)に水戸藩士で儒学者の青山延寿(のぶとし)の娘として水戸城下に生まれた。

明治5年(1872)に父延寿が東京府地誌課長を拝命したことで東京に出てくるが、そのときに見聞きしたことを菊栄が『おんな二代の記』(平凡社東洋文庫)としてまとめる。同書に維新直後の東京の姿が活写されているのだ。

母千世は、はじめてみた東京の姿について次のように語っている。

諸大名や幕臣という「寄生階級」を中心に栄えていた消費都市江戸は、武家制度が亡びると同時に荒れ果て、多くの武家屋敷は解体され、立木、庭石や泉水ばかりが残されている(『おんな二代の記』の記述を要約)。

いみじくも千世が指摘したとおり、かつての大江戸の繁栄は武士階級により支えられていた。なかでも、参勤交代制度により1年ごとの江戸居住が義務づけられた大名と大勢の家臣たちの存在は大きかった。

諸大名の年間経費の半分以上が、江戸屋敷で大名と家臣が生活物資を消費することで消えたからである。

■干上がる商工業者…倒産、転職、リストラの嵐が吹き荒れる

江戸の消費経済への貢献度は大きかったが、それだけ諸大名の財政には負担となっていた。

そのため、文久2年(1862)に入ると参勤交代制度は緩和される。3年に一度の江戸在府とした上、在府期間も1年から100日に短縮することで諸大名の負担を軽くし、その分軍備を充実させようと目論んだ。

欧米列強の脅威に備えさせようとしたわけだが、江戸屋敷の需要に大きく支えられた江戸の消費経済に深刻な影響を与えてしまう。在府期間が短くなれば、それだけ諸大名からの物資や仕事の注文は減らざるを得ない。

江戸屋敷を相手に生計を成り立たせていた商人や職人たちは、たちまち干上がる。いわば倒産や転職、あるいはリストラの嵐が吹き荒れる。

江戸は不景気のどん底に陥り、そのまま幕府の終焉(しゅうえん)を迎えた。参勤交代制の緩和を機に大名や家臣たちの大半は帰国し、広大な江戸屋敷は放置されていく。彼らが江戸に戻ることはなかったが、その状態が明治に入っても続いたのである。

明治に入ると、そんな大名屋敷の大半は取り上げられる。さらに、政府に仕える意思のない幕臣の屋敷も没収されるが、その管理は行き届かなかった。放置された結果、荒れ果てていく。

こうした状況が克服されるには、廃藩置県を経て中央集権化が進行し、人口が再び増加するときを待たなければならない。だが、千世が見た東京はその段階にはまだ達しておらず、荒廃したままであった。

■東京は草原になった

山川菊栄の父延寿も、維新直後の東京を次のとおり書き残している。

旗本屋敷が立ち並んでいた九段坂界隈は住む主を失って麦畑や野菜畑に変じ、雉子(きじ)の声がきこえるばかり。瓦、小石、馬や犬の糞、土くれがうず高く道を埋めていた。新橋界隈まで立ち並んでいた豪勢な大名屋敷にしても今は瓦がおち、練塀(ねりべい)がはげ、棟は朽ち、青草が茂るばかりだった(『おんな二代の記』の記述を要約)。

当時は管理する者もおらず、放置された状態だったことが改めて確認できるだろう。

江戸の地図
写真=iStock.com/tupikov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tupikov

延寿は山頂から江戸の3分の1が見渡せると喧伝された愛宕山に登っているが、そのときの感想を以下のように述べている。

かつては、人家が見渡す限り立錐(りっすい)の余地がないほど建て込んだ江戸の町が遠望できたが、今は至るところに草の茂った空地が緑の毛氈(もうせん)を広げたように見える状態だった。そこへ、ある老人がやってきて辺りを歩きまわり、今昔の感に堪えないかのように、「ああこれではまるで草原だ。いつになったら昔のお江戸の繁昌が見られることかなあ」と語った(『おんな二代の記』の記述を要約)。

大名屋敷や旗本屋敷だけでなく、陸続として続いた民家も取り壊されたものが多かった。江戸の繁栄を知っている者からすると、草原になってしまったと嘆じざるを得なかった。

知られざる明治初年の東京の真実の姿についての貴重な証言である。

■明治維新の直後、東京の土地は驚くほど安かった

東京の70%を占めた武家地の大半を没収した明治政府は、広大な大名屋敷を官庁の用地や軍用地などに転用する一方で、幕臣の屋敷を官吏に住居として与えたが、それでもなお余った土地は多かった。

というよりも、有り余っていた。管理し切れずに放置された土地は荒れ果て、あたかも草原と化した場所もあちこちにあった。

こうした現状を打開するため、政府は桑や茶を植えたいと希望する者に余剰の土地を払い下げる。荒廃した東京の武家地を桑畑や茶畑に生まれ変わらせることで生糸や茶の生産(輸出)を増やし、国を富ませようという一石二鳥の目論見が込められていたが、失敗に終わる。

牛乳の需要増加を見据え、同じく殖産興業の一環として牧場に変身した土地も少なくなかったが、桑茶政策の失敗により、荒廃した土地が減ることはなかった。

そのため、土地の需給バランスが崩れた東京では地価が暴落する。当時の経済不況が追い打ちをかけた格好だが、その結果、現在ではとても信じられない事態も起きていた。

後に総理大臣となる大隈重信の下で改進党や東京専門学校(現早稲田大学)の創設に関与し、衆議院議員も務めた市島謙吉(けんきち)は当時の土地事情を次のように証言する。

旧幕府時代は各藩が江戸に参勤交代したため、大江戸八百八町は繁栄したが、今や東京は空虚となった。非常に荒廃して人心も兢々、帝都の前途もどうかと危ぶまれるばかりであった。それゆえ土地などは、ほとんど無代価に等しかった。「土一升、金一升」といわれた大江戸の土地も同様で、買う者はいなかった(市島謙吉「明治初年の土地問題」『史話明治初年』の記述を要約)。

需給バランスが崩れたことで東京の地価が暴落し、買い手が付かないほどだった実情が語られている。「土一升、金一升」とは1升の土を買うには同量の金が必要というように、土地の値段が非常に高いことを意味するフレーズで、東京では日本橋などの一等地を指した。そんな東京の一等地でさえ、当時は地価が非常に安かった。

日本風の門と桜
写真=iStock.com/CHENG FENG CHIANG
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/CHENG FENG CHIANG

■一等地でも現在の価格で1坪200~300円

危機感を強めた政府は三井家などの豪商に、その管理を押しつける。当時、三井家は政府の御用を請け負っており、その要請を断われない立場にあった。政府御用達(ごようたし)、いわゆる政商である。

押しつけられた豪商にしてみれば迷惑この上なかったが、渋々払い下げ願を提出して受け取った。払い下げられた地所には板で囲いをすることが義務づけられたものの、何もせず放置した。その費用を下回るほど、地価が安かったからである。

当時は、土蔵と門構え付きの土地が1坪で2銭5厘だった。現在の貨幣価値に換算すると、1坪で200~300円ぐらいだろうが、それでも当時は高いとされた。

高級官吏となると数千坪レベルの広大な土地を住居として与えられた。大隈重信などは築地にあった旗本戸川(とがわ)安宅(やすいえ)の屋敷約5000坪を下賜され、後に「築地の梁山泊(りょうざんぱく)」と俗称される屋敷となる。

土地があまりに広大で管理が煩わしかったことから、耐え兼ねて政府に返上する事例も相次いだ。ところが、後に需給バランスが逆転すると、地価は一転上昇する。厄介物だった土地は巨大な資産に生まれ変わった(市島謙吉「明治初年の土地問題」『史話明治初年』)。

廃藩置県後、しばらく経過するとようやく社会が安定し、人口は増加傾向に転じる。江戸改め東京が往時の繁栄を取り戻しはじめたのだ。その結果、逆に土地の需要が供給に追いつかなくなり、地価は上昇していく。

政府が没収した土地つまり官有地の払い下げを求める動きも激しさを増した。政商たちなどは払い下げの対象になることから逃げ回っていたが、逆に払い下げを強く求めるようになる。地価の上昇に拍車をかける要因となったのは言うまでもない。

こうして、日本橋に象徴される東京の一等地の地価は再び「土一升、金一升」の状態に戻ったのである。

■広大な一等地を格安で手に入れた福沢諭吉

東京では地価の上昇を受け、政府に没収された大名屋敷や幕臣屋敷の争奪戦がはじまる。そうしたなか誕生したのが現在の慶應義塾大学の三田キャンパスであることは、ほとんど知られていないに違いない。

福沢諭吉
福沢諭吉(出所=国立国会図書館ウェブサイト「近代日本人の肖像」)

豊前(ぶぜん)中津(なかつ)藩の下級藩士の家に生まれた福沢諭吉は江戸に出て、同藩の鉄砲洲(てっぽうず)中屋敷内に塾を開く。その語学能力が評価されて幕臣に取り立てられたのち、慶応3年(1867)12月に芝(しば)新銭座(しんせんざ)の久留米藩有馬家の中屋敷を購入し、住居兼塾舎とした。

この地に塾を移転したのは、翌4年(1868)4月である。時の元号に因(ちな)んで塾の名を慶応義塾と名付けたことは有名だろう。

明治4年(1871)3月、慶応義塾は肥前島原藩松平家が三田に持っていた中屋敷に移転する。維新後、この三田中屋敷は政府に没収されたが、政府や東京府にパイプを持つ福沢が拝借したいと運動した結果、前年の11月にその願いが許可された。

この土地が高所にあって湿気が少なく、海浜の眺望がよかったことに目をつけ、新たな住居兼塾舎としようとしたのである。

■慶應義塾大学が「東京都港区三田」にあるワケ

福沢の拝借地となった三田中屋敷は、1万1856坪という規模だった。新銭座の時と比べると塾の敷地は30倍にもなった。ただ、拝借地である以上、政府の都合により、いつ取り上げられるかわからなかった。

そんななか、福沢の耳にある情報が入る。東京市中の拝借地を拝借人もしくは縁故ある者に払い下げるとの政府の方針を、事前に知ったのである。廃藩置県後の明治5年(1872)のことだった。

拝借地から私有地への切り替えを秘かに狙っていた福沢は、すぐに行動した。東京府の担当課長の自宅を訪ね、拝借地払い下げの方針が公示されたときはすぐ知らせて欲しいと依頼する。

数日後、公示された旨の連絡が担当課長から入ったため、翌朝、福沢は代理人を東京府庁に出頭させた。昨日の今日であるため、出願者がいなかったどころか、払い下げを希望する者や地所を記帳する書類なども、東京府側はまだ用意できていなかった。

福沢は先を越されてはたまらないと思い、払い下げに伴う上納金だけは今日受け取って欲しいと嘆願させた。こうして、東京府に上納金を受け取らせることに成功する。仮とはいえ、これで払い下げは成立であった。

後日、地所代価収領の本証書が下り、三田の地は福沢の私有地として確定する。附属する土地と合わせて、1万3000坪余を手に入れることに成功した。代価は500円ほどだが、福沢に言わせると無代価に等しい価格だった。

当時の1円は1両とされており、単純計算すれば現代の価値で約500万円となる。1万坪以上の土地を500万円で得たのであるから、福沢が無代価に等しいと思ったのも無理はない。

■持ち主だった島原藩松平家が反撃に出たが…

福沢が払い下げの許可を得ることをこれほどまでに急いだのは理由があった。島原藩松平家がもともとは自分の屋敷だったことを理由に、払い下げを願い出てくるのを危惧したのである。

果たせるかな、福沢の懸念は当たった。その後、松平家が福沢に対して三田中屋敷の譲渡を強く求めてきた。当方にも払い下げを受ける資格があるというのが、松平家の言い分だった。松平家は拝借地払い下げ対象と規定された縁故ある者に他ならない。

廃藩置県により、旧藩主の諸大名は東京在住が義務づけられたため、住居を探さなければならなかったのだ。よって、松平家は三田中屋敷の払い下げを願い出たが、先を越されていたことを知り、直接掛け合ってきたのだ。

安藤優一郎『教科書には載っていない 維新直後の日本』(彩図社)
安藤優一郎『教科書には載っていない 維新直後の日本』(彩図社)

しかし、これを予期していた福沢は次のように返答して突っぱねてしまう。

「島原藩の屋敷だったことなど自分は知らない。東京府からの拝借地を払い下げられただけのことであり、この件は東京府に掛け合って欲しい」

松平家も退かず、地所を折半しようとまで申し出てきたが、福沢は取り合わなかった。結局、松平家は諦めてしまい、福沢の粘り勝ちとなる。

維新直後の混乱のなか、現在の慶応義塾三田キャンパスは誕生したことがわかる貴重なエピソードである(『慶応義塾百年史』上巻、慶応義塾)。

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安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)
歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。

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(歴史家 安藤 優一郎)

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