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うまければ売れるわけじゃない…老舗酒造の9代目が「蔵元の隠し酒」「非売品の酒」を売り出したワケ

プレジデントオンライン / 2022年6月10日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kuppa_rock

商品を売り伸ばすにはなにが大事なのか。渡辺酒造店(岐阜県飛騨市)の9代目・渡邉久憲さんは、経営危機にあった実家を、独自の「エンタメ化経営」で再建した。「蔵元の隠し酒」「非売品の酒」「杜氏のまかない酒」といった刺激的なネーミングはどこから生まれたのか。著書『日本酒がワインを超える日』(クロスメディア・パブリッシング)より、一部を紹介する――。

■杜氏やベテラン社員がいなくなり、社員は次々とうつに

酒類販売業免許の規制緩和が起こって他のエリアでは量販店が進出し、安売りが横行していました。それは業界新聞などのさまざまな媒体で情報としてすでに流れていたんです。いずれはこの飛騨エリアにも波が襲ってくるかもしれない。いや、必ずやってくる。他のエリアで行われていることがこの飛騨エリアで行われない理由がないんですから。

専務になってからの2年間も手をこまねいているうちに減収減益が続きました。売上が2億6000万円台に落ち込んだ2002年にはもう限界を感じており、これで廃業か……というところまで追い込まれました。

付きあいのある銀行も手のひらを返したように冷たくなりました。設備投資した際に借入れした借入金の返済スケジュールを調整したいと相談に行っても聞き入れてくれませんでしたし、運転資金の借り入れも断られ続けました。

また、このころ相次いで、古いベテラン社員も退職していきました。杜氏は病気にかかってしまったために次の年は働けそうにないということになり、別の2人の蔵人は自主退職していきました。

また、社員にはうつ病の人が出てくるようになりました。うつ病というのは、伝染するようなところがあり、1人出たあと、2人、3人とうつの症状を訴える社員が出てきました。手をこまねいている内に、10人いた社員があっという間に半分になってしまいました。

そうして、品質の向上だけでは売上は増えないことを痛感して、味以外のところの改革に乗り出していくことになります。

渡辺酒造店9代目社長の渡邉久憲さん
写真提供=渡辺酒造店
渡辺酒造店9代目社長の渡邉久憲さん - 写真提供=渡辺酒造店

■父の反対を押し切ってモンドセレクションに出品

窮余の一策として考えたのが、お酒の品評会への出品です。第三者からの評価を得ることができれば、品質をPRする格好のネタになるだろうと考えたんです。

父は体裁を考えて、国内でも最も権威のある「全国新酒鑑評会」への出品を望みましたが、私は一般の消費者への訴求として海外のモンドセレクションに出品しようと考えました。

モンドセレクションに出品したいという旨を、社長である父に話したのですが、「そんなものは意味がない」と一蹴されてしまいました。やはり業界で評価の高い全国新酒鑑評会で金賞を獲ってこそ意味があるのだといって聞きません。

「じゃあいいよ、オレはオレでやる!」――そうタンカを切って自腹で出品することにしました。会社の金を使うわけじゃないからいいだろうといって強行したんです。

■地元の名士としての振る舞いとプライド

議論を戦わせても価値観が違いますから、話は平行線です。だったら実績をもって説得するしかない。金賞を獲って新聞にでも掲載してもらえれば、必ず評価してもらえるという確信がありました。

そうして実際に出品して金賞をゲットすることができると、父親がそれはもう喜ぶわけです。「現金だなあ(笑)」と思っていました。

さっそく受賞の事実をメディアに報告し、取材して記事にしてもらうことを考えました。しかし、それについても父から反対されました。父たちの世代では、こちらから新聞社に売り込みをかけるなんてことはするもんじゃない、恥ずかしいことだという感覚があったようです。あくまでも記者のほうからこちらに「取材させてほしい」といってくるもんだというプライドがあったんです。すごい上から目線ですよね。何様だって感じです(笑)。

確かに酒蔵の主人というのは、地元の名士というイメージを持っています。そして代々そうした気風を受け継いできたわけですから、そのように振る舞うわけです。だから、下手に出て「取材してください」とは言い出しにくいんですよね。一度染みついた仕事へ向かう姿勢というものは、なかなか抜けきれないもののようです。

■「お客さんの顔が見える酒造り」を目指して

モンドセレクションの金賞を獲得したことで、地元で街を歩いていると、おめでとうと声をかけられるようになりました。

たぶん、その人はうちのお酒を飲んでいてくれているからそう言ってくれるのでしょう。「ああ、こういう人たちがうちのお酒を飲んでくれていたんだな」と気づきました。お客さんの顔が見えるっていいなと思えたんです。

自分のことのように喜んでいるお客さんを見て初めて、「こういうお客さんのためにいいお酒を造らなきゃいけない」と心底感じました。

その時、「お客さんの顔が見える酒造り」という言葉が思い浮かびました。

それまではリベートをよこせとうるさい酒販店や問屋の顔しか見ていなかった。実際に飲んでいるお客さんのことが見えていなかったんだと気づきました。

追い込まれて、「リベートばかり要求してくる酒販店や問屋を相手にしていたら共倒れになってしまう、もう自分たちで売るしかない」と思うようになっていきました。

どうせ売るんだったら、喜んでくれるお客さんに直接売っていきたい。そうだ。「お客さんの笑顔のため」という原点に戻ろう。そう思いました。

闇の中からひとつの光がポッと浮かび上がってきたようでした。

■都会のデパートに挑戦するも、けんもほろろ

そこでまず考えたのが、都会のデパートで売ってもらえないかということでした。さっそく東京都内のデパートに飛び込んで、片っ端からセールスをかけていきました。

ところが、米どころでもない飛騨の日本酒だから相手はぜんぜんピンときていない様子。飛び込みということもあり、まったく相手にされません。

「飛騨の酒ねえ、聞いたことないなあ」。そんな感じです。当時は飛騨地方の酒として唯一知られていたのが「飛騨自慢鬼ころし」だけでしたから無理もありません。

しかしそもそも飛び込みは無謀だということで、次はちゃんと電話でアポイントメントを取ることにしました。それでもほとんどのデパートは門前払いでしたが、唯一、池袋にある某百貨店がようやく会ってくれるということになりました。

午後2時の待ち合わせだったので、早朝から自慢のお酒を持って酒蔵を出て、在来線と新幹線を乗り継いで向かいました。5時間ほどかかってデパートに着き、小さな部屋に通されて待っていたのですが、約束の時間を10分過ぎても、20分過ぎても担当者は現れません。

どうやら約束を忘れられていたようで、30分ほど過ぎてから「ああ、ごめんごめん」と部屋に入ってきて、私の話を聞いて蓬莱を飲むなり、「この味だとウチじゃあ取り扱えないなあ」とけんもほろろ。

■スター銘柄にあって渡辺酒造店に足りないもの

帰りにデパ地下のお酒売り場に置いてある有名な地酒を見てみました。きら星のごとくスター銘柄が並んでいるのを見ながら、「こんちくしょう!」と思わずにはいられませんでした。

「またダメか……」と思いながら新潟のお酒を見ると、雪国をイメージした、デザイナーさんが手がけたような美しいラベルの酒瓶が並んでいました。いまの自分達に足りないものはなんだろうかと考えさせられたり、ラベルのデザインも大事なんだなと思ったり、いろいろな収穫を得て帰ってきた出来事ではありました。

日本の酒
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

岐阜に帰ってからもデパートで売られていた日本酒のことを何度も思い出していました。そうしている内に、やはり新商品が必要だという思いが固まっていきました。

新商品を作って自分で売るしかない。だったらまず足元から見ていこうということで、私たちの地元である飛騨古川を訪れる観光客にお酒を飲んでもらい、感想を聞こうと思いついたんです。

■お客さんと直接つながるために酒蔵見学をはじめる

お客さんからのリアルな味の感想を聞くために、直接の接点を持とうと、まずは街歩きマップを作り、観光がてら私たちの酒蔵に立ち寄ってもらおうと考えました。

酒蔵では、蔵を案内して見学してもらったり、試飲してもらったり、気に入ればお酒を購入してもらったりもしました。購入時にはできるだけ宅配便を利用してもらうことを勧め、名前と住所もどんどんゲットしていきました。また、試飲してアンケートに答えてくれた人には飛騨牛が当たるなどのキャンペーンを行って、これまた名前と住所を獲得していきました。そして、そのお客さんリストの住所にお礼の手紙とチラシをダイレクトメールで送っていきました。

こんなこともありました。

店頭でお客さんに様々なお酒を利き酒してもらいながら、お客さんの好みを勉強していた時のことです。あるお客さんに、「どういうお酒がお好みですか?」と聞くと、「すっきり辛口がいい」と言うんですね。

それを聞いて、新潟のお酒に代表されるような、いわゆる淡麗辛口というキーワードが思い浮かんだので、そういう味のお酒と、それ以外の味のお酒を3つ並べ、目隠ししてもらってテイスティングしてもらいました。

飲んでもらったあと、「どれがお好みでしたか?」と聞いたんです。「これです、この酒が好きですね!」といってそのお客さんが指さしたのは、辛口ではなく、どちらかというと味のある、芳醇なタイプの甘口のお酒だったんです。

■「辛口=通」という酒好きの常識から生まれた新商品

お客さんは、「おーうまいな、さすが辛口や」みたいなことをいうのですが、実際は甘口。お客さんの脳を分析してみると、つまりこういうことではないか。

「自分はお酒が好きで、それなりに酒通と思われたい。特に酒蔵の主人を相手にして酒通と思われたい、という時には辛口というキーワードが外せない」

当時、新潟の淡麗辛口全盛時代に、「俺は甘口が好きだ」なんてことは言えなかったわけです。「辛口=通」という図式があったんだと思います。

その時に私は思ったんです。お客さんの建前と本音は別にあるのだと。だったら、自分の自信作が辛口じゃなくても売れるお酒を造ることはできる。極端な話、辛口とラベルにあって中身が甘口でもアリなんだ、お客さんは納得するんだと思いました。

新聞紙で巻いたような包装紙に「本物の辛口」を謳うことにして、「味わいが深い芳醇ななかに、キレがある、これこそが、お米を完全に発酵させた、日本酒の本来の味わい。これが私たちの考える辛口です」という文面とともに、「蔵元の隠し酒」というネーミングで発売することにしました。

一応、辛口と謳っていますから日本酒ビギナーというより、ある程度、飲みなれた人がターゲットですが、リーズナブルな価格設定です。

秘蔵感を演出した渡辺酒造店の「蔵元の隠し酒」
写真提供=渡辺酒造店
秘蔵感を演出した渡辺酒造店の「蔵元の隠し酒」 - 写真提供=渡辺酒造店

■勝ちパターンを生んだ「蔵元の隠し酒」

瓶の上のほうからは、赤い台紙に白抜きで「番外品」と書いた下げ札をかけました。いかにもさらに秘蔵感、限定感を出そうという演出です。「なんだか正規ルートでは手に入らなそうだな」という特別な感じを出したかったんですね。

発売すると、これが売れに売れました。1カ月で3千本が飛ぶように蔵から出ていきました。

隠し酒を中心に、観光客の方にお送りするダイレクトメールからのご注文もどんどん増えていきました。ひとつの勝ちパターンが生まれたと手応えを感じた瞬間でしたね。

蔵元の隠し酒で気分をよくした私たちは、もっと刺激的なネーミングならもっともっと売れるんじゃないかということで、今度は「非売品の酒」を発売することになります(笑)。

サンプルやノベルティなどで「非売品」と書いてあるのを手にすると、ちょっと得した気分になりますよね。そういうのを醸し出すことはできないか、と考えたんです。洋風居酒屋にある「シェフのまかない丼」みたいなものに似ている、不思議な魅力です。

この路線はその後、「杜氏のまかない酒」「社外秘の酒」「非効率の酒」「無修正の酒」などと、どんどん先鋭化していくことになります。「○○の酒」とつけるのがクセになってしまっていましたが、それぞれそれなりの売上がありました。ひとつの勝ちパターンができたら、徹底的にやってみるべきなのかもしれません。

■念願の「世界酒蔵ランキング第1位」を獲得

前述したモンドセレクションの受賞をきっかけに、その後もコンテストへの出品は続けており、毎年、日本、アジア、中国、ヨーロッパ、アメリカといった世界の18大会にエントリーをして、毎年50以上の賞を獲得しています。

そのなかでもいちばん影響力を持つのが前述の「IWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)」ですね。2020年には2度目の「グレートバリュー・チャンピオン・サケ」を獲得しています。この賞を2回獲っているのは渡辺酒造店だけです。

それらの集大成が、2020年の「世界酒蔵ランキング第1位」という結果に繋がりました。世界酒蔵ランキングは、日本を含めた世界の代表的なコンテストの受賞率をポイント化して、その総合得点によってランキング化したものです。「世界酒蔵ランキング第1位」はいわば、年間グランドチャンピオンということです。

このコンテストは2019年から始まったもので、その時は2位。2020年に念願の1位を獲得したというわけです。

これには社内も沸き立ちましたね。「世界で第1位の酒蔵なんだから、給料も業界第1位にしてよ、社長!」といった声もありましたが(笑)。そこで2021年は基本給と昇給の見直しをしていずれもベースアップしていますので、現在は社員の報酬としても業界トップクラスのレベルになっているはずです。

■明治3年から続く渡辺酒造店の守るべき伝統

ここまで読んでくださった皆さんの印象としては、私は日本酒という伝統産業の破壊者のように映るかもしれません。

でも、私はむやみやたらに破壊しているわけではありません。守るべき伝統とそうでない伝統というものがあり、そこはわきまえているつもりです。

守るべき伝統とは、まずは先人の知恵です。

我が家には渡辺酒造店の代々の主人が残してきた日誌があります。明治3年、渡邉家の5代目久右衛門章が生糸の商いで京都に行った時、口にした酒のうまさが忘れられず、自ら手掛けて「蓬莱」を生んだのが渡邉家の酒造りのはじまりでした。

いついつこんな仕込みをした、こんな作業をしたといったことが書かれている、酒造りの記録ともいえるのがこの日誌です。

5代目渡邉久右衛門章が書いた日誌の、明治37年6月の記述に目が留まったことがありました。

渡辺酒造店のある飛騨市古川町に大火が発生したことが書いてあったんです。それによると「酒蔵が全焼した」「婦女子は近くのお寺に避難した」「自分は小学校でしばらく仕事をした」などと詳細に記録が残されていました。そしてその年の11月には蔵を再建して酒造りを始めたという記述を見た時は驚きました。

すべてを失ってから5カ月で酒造りを再開できるなんて、昔の人は本当に強い。明治37年といえば日露戦争がはじまるという頃。開国から50年と経っていないのに欧米列強の一角であるロシアを打倒したわけで、日本人がもっともバイタリティに満ち溢れていた時代と言えるかもしれません。その後も、日本でチフスが流行して、特に関西は大打撃を受けたことや、飛騨地方でもねずみ狩りをしたといった記述も見られました。

■昔の困難を考えるとコロナ禍も経営危機も大したことない

日誌を読んでいると、いまも昔も困難はあるのだなとわかります。日誌には事実が記されているだけで、その時にどんな気持ちだったかは書かれていません。しかし、その後の行動を見れば、どんな思いで仕事をしていたかは想像がつきます。きっと歯をくいしばって、なにくそと思っていたに違いありません。

渡邉久憲『日本酒がワインを超える日』(クロスメディア・パブリッシング)
渡邉久憲『日本酒がワインを超える日』(クロスメディア・パブリッシング)

そんな不屈の精神を垣間見ると、コロナ禍や以前の経営危機など、大したことはないと奮い立たされる気持ちになるんです。

そういう先人の志を自分が繋いでいかなければならないという思いがあります。

私が思うのは、家業が危機の時ほど、創業者の遺伝子が発動するのだということです。苦しい時ほど先人の言葉が浮かびあがってくるんです。

特にコロナ禍でもへこたれなかったのは、先人の日誌を読んだことで彼の気概が私に乗り移っていたのかもしれないと思うんです。

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渡邉 久憲(わたなべ・ひさのり)
渡辺酒造店社長
1968年岐阜県飛騨市生まれ。薄井商店、賀茂泉酒造での酒造り修業を経て、1998年に家業である渡辺酒造店に入社。2002年に酒類販売規制緩和のあおりを受けて年商3分の1減。経営危機に陥るも、「Sake is Entertainment」を哲学とした独自の「エンタメ化経営」で再建。売上高が30年間右肩下がりの日本酒業界において、17年間連続で増収増益、年商4倍を達成。国内で唯一、「IWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)」において「グレートバリュー・チャンピオン・サケ」を2016年と2020年の計2回受賞した。著書に『日本酒がワインを超える日』(クロスメディア・パブリッシング)。

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(渡辺酒造店社長 渡邉 久憲)

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