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日本人の舌に合わせたらここまで売れなかった…マイナーだった「グリーンカレー」が定番カレーになった納得の理由

プレジデントオンライン / 2022年12月14日 9時15分

「タイカレー」の名付け親であるヤマモリの三林憲忠会長 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

グリーンカレーに代表されるタイカレーは、インドカレーと並んで高い知名度を持つ。日本でレトルトのタイカレーを最初に発売したのが、醤油醸造メーカーのヤマモリ(三重県桑名市)だ。どうやって日本に広めたのか。ノンフィクション作家の野地秩嘉さんが、「タイカレー」の名付け親である三林憲忠会長に聞いた――。

■タイがとにかく好きすぎる「タイ馬鹿」の人

ヤマモリは1889年(明治22年)、三重県桑名市で創業した味噌、醤油の醸造メーカーだ。売り上げは263億8000万円で、従業員は763人(2022年)。

同社は醤油の製造販売から始めて、袋詰め液体ソース、レトルトのミートソースや釜めしの素などで業容を拡大してきた。同時に複数の国内大手メーカーからの生産委託を受け、地方の食品メーカーとして堅実に成長してきた。

大きな転機は2000年からだ。

タイにある工場で製造したグリーン、レッド、イエローという3種の「タイカレー」を日本で売り出したのである。そして、時間はかかったがタイカレーはヒット商品になった。当初、なかなか扱ってくれるスーパーはなかった。だが、「タイ馬鹿」と呼ばれた社長(当時 現会長)、三林憲忠が東奔西走してスーパーを訪ね、バイヤーに頭を下げて試食を勧めた。ヤマモリのタイカレーは少しずつ広まり、今や同社は桑名の調味料メーカーから、タイフードのヤマモリとして知られるようになったのである。

会長の三林は言う。

■バカになって突っ込む情熱が売った

「グリーンカレーをタイでは『ゲーンキャオワーン』と言うんですよ。カレーなんて誰も呼んでません。日本のスーパーに並べようと思った時、ゲーンキャオワーンじゃ誰も買ってくれないでしょう。そこで、僕がタイカレー、グリーンカレーと名付けたんです。それまでタイカレーという言葉は世界のどこにもなかった。ところが、今ではタイの一部の人も、タイカレーと言うようになったのだから……」

三林が命名した同社のタイカレーシリーズは日本の同市場でシェア1位となっている。タイでの事業を着実に育てていき、タイ現地法人の売り上げは2010年からの10年で5倍に伸びた。

タイカレーがヒットしたのにはいくつかの要因がある。だが、最大のそれは“タイ馬鹿”と呼ばれながらも本物のタイカレーの製造販売に命を懸けた三林の情熱だ。情熱で押しまくって、バカになって突っ込んでいったからタイカレーを一般スーパー、コンビニの定番商品にした。利口そうな顔をして「タイではこのゲーンキャオワーンが人々に愛されています」なんて言ったとしても、日本ではウケなかっただろう。

「どうかヤマモリのタイカレーを食べてみてください」と訴え続けたから売れた。

情熱だ。情熱が売った。

そう伝えたら、三林は照れくさそうな顔になった。やっぱり、タイ馬鹿なんだな。

■「ボンカレー」の翌年にはレトルト食品を発売

三林憲忠が父親の跡を継いで社長になったのは1982年、彼は29歳だった。

同社の売り上げを見ると1967年が2億円で82年が100億円。15年で50倍になっている。

三林は「レトルト食品をスタートさせ、拡充したからです」と言った。

「大塚食品の『ボンカレー』が出たのが1968年。日本のレトルト食品の第1号です。翌69年、当社は『釜めしの素』を出しました。大塚食品さんはレトルト殺菌窯を輸入したけれど、うちは自社開発しました。調味料分野から食品分野へ進出したわけです。以後、釜めしの素を皮切りに、ミートソース、パスタソースなどのレトルト食品を作り、販売しました。このレトルトの技術がタイカレーに生きているんです」

タイで仕事を始めたのは彼が社長になって7年目、1988年だった。日清製粉と合弁で缶入りミートソースを生産する工場を建設、製品は日本に輸出した。

1995年、三林は地元タイの大手ビールメーカーのオーナーと懇意になり、醤油工場を建設、日本風味の醤油を売ることになった。買ってくれたのは、まずはタイに進出している日本料理店だった。その後、タイでも人気のあられや焼き鳥の加工用に売れた。日本の醤油は地味ではあるけれど、ヒット商品になったのである。

日清製粉との合弁、日本風味の醤油工場を経て、三林は「次はタイの食文化を日本に伝えたい」と考えるようになった。

ヤマモリのタイカレー・タイフード
撮影=プレジデントオンライン編集部
ヤマモリのタイカレー・タイフード - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■現地の味を、日本人の品質管理と感性で作る

「はい、その通りです。私は一生懸命、日本の食文化の代表である醤油をタイで作って売ってきました。タイで儲(もう)けさせていただいたのです。次は何か恩返しをしなければならん。しからばヤマモリはタイの食文化を正しく日本に伝えるべきと思ったんです。その頃、日本の人たちはタイ料理といえば屋台で食べる丼飯だと思っていた。日本にあったタイ料理屋もそういうところばかりだったんです。

また、私は都内のスーパーへ出かけていってタイ関連の食品を買い集めてみました。そうしたら、現地で作った粉末調味料のミックスみたいなものしかなかった。説明はタイ語だし、包装もよくない。とてもじゃないけど日本のマーケットでは広まらないな、と。味は現地の味そのものでいい。ただし、日本人の品質管理で、日本人の感性で作る。そして、レトルト食品でタイの本物の味を伝えよう。そう思ったのです」

■原料の輸入ではなく、現地生産にこだわる理由

三林がタイカレーを作り始めたのは1999年だった。当初、製造工場は日清製粉と合弁で作ったミートソース工場を使わせてもらった。日本人の開発担当を現地に派遣し、タイの料理学校に通わせた。そうして、一から作り上げたのである。

ヤマモリの三林憲忠会長
撮影=プレジデントオンライン編集部

「私が陣頭指揮を執りました。うちの開発担当は料理学校に通い、生のスパイスやハーブを石臼(うす)で擦って、手作業で現地そのままの味を再現したんです。

現在、当社以外でもタイカレーを出している会社はあります。しかし、輸入した原料で日本の工場で作っているところが多い。しかし、それでは本物のタイカレーの味は出せません。タイカレーの味は生のハーブでないとダメなんです。

例えばインドカレーなら、あれは乾燥スパイスですから輸入原料でもできる。けれどもタイカレーは生のハーブとスパイスがないとダメ。うちのタイカレーには本物の生のコブミカンの葉っぱが入っています。それがないとタイカレーになりません。実は今、日本でも栽培を始めているんですが、タイと日本では気候が違うから同じものにはならない。

大切なことですから、もう一度、言いますが、タイカレーと名付けたのは私です。これは間違いありません」

■バイヤーに「こんなもの食えるか」と言われても…

ヤマモリがタイカレーを売り出したのは2000年だ。グリーン、イエロー、レッドの3種類を出した。しかし、当初はまったくと言っていいくらい売れなかった。

売れなかった理由は知名度がなかったことに尽きる。そして、扱ってくれる小売店も少なかった。

それでも三林は意気軒高だった。自ら販売促進に乗り出したのである。

「最初に買ってくださったのはタイへ行ったことのある若い女性たちでした。彼女たちはタイへ行ってわざわざ日本料理は食べないわけです。現地の安くておいしいものを見つけて食べる。そういう人たちが『ヤマモリのタイフードは現地の味がする』と買ってくれました。

一方、中年の男性たちは食に保守的な人が多く、『タイカレー? なんだそれ』で終わり。

私としては中年男性、つまり、おじさんたちに食べてもらわなければ、いつまでたってもタイカレーはマイナー食品で終わってしまう。そういうわけにはいかない。

あるスーパーに私は売り込みに行ったんですよ。そうしたら、バイヤーさんから『こんな緑の食べ物はいらない』って。こんなもの食えるかって言われてね。

そこで成城石井に行ったんです。出てきたのは30代の若い係長で、その人は『面白い』と言ってくれました。成城石井がまだ数店舗しかなかった頃です。成城石井から始まってクイーンズ伊勢丹、明治屋、紀ノ国屋と、新しいものを認めてくれるところに商談に行きました。私は陣頭指揮でした。うちのセールスマンも行きました」

■本物を知っている人の間でじわじわ広がる

「まあ、それでもすぐにはヒット商品にはならなかった。ただ、日を追うごとに売れていくようになりました。本物を知っている人たちが買ってくれたんです。

例えば商社でタイに駐在していた、と。定年で戻ってきて、ある日奥さんに、『本物のタイ料理を食べたいな。だが、日本ではそんな店は少ないな』と。そういう人がある日、スーパーで当社のグリーンカレーを見つけて買ってみる。食べてみたら、『ママ、あのときの味だ。これからはたまに買って食べようじゃないか』。そういうふうに広まっていった。今は違いますよ。コンビニでもうちが作っているタイカレーを売っていますから」

三林は販売促進もやった。代々木公園で開かれた第1回タイフードフェスティバルにブースを出店した。イトーヨーカドーにも売りに行った。そうして、地道にセールスを重ね、売り上げが上がってきた2004年にはタイに新工場を建設した。工場を経営するサイアムヤマモリ社は日本向けだけでなく、タイ国内やASEAN諸国にも調味料を輸出している。

2005年には名古屋駅に近い納屋橋に本格的タイ料理店「サイアムガーデン」を出店した。今も在東京タイ王国大使館と連携して「タイ料理の夕べ」を開催している。情熱の人である。

■10人中10人に売るよりも「1人で3個」

ヤマモリのタイカレーは3種類で始まったが、ガパオ、パッタイなど汁物以外も増えて、現在、20種類を超えている。加えて、ナンプラー、ココナッツミルクのようなタイの調味料も扱うようになった。情熱はタイカレーだけではなく、タイフード全体に向いている。

薬膳料理研究家 パン・ウェイさん監修「いのちのたねシリーズ」
撮影=プレジデントオンライン編集部
薬膳料理研究家 パン・ウェイさん監修「いのちのたねシリーズ」 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

三林は大声で叫ぶように言った。

「売れるのはグリーンカレーが圧倒的ですよ。それからマッサマンカレー。これは2011年にCNNトラベルが『世界で最も美味しい料理ランキング50』(The world’s 50 best foods)を選出した時、マッサマンカレーを1位に選出したからです。それ以来、ずっと売れてます。

タイカレーは1個、300円の値段をつけました。一般的なカレーのレトルトを見ると、100円台ですよ。それなのに300円の売価をつけたのは10人中の10人に売ろうと思ってないからです。10人のうち1人が『これはいい』と3個買ってくれたらありがたい。そう思って値付けしました。コアなファンをつかむ商品だから、尖ったままの個性にしてある。そうしてうちのタイカレーはマーケットのシェアトップになりました。コアなファンにガッチリと支持されているロングヒット商品です」

■売れること以上に、文化を根付かせたい

「どうしてヒットしたのか? さあ、いろいろやりましたけれど、タイ馬鹿と言われたくらい、のめりこんだからでしょうか。

私はタイカレーのヤマモリと言われるようになって、うれしかったけれど、同時にまだダメだと感じた。俺たちはタイカレーのヤマモリだけじゃダメなんだ。タイフードのヤマモリにならなきゃダメと。

ヤマモリの三林憲忠会長
撮影=プレジデントオンライン編集部

これからは基本調味料をやる。ナンプラーだ。現地の味そのもののナンプラーを作らなきゃいかん。在庫がくるくる回る商品じゃないから儲からないかもしれない。しかし、日本で売っている既存のナンプラーはタイのそれとはまったく違う。

タイ人が食べたら怒るようなものではいけない。タイに申し訳ないし、タイフードのイメージが悪くなる。

私は現地の味そのもののおいしいナンプラーを作って売り出しました。スイートチリソースも始めました。ココナッツミルクも重要。調味料はタイ料理の基本のキみたいなもんですからね。歯を食いしばってでも、われわれがやっていかないと……」

三林の話は終わらない。

彼はヒット商品を作ろうというより、日本にタイフードを根付かせようとしている。

太陽光を凸レンズで集めると瞬時に紙を燃えあがらせることができる。同じように三林は自身の情熱をひとつに集めた、そうしてタイカレーを日本人に広めていった。

ヒット商品を作るにはマーケティング、経営施策、開発陣が必要だ。だが、炎のような情熱がなければ広まることはない。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「ゴッホを巡る旅」を連載中。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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