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7年半の左遷からの逆転劇…日本のビール市場で唯一、複数のメガヒットを飛ばした"ビール業界のジョブズ"

プレジデントオンライン / 2023年1月7日 10時15分

前田仁氏(1998年撮影) - 写真提供=キリンホールディングス

「一番搾り」をはじめ「ハートランド」「淡麗」「氷結」などキリンのヒット商品を世に出した、天才マーケッター・前田仁(ひとし)(1950~2020年)。彼の生涯を『キリンを作った男』という1冊の評伝にまとめたところ、読者から「(前田は)日本のスティーブ・ジョブズ」という声があがった。ともに「カリスマ」と称され、雌伏の期間を経てから誰もが知るヒット商品を連発して返り咲いた“2人の天才”の共通点とは――。

■雌伏の時を経て返り咲いた2人の天才

スティーブ・ジョブズと前田仁――。

かたやアップルを創業してiPhoneはじめ世界的ヒット製品を次々と生み出したIT業界のカリスマ経営者。

一方の前田仁は、ビール業界の雄キリンで「一番搾り」をはじめ「ハートランド」「淡麗」「氷結」などを開発し、数多くのヒット商品を世に出した天才マーケッター。

まったく異なる業界で活躍した2人だが、今なお語り継がれる2人の天才の足跡を振り返ると、いくつもの共通点が見えてくる。

アメリカでは「一番優秀な人は起業し、次に優秀な人は大手企業に就職、一番できの悪いのが公務員になる」とされ、日本では「この逆の並び」などと長年指摘されてきた。1955年生まれのスティーブ・ジョブズは、76年に友人と起業してアップルを創った。

前田は1950年生まれの、いわゆる団塊世代。就活した72年は、大企業を中心に日本が高度経済成長を続けていた時代。大学を卒業した翌73年、三菱系でシェアは6割超の超優良企業だったキリンに入社する。

2人とも、日米それぞれのビジネス文化のなか、“王道”を歩む形で世に出た。

スティーブ・ジョブズ(1955~2011年)は、自身がペプシコから引き抜いたジョン・スカリーにより、アップルを1985年に追われてしまう。直後に、ジョブズは「ネクストコンピューター」を設立。経営が傾いたアップルに、ジョブズが復帰したのは96年12月だった。その後、ジョブズが主導してアップルは息を吹き返していったのは周知のとおりだ。

一方の前田仁は、1990年3月に大ヒット商品「一番搾り」を開発したのに、発売と同時にワイン部に異動させられてしまう。さらにその後、子会社に出向となる。

90年代半ばから、アサヒビールによるキリン猛追が始まる。その結果、97年9月前田は急きょ、商品開発部長として本社に復帰。最年少部長だったが、わずか4カ月の開発期間で、キリン初の発泡酒「淡麗」を商品化しヒットさせる(詳しくは、「突然の子会社への左遷…不遇の7年半を耐えた『キリンの半沢直樹』の痛快すぎる"倍返し"の中身」)。

スケールの違いはあるし、ジョブズが起業家なのに対し前田はあくまでサラリーマンである。が、長期にわたり“雌伏の時”を経て、復帰した会社で誰もが知るヒット商品を連発して返り咲いた、という点で2人は重なる。

■言いたいことは忖度せずストレートに言う

「若くてハンサムだが、この人は強烈なカリスマ性をもっている」

キヤノン電子社長の酒巻久が、ジョブズに初めて会ったのは80年代前半、大田区下丸子のキヤノン本社でだった。先の言葉は、そのとき抱いた第一印象である。ジョブズは、山路敬三(後にキヤノン社長)や酒巻らキヤノン技術陣を前に言い放った。

「プリンターはパソコンの奴隷なのに、大きすぎる。私の本棚には載らない」

天才と呼ばれた男が発した一言で、キヤノンはここからプリンターの小型化に取り組み、そのお陰で今でもプリンター事業を存続させている。

天才、そしてカリスマと呼ばれる人間は、ストレートに言いたいことを言う。忖度をしない。

前田は我が国のビール業界で、複数のメガヒットを飛ばした唯一のマーケッターであり、若い時から一言居士(いちげんこじ)を貫いた。80年代半ばのビールと言えば「キリンラガー」一択だった時代に、「大量生産、大量販売の時代は終わり、心を動かす製品の時代に移る」と主張。ラガーをぶっ潰す目的から、専用グリーンボトルで麦芽100%ビールの「ハートランド」を開発した。

さらに、六本木にはハートランドを提供する直営店「ビアホール・ハートランド」を開設し、初代店長は前田が務めた。

閉店までの約4年間で来場者数は56万人を数えただけではなく、店は世界に向けた文化の発信拠点となる。音楽や演劇、舞踏などのライブイベントが定期的に行われ、絵画は常設展示されていた。

店のオープニングイベントがきっかけで、前田は前衛舞踏家の田中泯と懇意な関係になるなど人脈を広げるが、ビール会社のサラリーマンという枠を超えた存在となっていく。

■「猛獣」ではなく「猛獣使い」だったジョブズ

ジョブズも前田も、優秀な人材をいつも探していた。ジョブズは世界から、前田はキリングループ内から。

「残りの人生も砂糖水を売ることに費やしたいか、それとも世界を変えるチャンスが欲しいか」。ジョブズがこう言って、スカイリーをスカウトしたのはよく知られた逸話だ。

だが、現在のアップルにとって、ジョブズが実行した最も価値の高いスカウティングは、2008年にIBMからジョニー・スルージ(現在はハードウエアテクノロジー担当上級副社長)を引き抜いたことだったろう。

スルージはまずはiPhone用の独自チップ(半導体)を開発する。CPU(中央演算処理装置)やGPU(グラフィックス処理装置)など複数の回路を搭載した「SoC(システム・オン・チップ)」と呼ばれる半導体だ。

iPad、さらにパソコン「Mac(マック)」も20年末から独自半導体を採用。アップルはインテル依存からの脱却をスルージにより果たす。まさに転換点である。

「チップセットの設計は、君にすべてを任せた」と、ジョブズは超高額の報酬を用意しスルージを招請したのだった。

半導体の回路設計には、天才がもつ“ひらめき”が求められる。シリコン基板上に複数の半導体をどう配置し、微細な導線をどう結べば、発熱量を抑えて高効率に高速化できるかをイメージしなければならない。

ジョブズはスルージが天才であるということを見抜き、すべてを任せたことはポイントだった。自分よりも4倍も高い報酬を約束して、その通り支払った。この点は、ニコラ・テスラに賞金の約束を反古にしたエジソンとは違う。

89年、キヤノンは、ジョブズがアップルを追われた直後に設立した「ネクストコンピューター」に1億ドルを出資。キヤノンの役員に昇格したばかりの酒巻は、カリフォルニア州のネクストに“金庫番”として派遣され経営に参画する。一緒に仕事をしてみて、酒巻はジョブズの本質を次のように見た。

「この人は天才エンジニアではない。天才たちを操るのに長けた天才だ。個々の技術、デザイン、プロモーションまでを理解していて、優秀な人を使い全体をまとめられる。いわば、天才インテグレーター(統合者)といえるだろう。一番感心するのは、できもしないことを、さもできそうに訴えるプレゼン力だ」。

猛獣とも評されたジョブズだが、本当は自身が猛獣使いだった。とくに褒め方が巧みで、ジョブズの元に集まった純粋な天才たちを自在に扱っていたそうだ。

■優秀な人材をいつも探していた

前田は一言居士であり、厳しい上司でもあったが、秀吉のような「人たらし」の才を有していた。キリングループ内に張り巡らした情報網から、“これは”という人物をマーケティング部にスカウトしていたのだ。突然の指名に驚く相手もいただろう。

キリンもアサヒも、ビール会社の主流は営業である。営業で高い成果を上げた人が、どちらかと言えば出世は早い。

それでも、新商品開発部門は社内の人気部署である。前田は笑みをたたえながら、ターゲットに近づき面談し、「こいつはできる」と判断したら、「新商品開発の楽しさ」を語って即マーケ部に引き入れる。秀吉が、寺にいた佐吉(石田三成)の才を認めてすぐに連れ帰ったように。

引き入れられた代表的な一人に、佐藤章(現・湖池屋社長)がいた。

佐藤は82年入社。

「僕は群馬で営業をしていて、酒屋さんに僕なりの店頭展示を提案し、販売成績を上げていた。やがて、『面白い奴が群馬におる』とジンさん(前田のこと)の知るところとなり、ジンさんと面談して新商品開発を行うマーケティング部に異動が決まります。つまり、ジンさんが僕を見出したのです。一番搾りが発売された1990年の春でした」(佐藤)

社内的には、社員が希望部署を人事部に伝える「キャリア申告制度」を利用して、佐藤は異動したことになっている。が、「表向きはその通りで、手続き上もそうなっています。しかし、真相はジンさんによる“一本釣り”でした。ジンさんは、優秀なマーケターになりそうな人材がいないか、いつも社内で探していたのです」。

サッポロが強い群馬で高い営業成果を上げていた佐藤は、本社マーケ部に異動する。ところがだ、マーケ部に前田はいなかった。40歳になったばかりの前田は、ワイン部門へと異動させられてしまったから。

伝統的な巨大企業にあって、人事部をスルーしたスカウティングを半ば公然と展開していたほど、前田は特別な存在だった。変化を嫌う保守的な幹部が多かっただけに、目をつけられていたのかも知れない。

■「向かない人材」への配慮

それはともかく、上司と部下の関係にはならなかったものの、前田と佐藤はこの後も通じ合っていく。それぞれの自宅が近い登戸のキリンシティで定期的に会っていた。単純に飲むのではなく、いつも熱い議論を闘わせていたそうだ。

「商品開発には、マーケッターの思い入れが何より大切なんや」と、前田は何度も佐藤に話していたという。「ジンさんのマーケティングへの熱量はすごかった」と佐藤はいま振り返る。

マーケ部に異動した佐藤だったが、新商品の企画が社内で通らず、一時は「出社するのも嫌になった」というほどに苦しむ。だが、ビール文化に触れるためドイツを旅するなどで苦境を乗り越え、プレミアムビールの「ブラウンマイスター」を商品化する。

その後、佐藤はキリンビバレッジに異動し、「ファイア」「生茶」「アミノサプリ」などヒットを連発。16年に湖池屋社長に転じ、翌年「プライドポテト」をヒットさせ湖池屋を上昇気流に乗せる。佐藤は前田が生んだヒットメーカーであり、経営者である。

前田は人事部と結び、01年からマーケッターの社内公募を始める。一本釣りや人事異動ばかりでなく、もっと人を発掘しようと考えたから。第1回公募で入ったなかに、静岡支店にいた土屋義徳がいた。土屋は2005年、第3のビール「のどごし」を開発して大ヒットさせる。

もっとも、すべての人がマーケッターに向くわけではない。

スティーブ・ジョブズは、スルージのような成果を上げた人材を厚遇した反面、できない人は容赦なく解雇した(「即戦力になるような人材なんて存在しない。だから育てるのさ」という言葉をジョブズは残してはいるが)。アップルに限らず、米企業なら一般的な現象だろう。

iPhoneのプレゼンをするスティーブ・ジョブズ(2007年撮影)。
写真=dpa/時事通信フォト
iPhoneのプレゼンをするスティーブ・ジョブズ(2007年撮影)。 - 写真=dpa/時事通信フォト

しかし、長期雇用の日本企業はそうはいかない(日本電産のような事例はあるが)。前田は、自身が“一本釣り”でスカウトした人でも、「マーケッターに向かない」場合、本人の意向を聞いて“次の部署”へと異動させていた。こうした細かな配慮と行動を、前田は続けた。

■二人の天才の“違い”

前田はキリンビバレッジ社長に就任してからも、「昔話では食えない。過去の成功を捨て、新しい価値の創造を常に求めなさい」と語っていた。ジョブズも「次にどんな夢を描けるか、それがいつも重要」と話した。

ジョブズの、「偉大な製品は、情熱的な人々からしか生まれない」は、前田の「思い入れを強く」とも同義だろう。つまり、“モノ作り”の考え方は重なる。

もちろん、違う部分はある。ジョブズはイノベーションによる「プロダクト・アウト」であり、前田はマーケティングによる「マーケット・イン」をモノ作りの基本にしていた。

2人の立ち位置も違う。

ジョブズはアップルの創業者であり、イノベーションをもって、会社も人も成長させていった。「ベルは、電話を発明する前に市場調査などしたか?」、「イノベーションは、研究開発費の額とは関係がない。アップル社がマックを開発したとき、IBMは少なくとも私たちの100倍の金額を研究開発に投じていた」などと、ジョブズは言葉を遺している。

イノベーションこそがアップルの基本であり、純粋な天才たちを束ねるジョブズは、先頭に立って天才と呼ばれ、カリスマである必要があった。

■“朝令朝改”の異才

酒巻はジョブズのモノ作りについて、「デザインへのこだわりは、とにかく凄い。技術者なら誰でも抱く合理的な発想を捨て、デザインを優先できるから」と指摘する。

もっとも、カリスマのジョブズと酒巻は、しばしば対立した。

「こんなデザインでは、コストが見合わない」と酒巻が切り込むと、「こうしなければ、売れないんだ」とジョブズは返す。そんなとき、ジョブズの自尊心を逆(さか)撫(な)でするように、酒巻は彼との面談の約束をあえてすっぽかし、ゴルフに出かけてしまう。

「私との約束を破れるのは合衆国大統領と、数人しかいないのに」

ジョブスは激怒する。ジョブズという人間を見抜いた酒巻がとった作戦だが、しばらく2人は口も利かなくなる。それでも、深い部分では互いを認め合っているため、決して絶縁をしない。やがて、妥協案が浮上し、シスコの寿司屋で手打ちをする流れだったそうだ。

これに対し、前田の場合は伝統企業のなかでの異才だった。いわば、IBMのなかにできたアップルのようなもので、そこからヒット商品を連発させた形だ。

佐藤は言う。

「ジンさんは信念の人であり、例えば開発の方向性は変えない。しかし、朝令暮改でなく“朝令朝改”なほど、方針は柔軟に変えた。『一番搾り』のネーミングにしても、ジンさんは『キリン・ジャパン』という仮の名前を気に入っていた。しかし、消費者調査のスコアが低いと躊躇なく変えた。開発チーム内で自身の考えが否定されても、平気な人でした。自分をも、どこか第三者的に見ることができていた。ジンさんの基準はいつも『お客様がどう見るか』にあったから柔軟だったのでしょう」

永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)
永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)

ビアホール・ハートランドに限らず、前田はいくつかの直営店を出店し、自身や部下が“お客様”と接する場を作っていたのだ。「メーカーは消費者を知らない」(スーパー幹部)という指摘は、前田には当たらない。

また、カリスマと呼ばれた前田は、部下の開発プロジェクトを社内で徹底して守った。

日本のモノ作りは、かつての栄光とは裏腹に、劣勢に甘んじて久しい。イタリアのような「観光立国」に転換していくならともかく、モノ作りの再興を目指すなら、カリスマリーダーが本当は求められるのではないか。複数の会社や組織から優秀な人を集めた共同開発は、時間と金がかかるだけで先に進めない。過去の栄光を捨てられる、強烈なリーダーを擁立できるなら。

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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう傍ら、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社)、『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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(ジャーナリスト 永井 隆)

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