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「世界初の女性騎手」は日本人だった…一度もレースに出場することなく29歳で世を去った斉藤澄子の数奇な運命

プレジデントオンライン / 2023年5月31日 14時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Zocha_K

男性しか騎手になることが許されなかった昭和時代に、女性であることを隠して「世界初の女性騎手」になった日本人がいた。歴史小説家の黒澤はゆまさんの著書『世界史の中のヤバい女たち』(新潮新書)から、斉藤澄子さんのエピソードを紹介しよう――。

■どんな暴れ馬も乗りこなす「馬っこ」少女

1913年(大正2年)1月、岩手県厨川村(現在の盛岡市)の農家に一人の女の子が生まれました。

名を斉藤澄子といいます。

斉藤澄子(大正2年-昭和17年)(写真=Wikimedia Commons)
斉藤澄子氏(大正2年-昭和17年)(写真=Wikimedia Commons)

南部地方でよく見られる母屋と馬屋が一つとなった曲り屋で、人と馬が抱き合うようにして暮らしている一家でした。寝藁をおくるみに、馬の吐息を子守歌代わりに聞いて育った澄子は、自然と「馬っこ」大好きな少女になりました。

妹スケによると、彼女はもう3歳の時には馬に乗っていたといいます。

そんな幼い子がどうやっていたかというと、澄子が「乗るよ」と声をかけると、馬の方から首を下げてきたのだそうです。小さな澄子は、鼻面からヨイショヨイショとよじ登り、それから、背中の方へ器用に「チャッ」と回るのでした。

大人が5人かかっても馴らせない暴れ馬も、澄子が乗ると嘘のようにおとなしくなりました。

「すみは馬の生まれ変わりだ、『馬がすみかすみが馬か』って言われてたんでがんす。まるで馬っこと話ができるみてえでした」

■「年頃になって結婚」で自身の才能を終わらせなかった

細貝さやか『斉藤すみの孤独な戦い』には、妹スケが幼少期の姉のことをそんな風に語っていたことが記されています。こと馬に関してなら、彼女は大人の男にも負けない天才少女だったのです。

澄子の馬好きは、馬喰(ばくろう)でもあった父の存在も大きく影響していましたが、その父は彼女が14歳の時、肺病で亡くなります。母も体が弱く、澄子は学校をやめざるを得なくなりました。

当時、こうした境遇の女の子は、どこか奉公にやられ、年頃になったら適当な結婚相手をあてがわれ、一丁上がりと片付けられるのがお定まりのコースでした。しかし、澄子は「馬がすみかすみが馬か」と謳われた自身の天稟を、そんなことで台無しにしようとはしませんでした。

■男尊女卑の競馬会に胸をさらしで隠して弟子入り

父の馬喰仲間に弟子入りすると、大好きな「馬っこ」と共に暮らす道を選んだのです。

そして、仕事で行った盛岡の黄金(こがね)競馬場で競馬と出会います。

優れた筋肉に恵まれた、選り抜きの美しい馬たちが、広いターフを駆け巡る姿に澄子は魅了されました。そして、それを駆る騎手を見て、

「私もなりたい!」

そう強く願うようになったのです。

といってもまだ競馬学校のような気の利いたものはない時代。騎手になるには、調教師に弟子入りして、男ばかりの兄弟弟子と厩舎に住み込み、怒鳴られたり引っぱたかれたりしながら、体で仕事を覚える他ありません。

おまけに、当時の競馬界は、寝藁を女がまたいだだけで穢れると嫌がられる男尊女卑の世界です。「女は騎手になるべからず」というルールこそありませんでしたが、それは単に誰もそんなことを思いつかなかったからに過ぎないのでした。

幸い、馬喰の親方のつてもあり、福島競馬場の調教師に弟子入りすることになりましたが、その時、師匠は一つの条件を出しました。

「間違いが起きないよう、髪も服装も男になり切ること」

この言いつけを澄子は守り、髪は切ってオールバックに、胸の膨らみはさらしをきつく巻いて隠しました。

医療用包帯を持つ女性の胸
写真=iStock.com/plprod
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/plprod

■兄弟子たちには女であることがすぐにばれたが…

ただ、後に「小柄でポチャポチャとした美人型」と新聞に書かれることになる16歳の娘が性を偽るのは、やはり無理があったようです。

結局、同宿の4人の兄弟子たちにはすぐばれました。

しかし、兄弟子たちは正体がばれても邪険にせず、逆に事情を聞いて感激、澄子を応援してくれるようになりました。

澄子は、現場というか、半径50メートルの範囲だと、男たちの支持、応援を得ているんですね。それは、澄子のどんな雑用でも進んでやる生真面目さ、馬のことだったら誰にも負けない実力、そして、夢にかけるひたむきさに打たれてのことでした。

女であることは公然の秘密となり、周囲の理解も得、まずまずという感じで修業生活を送っていた澄子ですが、不運が襲います。師匠が急病で倒れたのです。厩舎は解散となり、澄子もやむなく故郷の岩手に帰ります。

「……乗馬ズボン履いて、馬に乗って颯爽とこの道を歩いていました。男装でね。私はまだ子供だったけど、カッコいいなあと思って眺めていましたから」

この頃の澄子の姿を覚えていた古老がそう語っています。(吉永みち子『繋がれた夢』)

■抜群の成績をおさめるも「風紀上の問題」で不合格に

澄子にとっては無念の雌伏の時期でしたが、狭い村に住む子供にとっては、外の新鮮な空気をまとい、今とは比べものにならないくらい強いジェンダー規範からも自由に振る舞う澄子は、颯爽と見えたのでしょう。

しかし、発展を続ける競馬界、何より澄子のなかの馬に対する愛情が、彼女を郷里の小さな世界にとどめておくのを許しませんでした。

折しも、1932年4月24日、目黒競馬場で第1回東京優駿大競走、いわゆるダービーが初めて開催されます。1万人の大観衆を迎えての熱い競走の様子を、ラジオで聞いた澄子の胸のなかでまた熱い火が点りました。

澄子は今度は東京競馬場の名調教師・谷栄次郎に弟子入りします。谷も澄子の才能に惚れ込み、熱を入れて指導しました。

その甲斐もあって、澄子の腕はめきめき上達。

1934年、21歳のときには、騎手試験に初めてチャレンジ出来ることになります。

しかし、学科も実技試験も抜群の成績をおさめたのにもかかわらず、結果は不合格。帝国競馬協会が伝えた理由は「風紀上の問題を起こす恐れがある」という理不尽なものでした。

布団をかぶって悔し泣きした澄子は、そんな疑いももたれないくらい男っぽくなろうと、この頃から、キセルで刻み煙草を喫むようになります。

■男装で臨んだ騎手試験でついに合格

翌35年、師匠の谷は澄子を連れて、京都競馬場に厩舎を移しました。より進歩的という評判のあった京都競馬場なら、騎手試験合格の目もあると期待してのことです。

京都に移ってからも、澄子は男装を続けながら研鑽を重ねました。

その姿は痛々しいようでもあり、この頃の澄子と付き合いのあった元調教師はこんな風に証言しています。

「私たち関係者は、すみちゃんが女だと知っていた。それでも彼女は、声も仕草も服装も、男になり切っていたね」(島田明宏『伝説の名ジョッキー』)

しかし、京都競馬場は東京と比べると確かに風通しがよく、幹部のなかにも澄子を応援するものが出ました。

そして、36年3月、23歳の春、ついに澄子は騎手試験に合格します。

日本初どころか世界初の女性騎手誕生に、マスコミは沸き立ち、澄子は一躍話題の人となりました。

新聞に掲載された写真が残っていますが、ハンチング帽を被り、背広にネクタイと男装した澄子は馬の手綱を握り、緊張から唇を初々しくキュッと結んでいます。

「ただ子供の時から好きなことが仕事となつたので辛いとはおもひません。男の人に伍して立派にやつていけるかどうか、兎に角ベストをつくします」

記事のなかでそう語った澄子。彼女には輝かしい未来が待っているはずでした。

■「女性騎手のレース出場はまかりならぬ」

運命が暗転したのは、東京の新聞に「女騎手出現」と見出しがつけられた風刺画が出たことです。「追込みトタンに猛烈なウインク……」というキャプションとともに、ウィンクする澄子と、落馬する男性騎手という戯画が描かれていました。

こうした揶揄をされないようにと、競馬界の門をくぐって7年男装を続けた果てに、受けた愚弄でした。この記事が影響してか、帝国競馬協会から、間近に控えた澄子のデビュー戦に待ったがかかります。

そして、ほどなく農林省から正式な通達が届きました。

「女性騎手のレース出場はまかりならぬ」

ある新聞は、この出来事を、「男女騎手間の風紀問題や恋と勝敗のデリケートな関係等を考慮した結果」と報じました。

デビュー戦を勝利で飾らせてやりたい親心から、調子のよい馬の順番が来るまで、初陣を日延べさせていた谷は、

「あの時、どんな馬でもいいから一度レースに乗せてやればよかったなあと、つくづく思います。一生の思いを満たせてやれたのに……」

と、終生悔やんだといいます。(鵜飼正英『競馬紳士録』)

ただ、同年、全国11の競馬倶楽部と帝国競馬協会が統合して、日本競馬会が新しく設立されました。

旧弊も一掃され、女性騎手のレース出場を認めてくれるかもしれないと、澄子と谷は一縷の望みをかけていたのですが、翌37年、新しい組織が出した新しい規定には以下の一文がありました。

「騎手にありては満19歳以上の男子にして、義務教育を修了したる者とすることを要す」

■出張先の新潟で出会った飯屋の芳江

失意の澄子ですが、谷とともに出張した新潟で一つの出会いをします。

新潟競馬場側の飯屋で働いていた芳江という16歳の少女です。2人は意気投合し、一緒に暮らしたいと望むようになりました。

寺山修司の『競馬放浪記』では、2人の関係を「出来てしまった」と記しており、他にもドロドロの同性愛に陥って馬を捨て駆け落ちした、とゴシップ的に書いているものもあったようです。

しかし、実際に取材で芳江と会った吉永みち子氏は、その際の印象から、当時の彼女のことを「向学心に富んだ利発な少女」と表現しており、ドロドロなどと、揶揄される筋合いのものではなかったようです。

■男であるための煙草が澄子の体を蝕んだ

想像するに、傷心と挫折に打ちのめされていたにもかかわらず、澄子は、新潟の低い空の下に住む少女にとってまばゆい存在だったのではないでしょうか。向学心に富もうが、利発だろうが、いずれ女という限界にぶち当たらざるを得ない時代に、ハンチング帽に背広にネクタイ、煙草をくゆらせながら、荒っぽい競馬界で曲がりなりにも男と伍して生き抜いている澄子は、自由の象徴だったのかもしれません。

芳江のことがきっかけで馬を捨てたというのも嘘で、澄子が終生、騎手としてターフを駆ける夢を捨てていなかったというのは、芳江をはじめとする関係者が口をそろえて、証言していることです。

ただ、芳江との交際を師匠の谷は許すことが出来なかったようで、澄子は京都競馬場を去りました。そして、芳江とともに千葉に移り、今度は中山競馬場で働きます。

しかし、男装しながらの厩舎での過酷な労働、またより男に近づこうと始めた喫煙の悪習は、澄子の体を確実に蝕んでいました。

肺の有毒煙のイラスト.がんまたは病気の概念
写真=iStock.com/Pascal Kiszon
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Pascal Kiszon

■16歳からさらしで潰されつづけた胸

42年8月22日、父と同じ肺病に冒された澄子は芳江に看取られながら、29歳の短い生涯を終えました。

黒澤はゆま『世界史の中のヤバい女たち』(新潮新書)
黒澤はゆま『世界史の中のヤバい女たち』(新潮新書)

吉永みち子氏の『繋がれた夢』によると、この時、同輩の2人の厩務員が病室に駆けつけたのですが、ちょうど湯灌を終え、着物を替えさせる最中だったといいます。

2人の目に、騎手修業をはじめた16の時から、さらしで潰されつづけてきてなお、白く豊かな胸が飛び込みました。無性に悲しくなった厩務員たちは病室を飛び出すと、「斉藤は本当に女だったんだなあ」「やっぱり斉藤は女だったんだ」と泣きながら、厩まで走って帰ったのだそうです。

これが日本人初の女性騎手、斉藤澄子の生涯です。

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黒澤 はゆま(くろさわ・はゆま)
歴史小説家
1979(昭和54)年宮崎県生まれ。著書に『劉邦の宦官』『九度山秘録』『なぜ闘う男は少年が好きなのか』『戦国、まずい飯!』『戦国ラン 手柄は足にあり』などがある。好きなものは酒と猫。作家エージェント、アップルシード・エージェンシー所属。

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(歴史小説家 黒澤 はゆま)

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