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秀吉の「天下分け目の戦い」はここだった…「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を討った秀吉が大興奮したワケ

プレジデントオンライン / 2023年8月6日 18時15分

豊臣秀吉画像(写真=名古屋市秀吉清正記念館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

織田家の一家臣にすぎなかった羽柴秀吉は、なぜ台頭できたのか。戦国史研究家の和田裕弘さんは「賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討ったことが大きい。当時の記録で、秀吉は勝家について『主たる強敵と見てこれを大いに恐れていた』と評している。秀吉にとって賤ヶ岳の戦いこそが、『天下分け目の戦い』であった」という――。

※本稿は、和田裕弘『柴田勝家』(中公新書)の一部を再編集したものです。

■柴田勝家は家中の不和を制しきれなかった

清須会議で長浜城を得た勝家は、丸岡城主で養子の勝豊に長浜城を任せた。秀吉との決戦を想定していたのなら別の選択肢もあったはずだが、よりにもよって勝家は養子勝豊に裏切られてしまう。勝豊は、佐久間盛政が養子の自分を差し置いて勝家に重用されていることを妬み、後継者の地位も実子の権六にすげ替えられた気配があり、勝家から心が離れていたと思しい。

フロイスの書簡によると、勝家に対して「不満を抱いていたので反旗を翻し」たという。また、すでに死病に侵されていたことも大きいだろう。勝家の一族では勝豊だけでなく、柴田勝定も本能寺の変以前に勝家から明智光秀に転仕しており、家中の不和を制しきれなかったのも勝家敗北の遠因の一つかもしれない。

■離反した勝家の養子は、秀吉に手厚く保護された

勝豊は勝家から離反しただけでなく、秀吉方として勝家に敵対したと見られている。勝家に見放されていたと感じていたのかもしれないが、寝返った秀吉側には大いに利用価値があり、手厚く保護された。秀吉は天正11年(1583)3月21日付で当代の名医曲直瀬玄朔(まなせげんさく)に対し、大病を患っている勝豊が上洛するので養父の正盛も含めた医師たちで治療に専念するよう申し付けている。

同日付で本法寺に対しても勝豊が在京中の宿にするので馳走(もてなし)するように指示している。勝家は長浜城を佐久間盛政に与えるつもりだったが、秀吉が古くからの親友である勝豊に与えるように希望したという説もある。死を悟った勝豊は秀吉に越前を平定してほしいと遺言し、秀吉は涙をこらえてその死を惜しんだという。しかし、こうした記述はどこまで信用できるか心許ない。

勝豊の裏切りは時系列で見ていく必要がある。天正10年(1582)12月、長浜城の勝豊は秀吉に人質を差し出して降伏したが、援軍を派遣できない勝家も了承してのことである。この時点での病勢は不明だが、勝家の書状によると、いったん回復した気配もある。(天正11年)閏1月29日付の勝豊宛の書状である。不明な部分もあるが、要約すると次のような内容である。

■柴田勝家が自らの養子に宛てた書状

「今日の夕方午後8時頃、松江に下着した。勝豊からの書状などを披見し、そちらの状況を理解した。心配していた病気が快復に向かっているとのことなので安心した。秀吉勢が出陣してくると聞き及んでいる。こちらも昨日(閏1月28日)から4か国(越中・能登・加賀・越前)の軍勢を動員している。

秀吉軍が長浜城まで遠征して攻囲すれば、好機到来である。一戦して片を付ける。加賀国については、徳山秀現(とこのやまひであき)が今夜、こちらに来て状況を報告する予定である。勝豊、および勝豊の家臣が秀吉に差し出した人質が脱出したことは上出来である。2月3日には出陣する予定である」

■北近江の長浜城は秀吉方に明け渡された

勝家の書状では人質が脱出したように記されているが、秀吉の2月7日付、同9日付の書状を見ると、勝豊の宿老らが「人質七人」を秀吉に差し出してきた、と記している。最初に差し出した人質は脱出したのかもしれないが、改めて家老衆が7人も秀吉に差し出しており、勝豊の意思とは無関係に長浜城が秀吉方になった可能性もある。

ただ、若狭の佐柿に滞在していた丹羽長秀の2月27日付秀吉宛書状によると、勝家軍が進軍してきても、勝豊や堀秀政を配置しているので安心してほしいとしており、勝豊は完全に秀吉方のような書きぶりである。勝豊の罹病に触れつつ、長秀からも使者を派遣して油断のないように厳しく指示しているので安心してほしい、と伝えており、勝豊の周囲は秀吉方の手の者によって固められていたようである。

柴田勝家像 北の庄城址(福井県福井市)
写真=時事通信フォト
柴田勝家像 北の庄城址(福井県福井市) - 写真=時事通信フォト

勝豊の意向がどこまで反映できていたのか不明である。これを裏付けるように、賤ヶ岳の戦いに際しては勝豊の家臣が分裂し、勝家陣営に寝返った者もいる。秀吉の書状(『雑録追加』)によると、勝豊は4月5日時点でも療養のために在京していることが確認できる。死去日は諸説あるが、賤ヶ岳の本戦以前には病没していたようである。

■秀吉から見た柴田勝家の評価

賤ヶ岳の戦いに至る両者の動きを要約するとおおよそ次のようになろう。

賤ヶ岳古戦場(写真=CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)
賤ヶ岳古戦場(写真=CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

秀吉は、丹羽長秀、池田恒興の宿老と謀って、信雄(信長の次男)を織田家督に擁立し、三法師(信長の嫡男信忠の子)を手放さない信孝(信長の三男)を討つ大義名分を得た。長浜城の柴田勝豊を降し、その勢いで岐阜城の信孝も降伏に追い込んだ。和議の条件として、三法師を信孝から差し出させ、信孝の実母と娘、さらに家臣からの人質も取ることに成功した。この間、勝家は雪国の越前でなすすべなく、勝豊の降伏を容認し、信孝の危急にも援軍を出すことができなかった。

秀吉は、機会あるごとに信雄を奉じている姿勢を示し、信雄を隠れ蓑として利用。勝家の背後を衝くため上杉景勝と結び、また、「織田家中」であった徳川家康に対しても信雄を利用して自陣営に引き込む算段を巡らせる。

毛利氏に対しては、領国確定などの和睦交渉を進める一方、東国・東北はすでに秀吉になびいているなどと秀吉一流の大ぼらを吹いて高圧的に自陣営への取り込みを狙い、勝家などは物の数ではないといった口ぶりでもあった。しかし、フロイスの1583年度の年報によると、秀吉は勝家について「主たる強敵と見てこれを大いに恐れていた」と評している。

■秀吉は大風呂敷を広げて外交交渉を行った

秀吉は、美濃の国衆に対しても調略を巡らせ信孝からの離反に成功する。勝家の動きを睨みながら、伊勢の滝川一益の討伐に向かう。前年に降伏した信孝は人質も差し出しており、秀吉は再度の謀叛には至らないと踏んでいた気配がある。一方の信孝は、最後まで叛意を秘匿し、勝家の北近江侵攻に合わせて岐阜城で蜂起する。秀吉が信孝の再度の「謀叛」を知ったのは信孝の蜂起後のようである。

勝家は、上杉景勝への手当は佐々成政に任せ、一益が秀吉軍の攻撃を受けたため予定を早め、北陸の軍勢を率いて北近江に出陣した。秀吉の背後を牽制するため、足利義昭の帰洛を認め、毛利氏に軍事行動を起こすように督促。四国の長宗我部氏とも連携し、高野山や伊賀衆も自陣営に取り込む。外交文書では勝家も強気の文言を並べているが、秀吉ほどの大風呂敷は確認できない。

■信長の息子・信孝が軍勢を動かせなかった理由

滝川一益は、国府城、亀山城、峰城などで頑強に抵抗したが、賤ヶ岳の本戦前に落城。信孝に至ってはこれといった軍事行動が確認できない。それもそのはずで、清須会議で美濃国を得たものの、信孝にとって美濃は疎遠な国である。美濃を得たからといって、美濃の支配者になれるわけではない。美濃の有力な国衆を従えることが重要だが、その時間もその縁もなかった。

和田裕弘『柴田勝家』(中公新書)
和田裕弘『柴田勝家』(中公新書)

若くして北伊勢の神戸家の養子に入り、美濃とはほとんど縁がなかった。そもそも美濃は、織田家にとっても占領地ともいえる国であり、信長や嫡男信忠には従うが、単に信長の息子というだけで信孝に簡単に従うとは思えない。尾張国なら信長の父祖からの地盤もあり、信秀・信長・信忠の3代で築いた権威が後押しをして信孝を盛り立てた可能性があるが、美濃国ではそうはならなかった。

さらに信孝にとって不運だったのは、養子先の神戸侍にとって信孝はよそ者であり、彼らも頼りになる存在ではなかったことだ。秀吉の力量を目の当たりにした神戸侍や美濃の国衆が、秀吉の硬軟織り交ぜた調略に応じるのはごく自然な流れでもあった。名目上の美濃の国主となった信孝だったが、動かせる軍勢は高が知れていた。これでは優勢な秀吉軍に立ち向かうことは不可能であった。

■秀吉にとっての「天下分け目の戦い」

振り返ると、清須会議での織田領国の分配は秀吉にとっては妙を得たものであった。先入観なしに考えると、清須会議は、山崎の戦いに参加した陣営と非参加の陣営との対立だったともいえる。信孝は秀吉陣営だったはずである。他家に養子に入っていたとはいえ、山崎の戦いで名目上の総大将となった信孝が織田家督を相続するのが順当であろう。

世間もそのように見ていた。フロイスの報告にも、秀吉は「三七殿をたいそう重く見ており、庶民は彼が三七殿を父に代わる殿様として擁立するであろうと考えるほどであった」と記している。信孝が尾張と美濃を得て織田家督になってしまえば、秀吉の台頭する余地がなくなってしまう。深読みかもしれないが、信雄に尾張を相続させることで織田家中を二分化するのが目的だったのかもしれない。

秀吉は信雄を伊勢の戦場に引っ張り出したが、万が一、信雄が勝家を討ち取る武功を挙げれば、織田家督に祭り上げたつもりだったものが、名目だけではなく実力も示すことになる。勝家を自らの手で葬ってこそ「天下人」になれると読んでおり、秀吉にとって賤ヶ岳の戦いこそが、天下分け目の戦いであった。勝利後に高揚した秀吉がしたためた書状の文言「日本の治まりはこの時に候」にそれが表れている。

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和田 裕弘(わだ・やすひろ)
戦国史研究家
1962年、奈良県生まれ。織豊期研究会会員。著書に『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』『信長公記―戦国覇者の一級史料』『織田信忠―天下人の嫡男』『天正伊賀の乱』(いずれも中公新書)などがある。

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(戦国史研究家 和田 裕弘)

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