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豊臣秀吉でも上杉景勝でも石田三成でもない…家康が生涯で最も苦しめられた戦国最強の「くせもの武将」【2023編集部セレクション】

プレジデントオンライン / 2024年5月4日 9時15分

歌川国芳画・川中島百勇将戦之内:拾六才初陣真田喜兵衛昌幸〔図版=PD-Art(PD-old-100)/Wikimedia Commons〕

2023年下半期(7月~12月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2023年9月24日)
戦国時代に活躍した真田昌幸とはどんな武将だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「自国の領土と家を守るためなら、主君に歯向かうことも、主君を変えることも厭わないくせものだった。家康は昌幸に翻弄され続け、生涯苦しめられた」という――。

■家康を悩ませ続けた戦国最強の「くせもの武将」

ラストに近い場面で並々ならぬ存在感を示したのは、佐藤浩市が演じる真田昌幸だった。NHK大河ドラマ「どうする家康」の第35回「欲望の怪物」。

天正15年(1587)2月、それまで越後(新潟県)の上杉景勝についていた信濃(長野県)の国衆の真田昌幸は、大坂城の羽柴秀吉の元へ出仕。その際、徳川家康に帰属するように命じられ、同年3月18日、駿府城(静岡県静岡市)に家康を訪れている。ドラマで描かれたのは、そのときの場面だった。

家康重臣の酒井忠次(大森南朋)が「しからば沼田の地を北条に渡してくれますな」と問いかけても、昌幸は黙っている。そして、しばらくして答えた。「徳川殿には幾度も同じことを聞かれ、そのたびに同じお答えをしてまいった。徳川殿は言葉がおわかりにならないのかと」。

家康(松本潤)に「言葉は人並みにわかる。なぜ沼田を渡してくれぬ?」と尋ねられると、昌幸は一つの芝居に打って出た。家康の後ろにある壺を「見事な壺でございますな」とほめると、脇に控える嫡男の信幸(吉村界人)に「この壺をそなたにやろう」という。それをとがめられると、「ご存じであったか、他人のものを他人にやることができないことを。沼田はわれらが切り取ったもの。徳川殿が北条にやることはできませぬ」と言い切った。

この場面は昌幸の言い分をよく表している。だが、「沼田」云々といわれても、一般の視聴者にはわかりにくかったのではないだろうか。そこで、まず「沼田」を巡って昌幸と家康がこじれてきた経緯を以下に説明しよう。

■「沼田」への強いこだわり

昌幸は真田幸綱の三男だったので、最初は武田氏の元へ人質に出され、武田親類衆の武藤家の養子になった。ところが、天正13年(1575)の長篠の合戦で幸綱の嫡男の信綱と次男の昌輝がともに戦死してしまったので、真田家に戻って家督を継いだ。

元来、真田氏の本拠地は信濃の小県(ちいさがた)郡だが、兄の信綱は上野(群馬県)に進出していた。昌幸はそれを継いだうえで、天正10年(1580)にやはり上野の沼田城(群馬県沼田市)を攻略した。要するに、「沼田」は昌幸が「切り取ったもの」で、彼にはそれを守り抜く自負があったのだが、この「沼田」はその後、長く「火種」としてくすぶり続ける。

昌幸が沼田を攻略した直後、織田信長が武田氏を滅ぼすと、上野は信長の重臣の滝川一益に与えられたため、昌幸は沼田を手放さなければならなくなった。ところが、それから3カ月も経たない天正10年6月2日、本能寺の変が起きると、信長による旧武田領の知行割も崩壊。南から家康、東から北条氏、北から上杉氏が攻め入って、滝川一益は本拠地の伊勢(三重県東部)に逃げ帰ってしまう。

昌幸はというと、まずは上野から信濃に侵攻してきた北条氏に出仕し、沼田を回復したのち、手のひらを返して家康についた。ところが、そこで沼田が「火種」になる事件が起きるのである。

沼田城址
沼田城址(写真=Abasaa/PD-self/Wikimedia Commons)

■家康が犯した重大なミス

天正10年10月末、家康と北条氏は和睦を締結し、家康の次女の督(とく)姫が北条氏直に嫁ぐとともに、北条氏の勢力下にあった甲斐(山梨県)の都留郡、信濃の佐久郡と、徳川氏の従属下にある真田氏の沼田領と吾妻領が交換されることになった。

信濃は徳川、上野は北条というかたちにすっきりまとめようとしたのだが、昌幸は、沼田領も吾妻領も自分で切り取ったものだと主張し、いくら家康が勧告しても、決して応じない。

この和睦の際の領土協定では、交換した領土は「手柄次第」とされ、それぞれが自分で統治を実現することになっていたので、北条氏はこののち、たびたび沼田城を攻撃したが、昌幸側は耐え抜いた。

その後、家康は重大なミスを犯している。天正11年(1583)、昌幸は本拠地の信濃国小県郡に上田城(長野県上田市)を築いたが、家康はこの城を上杉氏に対する最前線として機能させるため、築城を全面的に支援した。ところが、天正13年(1585)に家康からあらためて沼田領と吾妻領の引き渡しを求められた昌幸は、ふたたび手のひらを返し、今度は上杉景勝についてしまったのである。

さすがに堪忍袋の緒が切れた家康は、この年の8月に真田攻めを決意。鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らを小県郡に向かわせるが、自分たちが築いてやった上田城を落とせず、逆に城から打って出た真田勢に大敗してしまう(第一次上田合戦)。

■相手が誰であろうと沼田は譲らない

じつは、天正14年(1586)に家康が秀吉に臣従するに際しても、真田昌幸がカギになった。第一次上田合戦ののち、昌幸は上杉氏についたまま秀吉に従属したが、同じ信濃の国衆の小笠原貞慶も徳川氏から離反して秀吉に従った。

柴裕之氏はこれを「真田氏に離叛されたうえ、第一次上田合戦で敗退に見舞われた徳川氏を見て、もはや自身の『領国』を頼むべき存在ではないと判断したうえでの決断だったのだろう」と書く(『徳川家康』)。

つまり、第一次上田合戦の敗戦を受けて家康の領国に動揺が広がり、家康は秀吉に頼るほかなくなった、ということである。ただし、家康も秀吉に臣従する以上は、「火種」を除いておきたい。秀吉は天正14年6月14日、大坂城に出仕した上杉景勝に、家康が出仕したら真田昌幸や小笠原貞慶らを家康の与力とすると伝えたが、黒田基樹氏は「この内容は、家康から要請されたものであったろう」と説く(『徳川家康の最新研究』)。

その後、昌幸がなかなか秀吉に出仕しなかったので、家康は秀吉に真田討伐を申請して承認されている(昌幸が上杉景勝にとりなしを頼んで中止になるが)。

ここまでの経緯をまとめると、平山優氏の以下の表現になる。「真田昌幸は、沼田・吾妻領を決して手放そうとせず、徳川・北条同盟を相手に一歩も退かずに戦い、上杉景勝や秀吉と結んでついにその維持に成功する。この沼田・吾妻領問題こそ、秀吉による天下統一に向けた動きが、もはや動かしがたい現実となった戦国時代の大詰めの時期に積み残された最大の課題となった」(『天正壬午の乱』)。

■昌幸が歴史を変えたといえるワケ

この沼田問題は最終的には、天正16年(1588)8月に北条氏政の弟の氏規が上洛し、北条氏が秀吉に従属する意志を示したことで、解決するはずだった。

天正17年(1589)、秀吉はみずからこの領土問題を裁定し、上野の沼田領と吾妻領に関しては、真田氏が押さえている部分のうち、沼田城を含む3分の2は北条氏に与えられることになった。残り3分の1は真田氏に安堵され、真田氏が放出した領土に相当する替地は家康が補填する、という内容だった。

こうして年末には北条氏政が上洛し、一件落着となるはずだったが、10月末に沼田城代の猪俣邦憲(くにのり)が真田方の名胡桃(なぐるみ)城(群馬県みなかみ町)を攻め落としてしまう。これに秀吉が激怒して北条氏の征伐を決意。翌天正18年(1590)の小田原攻め、北条氏の滅亡、そして家康の関東移封へとつながっていった。

すなわち、いま述べた小田原攻め以降の展開はみな、真田昌幸があるところで妥協していれば、起きなかったことだともいえる。歴史に「もしも」を言い出せばキリがないが、あえていえば、昌幸がこれほど頑固でなければ、家康が関東に移封になることもなく、したがって江戸が関東の中心、ひいては日本の首都になることもなかったかもしれないのである。

だが、昌幸はさらにひとつ、歴史に大きな足跡を残している。

■関ケ原に与えた大きな影響

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦。徳川氏の主力部隊を率いた家康の嫡男の秀忠が遅参し、決戦に間に合わなかったことはよく知られる。それは西軍にくみした真田昌幸が籠る上田城攻めに手間取ったためだった(第二次上田合戦)。

上田城(2016年8月19日)
写真=iStock.com/MasaoTaira
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/MasaoTaira

ただし、これは秀忠を責めるべき話ではない。上田城の攻略は家康と、結果的に関ヶ原の合戦で中心になって戦う秀吉恩顧の武将たちのあいだで了解されていた事柄だと考えられる。西軍の勢力はかなり東とかなり西に分かれていたが、そのなかで上田城は真ん中に位置する。このため「西軍にとって重要な結節点をなしている真田の上田城を攻略しておく必要があった」(笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』)。

だが、徳川軍の主力を率いていた秀忠が遅参した結果、家康はこの天下分け目の戦いを、秀吉恩顧の武将たちを頼り、彼らに頼って戦わざるを得なくなった。

このため戦後、関ヶ原合戦を勝利に導いた東軍の豊臣系大名に、西軍から没収した630万石の80%にあたる520万石余が加増としてあてがうしかなかった。こうして日本全体の3分の2は外様大名が領有することになった。

■歴史を変えた執念

家康はこの状況に不安を抱き、豊臣系大名たちによっていずれ担がれる可能性が否定できない豊臣秀頼を滅ぼすことに執念を燃やし、大坂の陣につながっていく――。そんな歴史のきっかけも、真田昌幸がつくっていたのである。

ところで、関ヶ原合戦で昌幸と次男の信繁(幸村)は西軍にくみしたが、長男の信幸(のちの信之)は東軍に加わった。信幸は正室が徳川四天王の本多忠勝の娘なので東軍に、昌幸は石田三成と縁戚関係にあったので西軍に、と分かれたが、要は、どちらが勝っても真田家が存続するように、父子があえて決別したのだ。

結果、信幸は信濃上田藩、続いて信濃松代藩の初代藩主となり、真田家は明治維新を迎えるまで存続した。

昌幸の恐るべき執念は歴史を変え、その血脈を維持することにもつながったのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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