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「勝家の切腹を見て後学にせよ」真っ先にお市夫人を刺殺し自分の腹を十文字に切った柴田勝家の壮絶な最期

プレジデントオンライン / 2023年8月7日 8時15分

歌川芳藤作「織田信長公清洲城修繕御覧之図」(部分)[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

織田家筆頭と言われる重臣ながら主君亡き後、豊臣秀吉に敗れた柴田勝家。戦国史研究家の和田裕弘さんは「秀吉にとって最大の敵は明智光秀でも徳川家康でもなく、織田家の総司令官・勝家だった。勝家は最期に臨んで清々しい振る舞いを見せ、宣教師のフロイスは『信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人が滅び灰に帰した』と書き残している」という――。

※本稿は、和田裕弘『柴田勝家』(中公新書)の一部を再編集したものです。

■賤ヶ岳の戦いで秀吉に完敗し、勝家一行は北庄城へ敗走

賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家は、北庄城めざして敗走した。おそらく北庄城で再起を図ろうとは思っていなかっただろう。10年前に朝倉軍を追撃したことが脳裏によぎったのではなかったか。前回は勝者側だったが、今度は敗者側である。もはや再起は望めないことは賢明な勝家には重々分かっていたと思われる。朝倉義景の最期を知っているだけに、北庄城で華々しい最後の一戦を飾って幕を下ろすつもりだっただろう。秀吉の書状には勝家は4、5騎で敗走したとあるが、『豊臣記』には近習百余騎を率いて北庄城に馳せ帰ったとあり、これくらいが妥当なところである。

『秀吉事記』などによると、秀吉は合戦翌日、府中に陣を進め、前田利家、徳山秀現、不破河内守らは降伏。本来であれば、攻め殺すべきだが、勝家を討ち果たすことを優先し、赦免したという。秀吉軍と多少の攻防があったとする史料もあり、翌日に和睦したというのもある。

■勝家と組んでいた前田利家は秀吉に降伏し敵側に回る

利家は秀吉軍の攻撃を覚悟していたが、旧知の堀秀政が使者となったこともあり、北庄城攻めの先鋒をすることで降伏が認められた。当初、勝家にも人質の息女を出しており、勝家を裏切ることはできないと拒否したが、人質が脱出(勝家が解放)したという報を得て降伏したとも、勝家と秀吉の間を取り持とうという算段もあり、先鋒を引き受けたとする史料もある。

秀吉軍は、天正11年(1583)4月23日には北庄城に攻め寄せた。北庄城は、勝家が長年かかって築城した城郭であり、留守部隊として三千余人を配置しており、これに敗残兵が加われば敵が勢いを盛り返す恐れがあるため、秀吉は総攻撃を命じ、天守の土居まで攻め寄せた。秀吉昵近の古老衆は勝家の助命を評議したが、勝家を恐れる秀吉は却下し、力攻めを続けた。

■わずか半年前に勝家と再婚したお市は運命を共にすることに

『賎(しず)箇(が)嶽(たけ)記(き)』には、秀吉は北庄城を見下ろすことのできる愛宕山へ布陣して城内を遠望し、老人や女性しかいないなか、旗指物で城を飾り立てるなどの差配を見て、近習の者どもに「武将はかくぞ嗜(たしな)むべきものなり」と勝家を褒めたという。勝家はすでに諦観しており、天守に入り、股肱(ここう)の家臣80余人を集め、最後の酒宴を開き、信長から拝領した天下の名物の道具類を広間から書院に飾り立てた。お市に対しては、信長の妹であり、縁戚も多く、秀吉も丁重に扱ってくれるので落ち延びるように諭した。しかし、お市はそれを拒絶し、ともに自害することを希望した。

自害の前夜に詠んだ辞世の句(読みやすく修正した)は、次のように伝わる。

小谷御方(お市)
 さらぬだにうちぬる程も夏の夜の 夢路をさそふ郭公(ほととぎす)かな

返し(勝家の返歌)
 夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲居に上げよ山郭公

■勝家は福井市にあった北庄城に籠城し、秀吉軍に囲まれる

翌4月24日の午前4時頃、秀吉は、天守に籠る勝家を総攻撃する。『豊臣記』には天守は安土城をしのぐ九重であったとし、「石の柱、鉄の扉」の堅牢さを備えていたと記す。天守周辺には多数の楼閣が立ち並び、廊下で連結させ、天守には精兵300余人が籠城し、弓・鉄炮、長道具(鑓など)をもって大軍の秀吉軍を待ち受けた。

大軍での攻撃が難しいと判断した秀吉は、六具(6種で一揃いの武具)を装備した勇士数百人を選抜し、手鑓と打物(刀剣)だけを携えて天守の内部へ突撃させた。最期を悟った勝家は天守の九重目に登り、秀吉軍に向かって「勝家、唯今腹を切るの条、敵中にも心ある侍は、前後を鎮め見物し、名を九夷八蛮までは相伝うべき由、高声に名乗」った。

4月26日付の秀吉の書状によると、「天守へ取上、妻子以下刺殺、切腹、廿四日辰(たつの)​下(げ)剋(こく)相果候」とある。勝家は天守で妻子らを刺殺し、自らは24日午前9時頃に切腹して果てたということになる。

喜多川歌麿画、柴田修理進勝家と小谷の方(お市)、1803-1804(写真=大英博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
喜多川歌麿画、柴田修理進勝家と小谷の方(お市)、1803-1804(写真=大英博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

秀吉の書状は、時期や相手によって矛盾したことも記している。最も詳しいものの一つが、合戦後ひと月近く経過した5月15日付小早川隆景宛書状である。誇張もあると思うが、当時の雰囲気が出ているので紹介しよう。

■攻め入る秀吉軍に「勝家の切腹の仕方を見て後学にせよ」

北庄城は石垣を高く構築し、天守は九重の高層であり、そこへ勝家は200人ほどで籠城した。城内は狭く、大軍で攻め寄せれば、互いの武器によって手負い・死人がたくさん出ることが予想されるので、精兵を選び、天守へ刀剣のみで突撃させたところ、勝家は日頃から武辺を心掛けている武士だけに、7度まで切って出て戦った。しかし、防御できず、天守の九重目まで上がり、秀吉軍に言葉をかけ、『勝家の切腹の仕方を見て、後学にせよ』と呼びかけた。心ある侍は涙を流し、鎧の袖を濡らし、あたりはひっそり静まり返った。勝家は、妻子をはじめ一族を刺殺。勝家に最も親しい八十人余りの者が切腹し、午後3時頃に全員が死去した。

勝家の最期が手に取るように分かる文面であり、文芸作品のような記述である。

その最期については、フロイスの書簡にも触れられている。

歌川豊宣作「新撰太閤記 柔能勢剛」(部分)出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)
歌川豊宣作「新撰太閤記 柔能勢剛」(部分)[出典=『刀剣ワールド財団』(東建コーポレーション株式会社)]

■秀吉軍は城から陽気な歌声が聞こえてくることに驚いた

彼はすでに60歳になるが、はなはだ勇猛な武将であり、また一生を軍事に費やした人である故、広間に現われると彼に侍していた武士たちに向かって、予がここに入るまで逃れてきたのは武運によるものであって、予が憶病なためではないが、もし予の首が敵に斬られ、予と汝らの妻子や親戚が侮辱を受けるならば、我が柴田の名と家を永久に汚すこととなる故、予はただちに切腹し、この身は敵に発見されぬよう焼かせるであろう。もし汝らに敵の赦しを得る術があるならば、その生命を永らえさせることを予は喜ぶであろう、と簡明に語った。

(中略)城の各部屋と広間にはすでに沢山の藁(わら)を積み、戸や窓もことごとく、堅く閉じ、城を包囲する敵に向けて城内から銃を一発も撃たなかった。城外の兵士らは内からまったく武器の音がせず、陽気な歌声が盛んに聞こえてくることに驚いた。事ここに至って柴田は藁に火薬を撒き、家屋が燃え始めると誰よりも早く信長の姉妹で数カ月前に娶(めと)った妻とその他一族の婦人たちを殺し、続いて短刀で己れの腹を十字に切り、その場で息絶えた。他の武士および彼と共に城内にいた残る人々も皆、同様にまず己れの愛する妻子を殺した。

(中略)羽柴やその他の敵に城内で起こったことを完全に知らせるため、柴田は死ぬ前に諸人から意見を徴した上で、話術に長けた身分ある老女を選び、右の出来事のいっさいを目撃した後、城の裏門から出て敵に事の次第を詳しく語らせた。
こうして、信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人がこの地で滅び灰に帰した。

■60歳前後だった勝家の最期は悲壮だが武将として見事

この老女が勝家の最期を語ったとすれば、信憑性は高いだろう。フロイスも間接的にこの情報を得ていたのかもしれない。女房衆で生き残った者が勝家の最期を伝えたようである。勝家の最期は悲壮だが、見事としかいいようがない。

太田牛一の自筆本『大かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)』は簡潔に次のように記している(意訳)。

柴田勝家は、信長公の家臣の中で隠れなき武辺者である。信長公が平定した大国である越前国の支配を任せられていたのだから、本能寺の変後は、明智光秀に対し弔い合戦をすべきであった。それができなかったのなら、光秀を滅ぼした秀吉を盛り立てるべきであった。それなのに、信孝殿と結んで天下を取ろうとし、能登・加賀・越前の3か国の軍勢を動員して進軍し、秀吉配下の桑山重晴が守る賤ヶ岳を攻撃した。これを聞いて秀吉公は救援に駆けつけ、賤ヶ岳で柴田軍を打ち破った。勝家は北庄城に逃げ延びたが、秀吉軍に攻囲され、最期を悟り、一門・親類30余人が切腹し、天守に火を掛けて焼死した。

■お市の連れ子の三姉妹や勝家の遺児はどうなったのか

お市の連れ子の3人の息女については、富永新六郎を付けて秀吉の陣へ送り届けたとも、老臣の中村宗教が付き添ったともいう。ただし、宗教は辞世を詠んでおり、燃える天守の炎の中へ飛び込んだとも伝わる。三姉妹は一乗谷で保護されたともいう。『当代記』は、乳母(めのと)の才覚によって脱出できたとしているが、お市の息女は3人ではなく、お茶々とお江の2人としている。もうひとりの息女お初はお市の実子ではない可能性もあろう。

長女といわれる茶々(淀殿)は後年、秀吉の後継の豊臣秀頼を生んだのち、勝家の十三回忌となる文禄4年(1595)に「始観浄金大禅定門」(柴田勝家)を供養している(『江州浅井家之霊簿』)。継父だったのは半年ほどに過ぎないが、勝家に対する感謝の思いもあったのだろう。

勝家とお市
柴田勝家が自刃した北庄城の跡にある北庄城址・柴田公園、柴田勝家公・お市の方の像(福井市)(画像=『福井市・柴田神社』​より)

次女といわれるお初は京極高次に嫁したが、京極家の史料には、天正10年(1582)に嫁したように記しているものがある。本能寺の変後、光秀方となった京極高次は秀吉の追及を逃れ、北庄城の勝家を頼って落ち延び、この時、従妹のお初を娶ったという。勝家が京極家を味方に付けるために縁組したと推測する説もある。

■お茶々、お初、お江の3人は生き延び、秀吉の庇護下に

しかし、別の史料には、お初が勝家に庇護されていた「後」に高次に嫁したとしており、前記史料は単に「後」を落としているに過ぎない。天正10年に高次と娶せる必要もなく、状況的にも考えにくい。ちなみに、お初は嫉妬深く、懐妊した侍女(側室)を殺害しようとしたこともあったという。

三女のお江は、小谷城が落城した年に生まれており、小谷城で生まれたとも、身重のお市が岐阜で出産したともいう。佐治信吉(一成)に嫁し(異説あり)、次いで羽柴(豊臣)小吉秀勝に再嫁、さらに秀勝没後は徳川秀忠の正室となり、三代将軍家光らを儲けた(異説あり)。

三姉妹
北庄城址・柴田公園にある茶々、初、江の三姉妹像(福井市)(画像=『福井市・柴田神社』より)

■別行動していた勝家の14歳の嫡男は処刑されてしまった

賤ヶ岳の戦いに従軍していた勝家嫡男の権(ごん)六(ろく)と佐久間盛政は敗戦後、勝家とは別行動となり、山中を逃走していたが、府中の山林で生け捕りになった。『浅野家伝記』によると、権六と盛政は浅野長吉(長政)の手の者が生け捕ったという。『豊臣記』では勝家父子は同陣していたようだが、敗戦の混乱のなか、権六は勝家とは別行動をとったのだろう。権六は勝家の嫡男であり、信長の息女を室としていた。宣教師の記録には「武士並びに民衆がことごとくこの柴田殿の嫡子を深く尊敬している」と評されている。また、信長は女婿の権六に越後国を与える朱印状を発給したともいう。

和田裕弘『柴田勝家』(中公新書)
和田裕弘『柴田勝家』(中公新書)

秀吉は、捕縛した2人を見せしめとして「隣国方々の城」を引き回した上で、権六は佐和山で誅殺(ちゅうさつ)、盛政は敵対の「張本人」として、車に乗せて洛中を引き回し、六条河原で誅殺し、権六の首と合わせて獄門に懸けた。『兼見卿記』天正11年(1583)5月6日条によると、権六は佐和山辺で誅殺され、盛政とともに5月6日には上洛する予定と記し、権六は14歳としている。

伝聞として、盛政は誅殺されたあと、首が京都に運ばれてきたと記している。宇治川のあたりで斬首されたとも、槙島で成敗されたともいう。権六が帯していた青(あお)江(え)の刀は、丹羽長秀から秀吉に進上されたが、長秀の嫡男長重に元服の祝いとして贈られたという。権六の処刑で勝家の嫡流の血統は絶えた。

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和田 裕弘(わだ・やすひろ)
戦国史研究家
1962年、奈良県生まれ。織豊期研究会会員。著書に『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』『信長公記―戦国覇者の一級史料』『織田信忠―天下人の嫡男』『天正伊賀の乱』(いずれも中公新書)などがある。

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(戦国史研究家 和田 裕弘)

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