NHK大河ではまったく描かれなかった…「本能寺の変」で信長政権の象徴・安土城に火を放った犯人の名前
プレジデントオンライン / 2023年8月20日 18時15分
■織田信長が生前に後継者と決めていた息子の名前
本能寺で織田信長(岡田准一)が横死して以後、NHK大河ドラマ「どうする家康」のキーマンの一人になるのが、信長の次男の信雄(浜野謙太)である。ただし、神輿を担がれては転落するという、カリスマだった父とは対照的な残念な道を歩む。
信長の嫡男は、本能寺の変で命を落とした信忠だった。信長は早くから信忠を後継に決め、すでに天正3年(1575)11月には家督を譲り、尾張(愛知県西部)と美濃(岐阜県南部)の統治を任せている(『信長公記』)。だからこそ、明智光秀は信長父子をともに殺したのである。
じつは、信忠は安土城に逃げられたはずだった。その証拠に、信忠の居所の妙覚寺からは水野忠重や鳥居元忠ら多くが脱出できている。ところが、信忠は光秀が京都の出入り口をふさいでいると考えて二条御所に籠り、自刃に追い込まれた(『当代記』)。実際には、光秀はそこまで手を回せていなかった。信忠が逃げていれば、その後、羽柴秀吉が天下をとることはなかったかもしれない。
■「秀吉の主導で三法師を選んだ」はウソ
それはともかく、信長にとっては信忠一択だったので、息子たちのうち父の生前に成人した者は、信雄が伊勢(三重県東部)の北畠氏、信孝が伊勢の神戸氏、信房が美濃(岐阜県南部)岩村(恵那市)の遠山氏、秀信が羽柴秀吉と、みな他家に養子に出されていた。
だから、天正10年(1582)6月27日に、「織田政権」のあらたな枠組みを決めるべく開かれた清須会議でも、信雄や信孝を後継者にするという選択肢はなかったようだ。
江戸時代に書かれた『川角太閤記』などには、清洲会議では信雄と信孝のどちらが家督を継ぐかが話し合われたが、秀吉の主導で、信忠の遺児で数え3歳の三法師が選ばれた、とある。
だが、柴裕之氏は「信長は生前、信忠に織田家の当主を継がせ、さらに天下人の後継者にするという方針を固めていた。(中略)そのため、信長・信忠父子が亡きいま、嫡系の三法師のみが、天下人織田家の正統な家督継承者になりうるという状況にあった」と書く(『織田信長』)。
■「ふつうより知恵が劣っていた」
とはいえ、幼い三法師の名代(家督代行者)は必要で、信雄と信孝のどちらが務めるかが話し合われたが、2人とも自分がやるといって譲らなかった。このため秀吉、柴田勝家、丹羽(惟住)長秀、池田恒興の宿老4人が、談合で「織田政権」を運営することになり(『多聞院日記』)、信忠の遺領は尾張が信雄、美濃が信孝にそれぞれあたえられた。
だが、まもなく、「織田政権」内部で醜い政争が起き、信雄と信孝は激しく対立する。
ところで、信長の遺児のなかで、信孝は人望が厚かったのに対し、信雄は「愚将」で人望に欠けたと伝わる。そのことはイエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスも、信雄がしでかしたという愚行とともに『日本史』(松田毅一・川崎桃太訳)に書いている。
「明智の軍勢が津の国において惨敗を喫したことが安土に報ぜられると、彼が同所に置いていた武将は、たちまち落胆し、安土に放火することもなく、急遽坂本城に退却した。しかしデウスは、信長があれほど自慢にしていた建物の思い出を残さぬため、敵が許したその豪華な建物がそのまま建っていることを許し給わず、そのより明らかなお知恵により、付近にいた信長の子、御本所(信雄)はふつうより知恵が劣っていたので、なんらの理由もなく、彼に邸と城を焼き払うように命じることを嘉し給うた。城の上部がすべて炎に包まれると、彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった」
■誰が安土城に放火したのか
明智光秀が討たれた翌日の6月14日、または15日、織田政権の象徴だった絢爛(けんらん)たる安土城(滋賀県近江八幡市)は炎に包まれた。フロイスは「とうする家康」では描かれなかったこの火災について、「ふつうより知恵が劣っていた」信雄が、「なんの理由もなく」火をつけた、というのである。
一方、江戸時代に書かれた『惟任退治記』や『太閤記』などには、光秀の重臣の明智秀満が、光秀の敗戦を知って安土城から退却する際に城下に火を放ち、城の主要部に延焼したと書かれている。
しかし、滋賀県が平成20年(2008)まで行った発掘調査で、炎上した痕跡は主郭部にしか確認されず、城下から飛び火した可能性は否定された。フロイスにはだれかをかばう必要も信雄を貶める理由もない。「城の上部」が炎上したという記述も発掘調査の結果と重なり、犯人は信雄だと思われる。
■大河ドラマと違い家康は信雄を支持した
人望もある信孝は、そんな信雄を見るにつけ、負けられないと思ったのではないか。清須会議ののち、安土城が修築されるまで三法師は、信孝が入った岐阜城(岐阜県岐阜市)で過ごすことになったが、信孝はそのことを背景に、「織田政権」を主導しようとした。
それを嫌った信雄や秀吉が反発すると、秀吉の台頭を嫌がる柴田勝家が信孝方につき、信孝と勝家、信雄と秀吉という2つの閥の抗争に発展。そこで秀吉は10月28日、クーデターを起こす。丹羽長秀、池田恒興を味方につけ、織田家当主の地位を三法師から信雄に交替させたのである。
神輿は軽い方がいい、と秀吉は考えたのだろう。ちなみに徳川家康は、12月22日付の秀吉宛て書状で信雄の擁立に祝意を表し(『益田孝氏所蔵文書』)、その後も一貫して信雄支持の立場を崩さなかった。
「どうする家康」の第30回「新たなる覇者」(8月6日放送)では、家康が信長の実妹の市が嫁いだ勝家を助けるかどうか煩悶したが、家康は翌天正11年正月17日に信雄と、その領国である尾張に赴いて対面している。これは事実上、信雄に臣従したということで、家康が勝家すなわち信孝側に協力する可能性は皆無だった。
■小牧長久手の戦いのきっかけ
さて、天正10年(1582)11月に信雄は信孝を攻撃。秀吉らも救援して12月に降伏させて三法師を奪還し、天正11年正月に安土城に入城した。その後、3月に柴田勝家が進軍すると、4月に信孝はふたたび挙兵するが、賤ヶ岳の合戦で勝家が敗れると、信雄は岐阜城を攻撃。信孝を降伏させ、5月2日に自害させている。
兄弟が醜く争った結果は、「愚将」の信雄が残るという、秀吉の思うつぼの結果に終わった。織田政権は、信雄を宿老の秀吉が一人で支える新体制になったものの、信雄と三法師は秀吉の指示で、安土城から清須城(愛知県清須市)、坂本城(滋賀県大津市)へとそれぞれ退去させられた。そして、秀吉は大坂城を築いて政権を牛耳るようになり、信雄との関係は、11月ごろには最悪になる。
翌天正12年(1584)3月6日、信雄は秀吉と親交があった3人の重臣を殺害する。家康と連携しての秀吉への宣戦布告だった(『真田家宝物館所蔵文書』)。これを受けて家康はすぐに出陣、13日に清洲城に着き信雄と対面した。小牧・長久手の合戦のはじまりである。
信雄は家康とともに小牧山城に入城。軍勢は秀吉方が圧倒的に上回ったが、4月9日、家康方は秀吉方の別動隊を撃破し、池田恒興と元助の父子、森長可を討ちとるなど、壊滅的な打撃をあたえている。
■秀吉に追放されたワケ
その後は一進一退の攻防が繰り広げられたが、次第に圧倒的な兵力を擁する秀吉が有利な情勢になった。すかさず秀吉は、信雄の本城である伊勢(三重県東部)の長島城を攻撃する構えを見せると、信雄はみずから秀吉の陣に出向いて和睦してしまう。こうなると家康にも戦いを続ける理由はなく、和睦にいたった。とはいえ、信雄も家康も秀吉に人質として実子を差し出すなど、秀吉への降伏に近い和睦だった。
それにしても、信雄はすぐに怖気づいて降参するなど、当時の武将としては矜持に欠けるが、それが秀吉には好都合だった。和睦の結果、信雄の所領は伊賀(三重県西部)と南伊勢を削られて尾張と北伊勢に限定され、秀吉は信雄との主従関係を逆転させることに成功したのである。
そして、天正18年(1590)の小田原の役後、ついに信雄は改易、追放される。それについて、フロイスが『日本史』に次のように書いている。
「関白は信長の息子御本所(信雄)に対しても、国替えをして他の二カ国を与えたいと伝えた。これにつき信雄は異議を唱え、従来の領国伊勢、尾張は父が残したものであって満足しているので、もとのままにしておいてもらいたい、と願い出た。関白はこの返答に接して激怒し、彼が領国を持つことを禁じ、一人の草履取りだけしか家来として伴うことを許さず、ただちにその領国を没収した」
関東に移封になった家康の旧領に移るように秀吉に命じられた信雄は、秀吉の逆鱗(げきりん)に触れて下野(栃木県)追放されたのである。フロイスは、秀吉のこの処置について「万人に驚愕の念を生じせしめずにはおかなかった」と記している。
■プライドの低さで大名に
だが、「愚将」で矜持に欠けるからこそ、信雄は生き延びることができたともいえる。
その後、信雄は出家して常真を名乗り、下野に続いて出羽(秋田県)、伊予(愛媛県)へと流されるが、おそらくは、信雄の娘が嫡男の秀忠に嫁いでいた家康のとりなしで赦免され、秀吉の御伽衆、すなわち近くに侍って世話する役に加わった。織田家の面々は悲惨な最期を迎えた例が多いが、このプライドの低さが身を助けたといえよう。
その際、自身は大和(奈良県)に1万8000石、嫡男の秀雄は越前(福井県)に5万石を得たが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際、どちらにつくか躊躇しているうちに、西軍との関係を疑われ秀雄とともにふたたび改易された。
戦後、豊臣秀頼の庇護を受け大坂で暮らすが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣の前に徳川方に協力したため、豊臣氏の滅亡後、家康と久しぶりに会見し、大和、下野に5万石を得た。
以後、寛永5年(1628)に73歳で没するまで、茶の湯や鷹狩りを楽しむ悠々自適の余生を送った。また、四男の信良の系統は出羽の天童藩主、五男の高長の系統は丹波(京都府中部、北部、兵庫県北東部)の柏原藩主として、それぞれ明治維新を迎えている。
信長の家系で江戸時代に大名として存続したのは信雄の系統だけだった。凡庸で、野心はあってもプライドがない。織田家では特殊ともいえる「愚将」だから、織田の血筋を残すことができた。歴史の皮肉である。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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