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日本に対する「海外からの反応」は驚くほど変わってしまった…岸田首相と安倍元首相の「決定的な違い」

プレジデントオンライン / 2023年9月20日 9時15分

岩田明子氏 - 撮影=門間新弥

安倍晋三元首相が亡くなって1年を超える月日が流れた。安倍氏はどんな政治家だったのか。新著『安倍晋三実録』(文藝春秋)を書いた政治外交ジャーナリストの岩田明子さんは「安倍元首相はリアリストだった。たとえば『日本を守る』という最終目的のために緊密な日米関係を築く一方、中国やロシアなどあらゆる国との関係を深めた」という――。

■議論の過程が見えない岸田政権

今年6月に上梓した『安倍晋三実録』は多くの反響があり、いただいた感想の中には「食事も忘れて一気に読んだ」といった声もありました。また、「安倍外交の真髄を知ることができた」と、特に外交の舞台裏について書いた部分を高く評価してくださる方もいます。

清和会の若手議員の一人からは「自分たちが安倍外交を引き継がなくてはいけないと思いを新たにした」とメールを頂戴しました。他方で、「われわれは理念に走りがちだけど、安倍さんのリアリストの面をもっと学ばなくてはいけないと思った」と話された議員の方もいました。重要な指摘だと思います。

ここ最近、率直に感じるのは、国際社会における日本の存在感の低下です。というのも、安倍政権の頃は、海外の新聞に“PM Shinzo Abe”とか“Japan”という文字を毎日のように目にしましたが、現在は“Japan”も“PM Kishida”もあまり見かけません。

内閣支持率の低下も気になります。異次元の少子化対策、防衛費倍増の財源など、結論は明確なのに、そこに至る丁寧な議論の過程が私たち国民に見えてこないことが原因かと思います。

物価上昇や、建築、救急車などでの人手不足問題など、社会機能の低下が肌で感じられるのに、政治が解決すべき国民生活に直結する課題は山積みのままです。

■安倍氏が岸田政権について語ったこと

第2次安倍政権(2012年12月~2020年9月)もゴールが見えてきた頃、安倍さんが後継となる首相について、電話で口にした一言が印象に残っています。

「安倍政権は、波風を立てながら、物事を前に進めていく、毒気の強い政権だったといえる。もしも岸田さんが総理になったら、少しほっとする感じの政権になるかもしれないね」

2021年9月、岸田政権がスタートすると内閣支持率は上昇、その後しばらく高支持率が続いていました。

安倍さんは「ご祝儀相場とはいえ、岸田さんの人徳なのかな」と不思議そうに話していました。

岸田総理は、総理に就任する前年、お母さまを亡くされています。「人が亡くなるときは、その人にとって大切な人の苦労も持って行く、という話を聞いたことがある。助けられた時こそ、徳をもって、謙虚に努めなければならないね」と安倍さんは話していました。

こうした類の言葉は、第2次政権がスタートした頃から、安倍さんの口から出てくるようになりました。「ポストや権力は天からの預かりもの」とまるで自戒するかのように、よく語っていました。岸田さんについても、謙虚さと「聞く耳」を忘れてはいけないと心配したのだと思います。

第1次安倍政権(2006年10月~2007年9月)の頃は、安倍さんは“政界のプリンス”であり、若くしてトップに登りつめたと自負している印象がありました。ところが2007年に潰瘍性大腸炎の悪化で総理大臣を辞任。“雌伏の5年間”を経験してからは、まるで別人のように変貌を遂げました。

■「つっけんどんな安倍さん」に食い込むまで

『安倍晋三実録』では、私が安倍さんとの距離を縮めていくプロセスが「仕事の参考になった」という感想もいただきました。

官房副長官だった安倍さんの番記者になったのは2002年のことです。当時の安倍さんは「掴みどころのない政治家」という印象で、対峙してもこちらを一瞥するだけで多くを語りませんでした。

安倍晋三 内閣官房副長官時代(写真=首相官邸/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)
安倍晋三 内閣官房副長官時代(写真=首相官邸/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)

他社の記者には親しげに話すのに、私にはつっけんどんに早口で話す。ご自宅に電話をかけ、昭恵夫人が取り次ごうとしても、「いないと言って!」と不機嫌そうな声が聞こえてくる。電話に出たときも「何?」と無愛想。1年近く距離が縮まらないことに焦って、上司に「担当を変えてほしい」と直訴したこともありました。

そんな私が安倍さんとの距離を縮めるきっかけになったのは、2003年に清和会(当時は森派)の議員が、政治資金規正法違反などで東京地検特捜部から捜査を受けたときでした。かつて法務省を担当していた経験から、今後の展開について私の“読み筋”を話すと「法務畑が得意分野だったんだね」と興味深そうに耳を傾けていました。

■担当を外れても取材を続けた

それから安倍さんと会話が少しずつ増えるようになり、ご自宅の固定電話から、だんだん携帯電話を鳴らすようになりました。ただ素っ気ない態度は変わらず、電話をかけるたびに緊張していました。

第1次安倍内閣で安倍さんがあっけなく辞任し、雌伏の5年間では、人間的な側面や本音の部分に接する機会が増えました。自民党が下野し、民主党政権が誕生してから、私は安倍さんの担当を外れ、今度は菅直人副総理の担当として、政権を追いかけつつ、番記者のときと変わらず安倍さんに電話をかけ、ご自宅にもせっせと通いました。

安倍さんに限らず、権力の中枢へと階段を上っている政治家は、把握する機密情報が増え、多くの「番記者」が張り付くようになります。そのため口が堅くなり、取材のハードルは上がってしまうのがこの世界の常。一方、権力の座から降りると、ハードルが下がり、アクセスしやすくなる。

首相の間は、対面で会う機会が限られていましたが、第一次政権の退陣直後、珍しく、「サシ」で新橋の居酒屋に行きました。店長のサービスで、白魚の踊り食いが出てきたのを鮮明に覚えています。私が生きた白魚を箸でつまんで口に入れ、もぐもぐと食べると、安倍さんはびっくりしていました。店員さんに自分のお椀を渡して「かわいそうだから生け簀に戻してあげてください」と言ったときは、プリンスらしさを見たような気がしました。

■「維新の党首になっちゃえばいいのに」

当時の私は、安倍さんが5年後に再び総理大臣になるとは想像だにしませんでした。むしろ、復権はないと確信していました。2012年に橋下徹さんや松井一郎さんが安倍さんに新党(日本維新の会)への合流を打診したと聞いたときは、「またとないチャンスでは?」と言ってしまったぐらいです。

自民党総裁室をあいさつに訪れ、安倍晋三総裁(右から2人目)と握手する日本維新の会の橋下徹代表(左)=2012年10月15日、国会内
写真=時事通信フォト
自民党総裁室をあいさつに訪れ、安倍晋三総裁(右から2人目)と握手する日本維新の会の橋下徹代表(左)=2012年10月15日、国会内 - 写真=時事通信フォト

病気が理由とはいえ、1年で総理大臣が交代する事態を招き、2年後には自民党が野党に転落したのですから、安倍さんは大きな十字架を背負ってしまったわけです。

他社の番記者が離れていく中、それでも私が取材を続けたのは、安倍さんが政治家人生を終える最後まで見届けるのが責務だと思ったからです。

■「雌伏の5年間」による安倍氏の変化

安倍さんは雌伏の5年間で、様々な分野の人と会い、政策を練り上げ、人生観や人との接し方など、大きな変化を遂げました。かつてのつっけんどんな態度は消え、誰にでも親しみやすい印象を与えたと思います。取材を受ける場合も、自身の考えを一方的に話すのではなく、記者や質問の背景を知ろうとする姿勢が感じられました。

企業の経営者が集まる会議にもよく顔を出していましたが、ただ出席するだけではなく、一人ひとりのバックグラウンドや政治に求めることを知ろうと、安倍さんからいろいろ質問していました。次に会ったときも、相手の名前やストーリーを忘れておらず、安倍さんから「あれから業績はよくなったの?」などと個別に尋ねる。経営者の皆さんからは「安倍さんが自分の話を覚えていてくれた」という感想をよく耳にしました。

苦しい5年間で、人間としての幅や政治家としての厚みが増したのだと思います。

■旧統一教会について話したこと

安倍さんとの電話は、たいてい夜でした。夕方以降は情報収集タイムと決めていたようで、毎晩のように誰かと会食し、帰宅してから政治家や記者などあちこちに電話する。夜は、情報収集をして世間で何が起きているのかを必死で探ろうとしている感じでした。

撮影=門間新弥

私に電話をかけてくるのはいつも午後10時から午前0時ぐらいの間でした。短いときは10分程度、長ければ1時間前後になることもありました。

初めは政治や外交の話題でも、どんどん脱線して最後は雑談というパターンもありました。日曜の晩にかけてきたから重要な話かと思ったら、大河ドラマの感想や俳優の演技に対する「突っ込み」だったことも……。

また安倍さんも私も無呼吸症候群を患っていましたので、CPAP(治療用具)の操作の仕方を問い合わせてきたり、私の体の調子を尋ねてくることもありました。

安倍さんが凶弾に倒れる前日は二度かかってきました。一度目の電話で、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の話題が出ました。第1次安倍内閣で秘書官を務めた井上義行さんが、旧統一教会の“祝福”を受けたと聞いたので、安倍さんに確認したのです。皮肉なことに、旧統一教会について話すのは初めてのことでした。

嫌な予感がして私はつい語気を強めてどういうことなのかと問うたのですが、安倍さんは声のトーンを下げて「特に問題はないので。大丈夫だから。明日は朝早いから」と電話を切ってしまいました。でも後味が悪かったのでしょう、1時間ほどするとまた電話をかけてきました。今度はいつもの明るい調子で、「予定が急遽変更になり、奈良に応援にはいることになっちゃった」などと話し、電話は切れました。「また明日」という言葉だけが残り、まさか、これが最後の会話になるとは想像すらしていませんでした。

事件の第一報が入った瞬間、私はとっさに安倍さんの携帯電話を鳴らしましたが、つながりませんでした。コールバックを祈りながらスマホを握りしめている時間が、重く、悲しく、とてつもなく長く感じました。

■政治に欠かせない「リアリスト」の顔

この1年あまり、安倍さんについて書いた本が何冊も出版され、雑誌の特集も組まれました。実にさまざまな立場から、安倍さんが語られています。

私は、『安倍晋三実録』では、ファクトを正確に残すことに腐心しました。安倍さんとのやりとりはたくさんありましたが、最高権力に上り詰め、そこから転落し、そして再び挑戦するという劇的な政治家人生を近くでウォッチできたことは、記者冥利に尽きる思いです。安倍さんの残した言葉を記録として残すことが、次世代を担う政治家の指針や、国民の判断材料として活きるのではないかと考えています。

「安倍さんの遺志を継ぐ」と話す政治家のなかには、安倍さんの理念にだけ目を向ける人が少なくありません。

しかし、安倍さんは理念を大切にしながら、リアリストの政治家として、戦略的な視点から実績を重ね、水面下では入念な根回しや議論を進めてきました。この視点を、本書にできるだけ盛り込んだつもりです。

■「保守一辺倒」「リベラル一辺倒」ではない政治

例えば、安倍さんが採った外交戦略「地球儀俯瞰外交」は、日本を守ることが最終目的です。アメリカ一辺倒にならず、緊密な日米関係をうまく使いながら、多くの国と二国間関係を強化しました。さらに日米関係を、日本のためだけでなく、世界のために活用するという発想が安倍外交の特徴です。

岩田明子『安倍晋三実録』(文藝春秋)
岩田明子『安倍晋三実録』(文藝春秋)

日本が中国やロシアなど、多くの国とつながれば、アメリカにも強く出られる。中国に強く出るために、アメリカだけでなく、インドやオーストラリアともつながる。戦略的に日本のプレゼンスを高めていったのです。

だから日米関係、日中関係など、それぞれのシーンで見せる顔が違うのも当然です。最終目的にたどり着くために臨機応変な発想と戦略をとる、というのがリアリズムの政治です。保守一辺倒、リベラル一辺倒ではない政策決定を次々に進めた安倍さんのリアリストの顔。ここはみなさんに伝えたかったことの1つです。

『安倍晋三実録』で、安倍さんについてすべてを書き切ったわけではありません。まだ、書くには早いと思った安倍さんの言葉や外交の舞台裏はいくつもあるので、タイミングを見てお伝えしていきたいと考えています。

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岩田 明子(いわた・あきこ)
政治外交ジャーナリスト
千葉県生まれ。東京大学法学部卒業後、1996年NHKに入局。岡山放送局へ配属。地方記者として岡山県警察や岡山地方検察庁などを担当する。2000年東京放送センター報道局政治部へ異動、官邸記者クラブに所属。2002年当時官房副長官だった安倍晋三元首相の番記者を担当。以来、歴代内閣で首相官邸や外務省を担当しながら、20年以上に渡って安倍元首相を取材。2013年解説委員室へ異動、政治担当の解説委員と政治部の記者職を兼務。2022年7月NHKを退局。ジャーナリストとして報道番組に出演する一方で、月刊誌や専門誌などで執筆活動も続けている。千葉大学客員教授、中京大学客員教授。

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(政治外交ジャーナリスト 岩田 明子 構成=ノンフィクションライター・伊田欣司)

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