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死期が近づいた秀吉は本当に淀君に翻弄され正気を失っていたのか…遺言状から読み取る天下人の最期

プレジデントオンライン / 2023年10月14日 11時15分

淀君(茶々)の肖像画(画像=「伝 淀殿画像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

ドラマや映画では哀れな最期として描かれることが多い豊臣秀吉の死に際。作家の濱田浩一郎さんは「秀吉は、死ぬ直前にも手紙や遺言の覚え書きなどを遺している。もちろん後継者の秀頼を産んだ淀君のことは尊重しているが、どちらかといえば、幼い秀頼のことばかりを案じていたようだ」という――。

■死の2カ月前から食事も取れず急速に衰えていった秀吉

大河ドラマ「どうする家康」第39回は「太閤、くたばる」。豊臣秀吉の死のさまが描かれます。慶長3年(1598)8月18日、天下統一を成し遂げた一代の英雄・秀吉はこの世を去ります。

その年の6月17日、伏見城にいる秀吉は「五もじ」という女性に宛てて、一通の手紙を書いているのです。「五もじ」が秀吉とどのような関係にあった女性か、詳細は不明ですが、一説には秀吉の側室「松の丸殿」(京極高次の妹)ではないかとも言われています。

さて「五もじ」に宛てた書状には、当時の秀吉の身体状態が分かる記述が散見されるのです。例えば「十五日の間めし(飯)を食い申さず候て、めいわく(迷惑)いたし候」との一文。秀吉は6月2日ごろから、食事を満足にとることもできず、閉口していたのです。ところが、そのような状態であるにもかかわらず、秀吉は昨日(6月16日)、気晴らしに「普請場」(伏見)に出かけたといいます。

当然、無理をしたことがたたり「いよいよ次第に弱り候」というありさまになったとのこと。ちなみに「五もじ」もこのとき、何らかの病だったようで、秀吉は心配して彼女に手紙を書いているのです。秀吉というと最近、残虐・冷酷な側面ばかりが強調されますが(筆者も指摘したこともありますが)、単なる冷血漢ではなく、人情味も持ち合わせていたのです。

■11カ条を記した秀吉の遺言覚え書きの内容とは?

秀吉は病の「五もじ」に対し、養生して少しでも体調が良くなったならば、自分(秀吉)のところに来てほしいと願っています。秀吉は本書状の追伸にて、この手紙は「丈夫な時の一万通に相当するものだ」と述べています。病気により、筆を執るのも大儀で、苦労して書いたことが窺えるでしょう。

秀吉は、死の2カ月ほど前から、かなり衰弱していたのです。自分はもう長くはないことを悟っていたかもしれません。7月15日、秀吉は病床で遺言を述べます。これまでの経緯からすると、声もかなり弱っていたことでしょう。その秀吉の遺言は、書き留められました。11カ条にもなる「遺言覚書」です。

■まだ子どもの秀頼が心配で、家康や前田利家に懇願した

覚書の最初に登場するのは「内府」、つまり、徳川家康でした。家康が「律儀」であることを秀吉が見て取り、近年、昵懇(じっこん)にしてきた。よって「秀頼(秀吉の後継者)を孫婿にして、秀頼を取り立ててほしい」と秀吉は前田利家や年寄衆5人のいるところで、たびたび懇願していたようです。家康の子・徳川秀忠の娘(千姫)は、秀頼に嫁ぐことになりますので、家康は秀吉との約束を守ったと言えましょう。

豊臣秀頼像(画像=養源院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
豊臣秀頼像(画像=養源院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

家康の次は、大納言殿(前田利家)に対する遺言です。利家は秀吉とは昔からの知り合いであり、これまた「律儀」ということを知っている。秀頼の傅役(もりやく)とするので、秀頼を取り立ててほしいと、秀吉は利家に願っています。家康や年寄衆5人がいるところで、秀吉は懇願したようです。

「江戸中納言」(徳川秀忠)にも、秀吉は遺言を残しています。それは、秀頼の舅(しゅうと)(妻の父)となること、そして、家康が老いて病気がちとなっても、家康のように、秀頼の世話をしてほしいとの願いでした。前田利長(利家の子)や宇喜多秀家、上杉景勝・毛利輝元といった有力大名にも、秀頼のことを頼むと秀吉はこのとき、述べています。

そして「年寄共五人」=五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)は、誰であっても法度に背くようなことをしたならば、仲違いした双方の者に「意見」し、仲良くするようにしてほしいとも秀吉は語っているのです。

■家康ら五大老に裏切り者がいたら処断してもよいと遺言

もし、それでも聞かない者がいたならば、斬っても良い。それは、追腹(家臣が、死んだ主君のあとを追って切腹すること)と同様と思え、もしくは秀吉に斬られたことと同様に思えと語っています。秀頼に顔を張られたり、草履を直すことがあったとしても、それは秀吉がやったことだと思い、秀頼を大切にしてほしいとも言っています。要は、ほとんどが、自分(秀吉)の死後、秀頼を頼むという内容です。

鋭敏な秀吉のことですので、自らの死後、法度に背いて、勝手な行動をする輩が出ることは見越していたでしょう。そのような不届き者が出たときは、五大老のなかで談合し、先ずは、なんとか穏便に済ますようにしてほしい。穏便に事を済ますことが困難ならば、不届き者は成敗して良いと秀吉は五大老に遺言したのです。

■秀吉は死の間際、天下のかじ取りを家康に託そうとした

『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)によると、病状が悪化した秀吉は、家康と前田利家をそばに招きます。そして、次のように言ったとされます。「私の病は重く、そう長くはない。秀頼が15、16歳になるまで、命を永らえたいと思っていたが、それがかなわないことは悲しいこと。私が死んだ後は、天下の大小のことは、皆、内府(家康)に譲ろうと思う。私に代わって、万事、よきに計らえ」と。秀吉は、何度もそう繰り返したようです。

しかし、家康は秀吉の申し出を固辞。すると、秀吉は「それならば、せめて秀頼が元服するまでは、内府がその後見をし、政務を執って欲しい」と言ったそうです。そして、前田利家に向かい「天下のことは内府に頼んでおけば、安心。秀頼の補導(ほどう)に関しては、ひとえに、利家の教諭を仰ごうぞ」と依頼します。利家は涙を流して、秀吉の言葉に感謝したようです。

秀吉の御前から引き下った後、家康は利家に「殿下(秀吉)は、秀頼のことのみが、お心に懸かるようだ。殿下の遺命に背かないという私と貴方の誓状(誓約書)を進上すれば、殿下も安心されるのではないか」と提案します。利家もそれに賛同したので、2人は誓状を秀吉に提出したことから、秀吉は大いに喜んだそうです。

大阪城豊國神社の豊臣秀吉公像
写真=iStock.com/Sanga Park
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sanga Park

■秀吉の死因は腎虚(精液欠乏による衰弱)という説もあり

同年8月5日、秀吉は自筆の遺言状をしたためます。「返す返す、秀頼の事、頼み申し候」という有名なものです。「五人の衆(五大老)に頼み申し上げ候、委細、五人の者に申し渡し候(中略)秀頼の事、成り立ち候ように(中略)頼み申し候。何事もこのほかには、思い残すことなく候」とあります。死の間際の秀吉の脳裏には、やはり秀頼の行く末のことが占めていたのです。

秀頼は、秀吉と淀殿との間に生まれた子であるとの説が一般的ですが、実は秀頼は秀吉の子ではないという「異説」もあります。秀吉は子種がないと思われており、秀頼は、淀殿と大野治長(淀殿の乳母・大蔵卿局の子)が密通して生まれたとする俗説が江戸時代からあるのです。

秀吉の死因についても諸説あります。例えば、毒殺説。明国(中国)の使節により毒殺されたとの説もあるのですが、確かな根拠なき、俗説でしょう。病死説が妥当と思われます。では、どのような病で亡くなったのか、それも諸説あります。女性との性交が多過ぎたためによる腎虚(精液欠乏による衰弱)死亡説がありますが、それだけで死んだとも考えられません。亡くなる数年前から咳をしきりにしているということで労咳(結核)死亡説もあります。歴史学者の故・桑田忠親(國學院大學名誉教授)は労咳説が「最も無難」と述べています。

■死ぬ前の秀吉は淀君に翻弄され正気を失っていたのか

さて、秀頼の生母は淀殿(茶々)ですが、秀吉は「御ふくろ(袋)さまへ」として、淀殿にも手紙を書くことがありました。年未詳12月8日付の秀吉の淀殿宛書状には「秀頼に次いで、懐かしく思っている」「6、7日のうちに参上し、積もる話をしたい」「秀頼様が冷えないようによく気を付けてください」と書いてあります。淀殿に対する「愛」や思いというものも感じられますが、秀吉はこの時も、秀頼のことで頭がいっぱいのようです。秀吉が末期に「秀頼のことを頼む」と重臣たちに繰り返し述べたことをほうふつとさせます。

ドラマなどにおいては、秀吉は淀殿に夢中になり冷静な判断ができなくなっているように描かれますが、秀吉の書状を見る限りでは(前述の書状でもそうですが)、淀殿というよりは、秀頼に夢中のように見受けられます。遺言の内容もおかしなことを言っているわけではありませんので、痴呆(認知症)が進んでいるようにも思えません。

さて、秀吉は前述のように8月18日、62歳でこの世を去ります。

辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」。

この瞬間から、秀吉が一代で築いた豊臣家の天下は崩壊に向かっていくことになります。

※主要参考文献
・桑田忠親『太閤秀吉の手紙』(角川文庫、1965)
・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス、2022)

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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