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今では岸田首相が3日間泊まっただけで大批判…戦後の政治家が"郊外の避暑地"に滞在していた驚くべき日数

プレジデントオンライン / 2024年1月11日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/oluolu3

戦後のある時期、夏になると政治家たちは東京を離れて避暑地や温泉地で過ごしていた。政治学者の原武史さんは「1955年の夏は、当時の首相である鳩山一郎が軽井沢に、昭和天皇が那須に、吉田茂が箱根に長期滞在していた。その間、政治家や官僚らはこれらの土地を往来していた」という――。

※本稿は、原武史『戦後政治と温泉 箱根、伊豆に出現した濃密な政治空間』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

■3日間で軽井沢、那須、箱根を往来した重光葵外相

1955(昭和30)年8月19日から21日にかけての3日間、重光葵(しげみつまもる)外相は東京を空け、軽井沢、那須、箱根と別々の場所に向かい、現首相、天皇、前首相に訪米の目的を報告し、広く意見を交換した。東京の首相官邸や皇居、あるいは神奈川県の大磯にあった吉田茂の本邸(現在は旧吉田茂邸として公開)で行われるべき会談が、東京から100キロ前後離れた避暑地や温泉地で連日行われたのだ。

それらの会談は、訪米という大きな公務の前にしておくべき、もう一つの公務だった。32年の第一次上海事変の際、爆弾で片脚を失った重光にとっては、ハードな3日間だったに違いない。重光は、自分より大きな権力や権威をもつ(と考える)3人が滞在していた場所に、連日通ったことになる。

3人そろって東京にいないときにわざわざ訪れることもあるまいと思われるだろうか。だが彼らが帰京するのを待つわけにもいかなかった。鳩山は55年8月2日から9月27日にかけて、天皇は同年8月1日から8月27日にかけて、そして吉田は正確な期間はわからないものの新聞や『吉田茂書翰』(中央公論社、1994年)や『吉田茂書翰 追補』(中央公論新社、2011年)所収の書翰から察するに少なくとも同年7月下旬から9月上旬にかけて、それぞれ軽井沢、那須、箱根に長期滞在したからだ。

■東京、軽井沢、那須、箱根を往来した政治家や官僚たち

その間に、政治家や官僚らが東京と軽井沢、那須、箱根の間を往来した。

重光のほかにも、8月14日には外務官僚の朝海浩一郎(あさかいこういちろう)が小涌谷を、8月18日と23日には栃木県知事の小川喜一(おがわきいち)と元国務大臣兼情報局総裁の下村宏(しもむらひろし)が那須を訪れている(『朝海浩一郎日記』、千倉書房、2019年および『昭和天皇実録』第12、東京書籍、2017年)。また7月31日には小涌谷に近い湯の花ホテル(現・箱根湯の花プリンスホテル)で堤康次郎(つつみやすじろう)・前衆院議長と池田勇人(いけだはやと)・自由党総務が立ち会って吉田と緒方竹虎(おがたたけとら)・自由党総裁が約4時間会談し(『日本経済新聞』1955年8月1日)、9月10日には重光に随行して訪米した日本民主党幹事長の岸信介(きしのぶすけ)が軽井沢を訪れ、翌日に鳩山と会談している(『鳩山一郎・薫日記』下巻)。

現在の感覚では、到底あり得ない話である。2022年8月を例にとれば、岸田文雄首相は17日から19日まで伊豆長岡(いずながおか)(静岡県伊豆の国市)の温泉旅館・三養(さんよう)荘に滞在しただけだったが、それでも野党から批判を浴びた。現天皇は那須、葉山、須崎のどの御用邸にも滞在しなかった。いまとなっては、1955年夏の軽井沢、那須、箱根に濃密な政治空間が成り立っていたことを想像すること自体が難しくなってしまった。

■「軽井沢の空気は自由にする」政治空間としての軽井沢

政治空間としての軽井沢については、政治学者の御厨貴(みくりやたかし)が『権力の館を歩く 建築空間の政治学』(ちくま文庫、2013年)や『権力の館を考える』(放送大学教育振興会、2016年)で詳しく取り上げている(双方ともに同じ文章)。

近代日本の避暑地の中でも、霧の軽井沢は特異な位置を占める。宣教師、華族、外国人、皇族、政治家、財界人、文人など多彩な人々が、夏期に東京から集中移動するようになったのはここだけだった。高貴でプレーンでという土地柄になりゆく間に、彼等の別荘は定着していった。〔中略〕
だから「軽井沢の空気は自由にする」といった雰囲気が醸成されていった。権力者の館も高い塀で囲いこむことなく、広大な敷地と木々の中に点在する館といった開放的なイメージである。〔中略〕東京での身分や立場を一瞬忘れ去り、軽井沢別荘族としての絆の中に、自由と平和が享受される空間が演出される趣なのだ。そこで交わされる会話は、サロン風に世相批判から社会批判、それが高じて時に政治批判となることもしばしばであった。
(前掲『権力の館を歩く』)
長野県軽井沢町のヴィラ通り
写真=iStock.com/ranmaru_
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ranmaru_

■夏に東京から集う人々による「軽井沢別荘族としての絆」

御厨が言うように、軽井沢の特徴は夏に東京から多彩な人々が「集中移動」し、比較的狭い区域に滞在することで、「軽井沢別荘族としての絆」が生まれるところにあった。重光自身、「軽井沢は夏の東京とも云はれて帝都に於ける知名の士が七、八、九月のある期間殆ど此の地に来ない人はないと云つても差し支ない位であつて、外国人は遠く支那、香港、マニラ等から避暑に来り、夏期の国際都市の観を呈する」(「霧のろんどん 続篇」、『続 重光葵手記』所収)と述べている。

政治学者の佐藤信によれば、歴代の首相のなかで初めて軽井沢に別荘を構えたのは桂太郎(かつらたろう)だった(『近代日本の統治と空間 私邸・別荘・庁舎』、東京大学出版会、2020年)。「桂園(けいえん)体制」と呼ばれる体制を築いたもう一人の首相、西園寺公望(さいおんじきんもち)とは、軽井沢で会談している。ほかに大隈重信(おおくましげのぶ)や近衛文麿も別荘を構えたが、大隈が別荘を建てたのは首相を辞めてからだったのに対し、大正末期に別荘を建てた近衛は首相在任中の夏に軽井沢に滞在する習慣を続けた。第二次近衛内閣を組閣する1940年7月には、軽井沢で政治学者の矢部貞治(やべていじ)らとともに陸軍を抑えるための「近衛新体制」の構想を練っている(『矢部貞治日記 銀杏の巻』、読売新聞社、1974年)。

■冬の寒さは厳しく、氷点下15度を下回ることもあった

しかし近衛首相の軽井沢滞在は、基本的に夏の週末に静養するだけだった。新体制の構想を練ったときでも、40年7月6日から16日まで滞在したにすぎない。自殺する直前の45年11月27日から12月11日にかけて例外的に初冬の軽井沢に滞在したことがあったが、それでも半月間の滞在にとどまった。1カ月あまりにわたって軽井沢に滞在した首相は、鳩山が初めてだった。

ただ軽井沢にも難点があった。東京から行く場合、距離的には那須よりやや近いものの、群馬県と長野県の県境で急勾配の碓氷(うすい)峠を越えなければならないため、那須より所要時間がかかった。しかも上野から黒磯に直通する東北本線の列車や、東京から小田原に直通する東海道本線の列車に比べて、上野から軽井沢に直通する高崎線や信越本線の列車の本数は、はるかに少なかった。冬の寒さも厳しく、氷点下15度を下回ることもあったが、別荘の集まる旧軽井沢地区にはほぼ温泉が出なかった。

昭和天皇や吉田茂は、似たような別荘の集まる軽井沢よりも、広い敷地を有していて温泉が引かれた那須御用邸や小涌谷の三井別邸のほうを好んだ。軽井沢を好んだのは、昭和天皇よりも家庭教師のエリザベス・ヴァイニングに連れられて同地を初めて訪れた皇太子明仁(あきひと)(現上皇)のほうだった。重光もまた、軽井沢より温暖で周囲に同様の別荘が少なく、温泉の湧く奥湯河原のほうを好んだ。

■鳩山一郎、昭和天皇、吉田茂が眺めていた景色は全く違った

軽井沢は標高こそ高いが、碓氷峠を越えれば信越本線の軽井沢駅に近い旧軽井沢地区を中心に平原状の地形が広がっていて、高低差200メートルほどの離山(はなれやま)を除けば凹凸が少なく、別荘を「高い塀で囲いこむ」こともなかったために別荘族どうしの行き来がしやすかったのに対して、那須や箱根は地形の高低差があった。那須御用邸の本邸は東北本線の黒磯駅より約400メートル、小涌谷の三井別邸は箱根登山鉄道の箱根湯本駅より約500メートル、それぞれ高いところにあった。

原武史『戦後政治と温泉 箱根、伊豆に出現した濃密な政治空間』(中央公論新社)
原武史『戦後政治と温泉 箱根、伊豆に出現した濃密な政治空間』(中央公論新社)

黒磯駅から那須御用邸までは、比較的ゆるやかな坂道が直線状に続いた。昭和天皇の侍従だった入江相政(いりえすけまさ)は、「那須の景観は、日本のほかのどこにもないような見事なもので、御用邸は那須岳の裾の、海抜六百余メートルの所にあるが、それから裾の関東平野まで、そのままの傾斜でなだれ込んでいる。だから初秋になって空気が澄んでくると、遠く筑波山までが手にとるように見える」と述べている(『濠端随筆』、中公文庫、2005年)。

一方、箱根湯本駅から小涌谷までの国道はカーブが多く、勾配もきつかった。箱根外輪山に囲まれた三井別邸では、那須御用邸に匹敵する眺望を得ることはできなかった。鳩山一郎、昭和天皇、吉田茂は、同じく55年8月に東京を離れ、関東周辺に滞在しながら、全く異なる風景を眺めていたことになる。

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原 武史(はら・たけし)
政治学者
1962年生まれ。放送大学教授、明治学院大学名誉教授。早稻田大学政治経済学部卒業、東京大学大学院博士課程中退。専攻は日本政治思想史。98年『「民都」大阪対「帝都」東京──思想としての関西私鉄』(講談社選書メチエ)でサントリー学芸賞、2001年『大正天皇』(朝日選書)で毎日出版文化賞、08年『滝山コミューン一九七四』(講談社)で講談社ノンフィクション賞、『昭和天皇』(岩波新書)で司馬遼太郎賞を受賞。他の著書に『皇后考』(講談社学術文庫)、『平成の終焉』(岩波新書)などがある。

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(政治学者 原 武史)

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