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朝ドラでは強調されない…父は帝大出の銀行マンで帰国子女、最難関校に合格した三淵嘉子のハイスペック要素

プレジデントオンライン / 2024年4月11日 8時15分

三淵嘉子・新潟家庭裁判所長、1972年6月14日 - 写真=時事通信フォト

ドラマ「虎に翼」(NHK)のヒロインのモデルとなった女性初の裁判長・三淵嘉子。実際にはどんな人物だったのか。作家の青山誠さんは「シンガポールで生まれた嘉子は、幼い頃から自己主張がはっきりしていて4人の弟を圧倒。その意志の強さゆえに、女性の弁護士資格取得第一期となり、ついには裁判長になるという偉業を成し遂げた」という――。

※本稿は、青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(角川文庫)の一部を再編集したものです。

■4人の弟たちを恐れさせたゴッド・シスターだった

『追想のひと三淵嘉子(みぶちよしこ)』(三淵嘉子さん追想文集刊行会)のなかで嘉子の実弟・武藤輝彦が姉について語っている。それによれば、

「弟共は『女性とは偉大でコワイモノ』、女尊思想に徹せざるを得ませんでした。すべて結婚まではオンナを知らないオトコになってしまいました。そして一生長女の特性=一種のワガママを貫く『ゴッド・シスター』でした」

と、語っている。嘉子の下には輝彦をはじめとして4人の弟がいたのだが、彼らにとって姉は、強烈な個性を主張しつづける傍若無人な暴君と映っていたようではある。

■日本初の女性裁判長という偉業が成せたのは強い個があったから

従来の常識や大方の意見に流されることなく、自分の信じた道を突き進む。そうでなければ「日本初の女性裁判長」となる偉業を成し遂げることはできない。しかし、個を強く主張すれば「わがまま」「空気が読めない」と疎まれるのは、現代の日本でもよくあることだ。だが、不思議なことに、嘉子は嫌われることがなかった。弟の「姉いじり」にも深い愛情のようなものを感じる。

家族以外の相手にも個を主張することはあったのだが、

「嘉子さんらしいなぁ」

と、それが好意的に受け止められる。彼女はその強い個性を世間と上手く協調させる術すべを身につけていた。無意識に好き勝手な振る舞いをしているように見えて、これで意外と周囲の人々の反応をよく見ている。相手の許容範囲を測りながら、押したり引いたり。やり過ぎたと思えばフォローも忘れない。愛されキャラの暴君。豊臣秀吉みたいな感じだろうか。

弟たちには暴君であった嘉子なのだが、父母に対する態度はちょっと違う。逆らわない、逆らえない。戦前の家庭で親の権力は絶対だ。しかし、幸いなことに父や母は嘉子のような暴君ではない。頭ごなしに自分の意思を押しつけて、子どもたちの個性を抑圧するようなことはしなかった。

■1914年、帝大出の父親のシンガポール赴任中に生まれた

三淵嘉子は大正3年(1914)11月13日にイギリス領シンガポールで生まれている。名前に使われている「嘉」の一字も、シンガポールの漢字表記「新嘉坡」に由来する。

嘉子の父・武藤貞雄は東京帝国大学法科卒業のエリート。彼が勤務する台湾銀行は大正元年(1912)にシンガポール出張所を開設し、そこへ転勤を命じられて新妻のノブを伴い赴任していた。

貞雄は四国・丸亀の出身で、地元の名家・武藤家に入婿して一人娘のノブと結婚した。ノブもまた当主・武藤直言の実子ではない。彼女の実父は若くして亡くなり、6人の子だくさんだった一家は生活に窮してしまう。そのため末っ子だった彼女は、伯父の直言に養女として引き取られた。

直言には子どもがいない。自分と血のつながるノブに婿を取らせて家を存続させる。最初からそれが養子縁組の目的だったのだろう。

シンガポールのカラフルな家並み
写真=iStock.com/IGphotography
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/IGphotography

■嘉子の母は資産家の養女で、継母に厳しくしつけられた

武藤家は金融業などを営む資産家で、大きな屋敷をかまえていた。しかし、かなりの倹約家でもある。家のことを取り仕切る義母・駒子も質素倹約の家風をかたくなに守り、まだ幼かったノブにも容赦なくそれをたたき込んだ。便所紙を使いすぎるとか、ささいなことですぐに説教される。また、掃除や洗濯などの家事にもこき使われた。倹約家なだけに、広い家に見合うだけの女中を雇っていなかったのだろうか。

義母はかなり細かく几帳面(きちょうめん)な性格でもあり、一切の妥協を許さない。仕事に手抜かりがあればまたしっ責される。ノブとは血縁のない赤の他人。血の通った母娘であれば、その受け取り方もまた違っただろうが。

義母の小言は、女中奉公にだされた先で女主人からしかられているよう。そこに愛を感じることはなかったようである。幼な子が親元を離れて暮らすのは辛い。それにくわえてこの仕打ち。恨んだこともあっただろう。

ノブは晩年になってから、子や孫たちによく自分の昔話をするようになる。そこに義母の話がでてくると必ず「性格のキツイ人」「厳しい人」といった表現が使われる。

母と娘というよりは、嫁と姑のような感じでもあり、長い年月が過ぎていたのだが、わだかまりは残っていたようだ。

それでも女学校には通わせてもらった。女学校卒の経歴は、それなりの階層においては結婚に有利な条件のひとつになる。義父母にはそんな思惑があったのだろう。もっとも、この時代はどこの家でも娘を女学校に通わせる目的はそれだった。

■母は「結婚こそが女の幸せ」という価値観の下で育った

花の女学生、人生でいちばん楽しい時のはずなのだが……、あいかわらず義母は家事をあれこれと言いつけてくる。色々とやることが多すぎて、友達と遊ぶ暇などはない。サボればまた義母から厳しくしかられる。常にその目を意識して、文句を言われぬよう細心の注意を払う。家の中では常に緊張を強いられてリラックスすることができなかった。

結婚するまで包丁も握ったことがない女性も多い現代とは違う。この時代はどこの家庭でも、母親は娘に家事を手伝わせて家事のスキルを身に付けさせようとする。また、家計を任される妻の責任を自覚させるために、質素倹約の精神を教え込む。

女の幸せは良縁に恵まれること。そして当時の男たちが求める理想の妻は、家事を万事そつなくこなして夫を献身的に支え、子どもの教育もしっかりとできる。いわゆる“良妻賢母”。それが女性のめざすべき姿だと信じられていた。

義母もまた、ノブを良妻賢母に育てることが自分の使命と思っていたのだろう。彼女の場合は少しやり過ぎの感はあるのだが。

■明治時代は賃金格差が大きく、女性の稼ぎでは暮らせなかった

明治時代末期、労働現場での男女の待遇格差は現代人の想像を絶するほどに激しかった。官僚や一流企業に勤めるには大卒の学歴は必須、しかし、東北大学等一部の例外を除きほとんどの大学が女子に門戸を閉ざしていた。

女性が安定した月給を得られる職といえば教師ぐらいしかないのだが、そこでも給与や待遇では不利を強いられる。

庶民階級の日雇い仕事では、男女の待遇格差がさらに大きくなる。『日本帝国統計年鑑』によれば、明治時代末期の工場労働者(紡績)の平均日給は男性が44銭で女性は28銭。その差は1.6倍にもなり、女性が月に25日働いて得られる収入は7円にしかならない。

明治36年(1903)にまとめられた労働事情の調査書『職工事情』によれば、世帯の平均支出は1カ月で11円88銭と記されている。男性労働者の賃金でも生活するのはぎりぎり、女工の収入で一家の家計を賄うのは不可能に近い。

女性が独力で生きるには、食住が提供される女中奉公か工場の寮に入るしかない。それも年齢が高くなると色々と難しくなってくる。つまり、男性の庇護がなくては、まともな暮らしができないということ。だから女性たちは婚期を逃すことを恐れた。

■父親は女性の自己主張を毛嫌いする日本社会を疑問視

嘉子が2歳になった時、貞雄はニューヨークに転勤となり、彼女は母・ノブとともに丸亀の実家へ戻って父の帰国を待った。シンガポールから日本へ。嘉子もまた周辺環境の激変に困惑しただろうか。しかし、当時はまだあまりに幼く、丸亀での暮らしについて彼女はほとんど記憶していない。

大正9年(1920)になると、貞雄は4年間のニューヨーク勤務を終えて東京支社に戻ってきた。一家の東京での新生活が始まる。東京に引っ越してから間もなく、嘉子は家の近くにあった早蕨(さわらび)幼稚園に通うようになった。

アメリカでの生活を経験した貞雄は、もともと持っていた自由主義的思考がさらに強くなっている。女性の自己主張を毛嫌いする日本社会には疑問を抱いていた。だから、娘の言動をむしろ面白がっているようなところがある。嘉子の最大の理解者であり、心強い応援団だった。

■母親は「女が個を主張しないほうがいい」と心配する

母親のノブにはそこまでの確信はなかった。やりたいことをやらせてあげたい。そう思う反面、このままで娘は本当に大丈夫だろうか? と、不安にもなる。心境は複雑だった。また、昔から教え込まれてきた固定観念がいまだ強く残り、女が幸福を得る手段は良縁に恵まれることしかないと思い、これを否定することができない。

女が良縁に恵まれるには、個を主張しないほうがいい。一歩身を引いて夫に従う良妻賢母であること。最愛の娘がそれと正反対の道に突っ走っていたのだから、それは心配にもなってくる。

青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(角川文庫)
青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(角川文庫)

このままでは困る。が、自身が義母に監視されつづけて抑圧された日々のことを思うと、嘉子にはそんな苦しさを味わわせたくはない。シンガポールでの自由な生活を知らなければ、いまもそれが普通と信じて、娘の行動をすべてワガママだと抑えつけて口うるさく説教していたかもしれないのだが。

しかし、娘の世代には自分と違った価値観がある。それを知ってしまったがゆえのジレンマ……。娘の行く末を不安視しながらも、よほどのことがない限り干渉することは避けていた。

そんな両親のもとで育まれ、嘉子は自由にのびのびと成長していった。

そして、当時、入試の倍率が20倍にもなった最難関の東京女子高等師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学付属高校)に合格。そこでもトップクラスの成績を維持する。

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青山 誠(あおやま・まこと)
作家
大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。

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(作家 青山 誠)

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